ゆらり ゆらめく恋心
どこかしら 危うげで
切なくて、切なくて
でも ひどく ひたむきな
そんな ふたりの


蜻蛉


ゆらり。
背後から不意に現れたか細い躰に、シノの目が奪われる。
蜻蛉。
透ける翅と、ゆらゆらゆらめく酷く危うげなその姿。
群青色の浮世に浮かぶ、シノと、蜻蛉の邂逅。
キバは――。
その一瞬の出逢いを、ただ、遠くから見つめるしかできなかった。

変な夢を見たもんだ。
と、キバは青々と茂った樹木の梢を見上げながら思った。
群青色の世界に浮かぶ、儚げな蜻蛉。
それを振り返るシノ。
前後の流れは何もなく、薄闇の中でシノと蜻蛉が出逢うワンシーンのみの、まるで絵を見るかのような夢。
奇妙な夢だった。
キバはそれを遠くから見ていたのだが、遠い割にはっきりと、薄暗い割にくっきりと見えていたし、夢のくせに未だに覚えている。
そして頭から離れない。
キバを取り残して交わる、ふたりだけの世界。
薄闇に混じり、溶け、そのまま遠くへ逝ってしまいそうな…。
とにかく、気分の良い夢ではなかった。
だが、梢に貼り付いた蝉を見上げ、降り注いでくる喧しい鳴き声を浴びた今、キバの気分は上昇傾向にある。
青い空や、白く大きな入道雲。
生い茂る緑と、煌めく太陽。
そんな色鮮やかな、見事な夏の風景が、判然としない群青色の世界を爽快に吹き飛ばしてくれているのだ。
枝に取り付けられた、赤い提灯も理由のひとつ。
間近に迫った夏祭りの提灯だ。
「あっ!ちょっと、キバ!」
「ぁあ?」
突然呼ばれて、キバは梢を見上げていた頭をその声の方に捻った。
その声に驚いたのか、ジジジッと、梢に貼り付いていた蝉が飛び立つ。
路の彼方まで連なる赤い提灯の下、ゆらめく陽炎の向こうから駆けてきたのは、サクラだった。
「ちょうどいいところに居た!ねえ、シノ何処にいるか知らない?」
何事かと思いきや、開口一番それである。
せっかく上昇傾向にあったキバの機嫌が、再び降下した。
「……何だよ…。俺はアイツの案内掲示板じゃねーぞ」
キバは不服そうに言ったのだが、
「でも、わかるでしょ?鼻で」
と、サクラによってあっさり切り捨てられてしまった。
「っ、あのなぁ!俺の鼻はヤツの探知機じゃ―――!」
「いいから!もう!わかるの?わからないの?」
どっち!と迫られ、キバは少し気圧されて、唇を突き出しあからさまな反抗を示しながらも。
「……わかるに決まってるだろ。俺を、誰だと思ってんだ」
と、拗ねた態度ではあるものの結局は白状させられた。
しかしサクラはそんなキバの態度など歯牙にもかけず、にっこり笑って言い放つ。
「そっ。なら、伝言頼むわ。『陽暮れ前に、火影様の執務室に来て』って」
「何で俺が―――ってか、何だよ。アイツだけ?」
「そうよ」
「任務か?」
「そう」
「何だよそれ!!何でアイツばっか!」
憤るキバに、サクラはわたしに言わないでよ…と顔を顰め、
「いい?とにかく、ちゃんと伝えてよ?」と釘を刺してからさっさと踵を返して去ってしまった。
キバは、自分が伝言板にされる理由を訊き逃したことになるのだが、最早そんなことは頭に無かった。

何だよ。アイツだけ…。
何だよ。
俺は、
また

ジリジリジリジリジリジリ、と、耳を劈く蝉時雨が、キバの上に降り注いだ。




「……………」
頭上に降り立った気配に、閉ざしていた瞼をそっと持ち上げる。
「みぃ~っけ」
気配の主のシルエットが、シノの顔を上から覗き込んで、まるで幼い子どものような第一声を発した。
だが、シルエットの中に窺える顔は無邪気ではない。
ムスッとした仏頂面で、子どもと言うより餓鬼である。
「……………」
「……何か言えよ!わざわざ俺が出向いてやってんだぞ!暑中見舞いのひとつでも―――」
「降りろ」
「あ?」
捲し立てるキバを、シノが一言で遮った。
言葉を浴びせ損なったキバがますます不機嫌そうな返事をすると、シノはキバを真正面に見据えながら、言った。
「………立っている人間に、上から話し掛けるな」
上下が90度回転する。
キバは、壁にもたれて立つシノの頭上――つまり壁にしゃがんでシノを覗き込んでいたのだ。
眉を寄せたシノと、仏頂面のキバの視線が、奇妙な平衡感覚の世界で交差する。
崩れた天と地。
紙一重の均衡。
「………降りろ。頭に血が上るぞ」
均衡を取り戻したのは、シノだった。
「………もう上ってら」
そう言いながらキバは壁を蹴り、くるっと半回転して地に降り立った。
天地がその安定を取り戻す。
「………何の用だ」
「おまえさぁ!」
シノが問うのを、キバは態とらしく音量を上げた声で遮った。
「バカなんじゃねーの!?」
「………」
眉間の皺を深めるシノ。
だがキバはそんなシノを見向きもせずに、欄干に片足を乗せて額の辺りに手をかざした。
眼下には、木ノ葉の里が一望できた。

空が色褪せている。
太陽が夕陽に顔を変え、雲も木々も街も人もその陰を伸ばし、茹だるような暑さは夕涼みへと変貌しつつある。
蝉の鳴々は、蜩が主導権を握っていた。

「ほら、よく言うだろ?バカは天辺に登るって」
街並みを見渡しながら、キバは可笑しそうに言った。
「そういや、虫も上に向かう習性があるんだっけか?お前の場合、そっちか」
振り向かずに続けるキバの背を、シノは黙って見つめた。
シノが黙っているのでキバの明るい声はどこか虚しく、後に残った余韻もまた、黄昏の虚空へと吸い込まれるように消えて逝った。
「…………」
「…………」
「………だから、」
キバが振り返る。
「何か言えよ」
キバの鋭い視線を受けて、シノは少し間を置いてから――気の利いた科白でも考えたのかもしれないが、思い付かなかったらしく――
いつも道理の調子で言った。
「用件は何だ」
キバは、微笑った。
諦めたような、少し、寂しそうな…そんな表情。
だがすぐ気を取り直したように欄干に背を預け両肘を乗せると、シノを真正面に見据えて挑発的に答えた。
「サクラからの伝言。『日暮れ前に、火影の執務室に来い』ってよ。良かったな、お前の好きなオシゴトだ」
キバの挑発に、シノが眉を寄せる。
日暮れは、もう、すぐだ。
もちろん、こんなにギリギリまでキバが知らせなかったのは、わざとである。
シノが無言を以てその理由を問い質してきたが、キバは、
「ほら、さっさと行けよ。日、暮れちまうぞ」
と、しっしと虫を追い払うかのように、視線による追求を払った。
シノが益々訝しそうに眉を寄せるのが、黄昏時の夕闇の中にうっすらと見える。
―――困ればいいさ。
そう思いながら、キバはシノを睨み付けた。
そう、困ればいいんだ。
いつもいつも、俺を置いていくお前が悪い。
任務だって、あの
夢だって。
お前はいつも、俺を置いて――。


刹那。

夕陽が山の端に着いたのか、世界に薄闇のベールが掛かり始めた。
夜の帷が、降りていく。

群青色の世界が―――。