ゆらり
キバは目を瞠り、息を呑んだ。
蜻蛉が
シノの傍らに
揺らめいて
シノが
振り返―――
キバは咄嗟に欄干を放し、間合いに踏み込んで、シノの手首を掴んでいた。
―――ダメだ。
―――そっちを見るな。
―――こっちを
―――俺を見ろ!
ゆらり
蜻蛉がゆらゆらゆれて群青色の世界に溶けて逝く。
―――行かせない。
キバはシノの腕にしがみつき、消え逝く蜻蛉を威嚇した。
―――コイツはやらない。
―――オマエなんかに、やるものか。
―――コイツの世界にいるのは俺だ。
―――コイツの世界に浸って、溺れていいのは俺だけだ!
失せろ!!
蜻蛉がゆらゆらゆれて、消えて―――逝った。
それでもキバはシノの腕にぎゅっとしがみついて離さず、蜻蛉が溶けていった群青色の壁を睨み続けた。
毛が逆立ち、興奮が冷めない。
ダメだ。
行かせない。
そっちへは。
絶対―――。
「キバ」
キバは、シノの声ではっと我に帰った。
目を丸くして見上げれば、シノは揺らぐことなく其処に居て、腕に取り付いたままのキバを静かに見下ろしていた。
引き留められたのは――
俺の方…?
醒めた頭が、世界を認識する。
夕闇はすっかり宵闇となり、夜の帷は降りて日は完全に暮れている。
キバは群青色の世界に、シノと、ふたりだった。
「……どうした」
静かな低い声。それでキバは、漸く現実味を取り戻した。
そしてシノの腕にしがみついていることに気が付き、咄嗟に、
ぉあわわわわっ!!!と奇声を発して飛び退いた。
思わず顔が熱くなる。天辺に登るどころか、今すぐにでも赤丸の犬小屋に入ってしまいたいと、本気で思った。
「キバ……」
挙動不審なキバの様子に、シノが訝しげな声を発する。そして、極めて真剣な口調で問いかけてきた。
「俺が日暮れ前までに火影様の所へ赴くことに、何か不都合でもあったのか」
そんなものはない。
ふるふると頭を横に振れば、シノは続けて言った。
「では、何故お前は、ずっと俺を見ていたにもかかわらず、もっと早く知らせに来なかった。それについさっきも――
何故、引き留めた」
キバは、驚いた。
シノが先程のキバの行動をそのように捉えていたことにも驚いたが、それ以上に、ずっと見ていたことがバレていたことに
……驚いた。
そう。
キバは、サクラに頼まれた後すぐにシノを見つけていたのだ。
そしてずっと、その姿を、遠くから眺めていた。
気付かれていたとは……夢にも思わなかった。
キバはシノを見た。
シノは、宵闇に溶け込みながらも確かにそこに居る。
もう、群青色の世界ではない。
ひたと見据えてくるシノの視線に、キバは思い出したように目を逸らせ、暫し逡巡する。と。
惑う頭に、赤い提灯が浮かんだ。
「夏祭り……」
一緒に行こう――とは言えなかったから。
「……までには…帰って来い……よ」
と、ぼそぼそと言った。
「………………」
シノが沈黙する。
そして、キバの科白にもう続きが無いと判ると、
「……お前は、まさかそれを言うためだけに、俺を遅刻させたのか」
と言った。
その、至極ごもっともな言葉に、キバはうっと詰まる。
違う。
そうじゃない。
違うけど。
本当の事を説明するのは難かしい。
それに考えてみれば、蜻蛉一匹夢一つのため――ついでにいつも自分を置いて行ってしまうシノを困らせてやろうという、
実に自分勝手な理由――よりはマシに思えた。
黙りこくるキバの耳に、大きくて深い溜め息が聞こえてくる。
あまりにその溜め息が心底からのものだったので、キバは申し訳なく思う反面、何もそこまで…とも思った。
シノは夏祭りに行きたくないのだろうか。
確かに、夏祭りなんて所詮は一瞬の、儚い、夢のようなものだのだ。
祭りが終われば夏も終わりであり、惜寂を匂わせる。
シノはそういう、感傷めいたものは嫌いかもしれない。でも。
夏の祭りが、夏の終わりを告げるなら。
花火の消え逝く灯火が、夏の幕を閉じるなら。
それが一瞬の、夢のようなものなら、尚のこと。
一緒に居たいと思う。
その一瞬の、儚い一時を。
共に、過ごしたいと。
そう――
俺は
「……わかった」
シノの声が、キバを再び現実に引き戻した。
「夏祭りまでには、帰ってくる」
帰ってこよう……という努力ではなく。
帰ってくる、という断言。
「……っ………」
キバは―――。
何も言えなかった。
胸が一杯になり、口を開けば溢れそうなのに、喉の奥に引っ掛かる。
何も言えない内に。
「………では」
またな。そう言って、シノは。
―――行ってしまった。
あっさりと。あっけなく。
キバを置いて。
キバは、咄嗟に振り返った。欄干から身を乗り出す。
宵闇の中。
シノの背が、闇に溶けて行くのが見えた。
キバは―――。
悔しいのか寂しいのか判然としない気持ちを抱きながら、
それでも、
目を逸らさず、
そのぼんやりとした背中を見つめ続けた。
それしかできないなら。
せめてそれだけは。
取り残されたキバは、シノの姿が完全に闇に溶けた後も、暫くその後を見続けていた。
眼下に広がる木ノ葉には明かりが灯っている。
夜が来たのだ。
キバは、あの群青色の世界を思い出した。
黄昏時と、夜の狭間の、
あの一瞬の、
儚い、夢のような世界。
そこに、キバはシノとふたりだった。
一緒に―――。
キバは想った。
ゆらり ゆらめく
一緒に、溶けてしまえたらよかったのに―――
ユラリ

元絵
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