ひらり。
月光の闇の中に、一頭の蝶が舞い現れる。
整然と並んだ厳かな墓から墓へ。
ひらり。
ひらり。
一所に羽を休めたかと思えば、ふわりと浮き上がり、漆黒に溶けた。
それを合図に、ぽつん、ぽつんと蛍のような怪しい光がひとつふたつ。
みっつ、よっつ、いつつ…。
ゆらゆらとゆらめき、彷徨いだす。
地獄の釜の、蓋がひらいた…。
あっちの水こっちの水
ジジジジッ、と蝉が飛び立つ音に、シノは顔を上げた。
高くそびえ立つ梢の先に木漏れ日がきらきらと光って、思わず黒眼鏡の奥の眼を細める。
夏真っ盛りのこの時期、野外の気温は汗が噴き出る程だが、森の中は樹の作る陰や湿った大地のお陰で幾分も涼しい。
さわさわと鳴る葉の音も、なんとも涼しげだ。
シノは張り出した巨木の根の上に立ち、静かに目を閉じた。
さわりと吹く風が頬に当たる。
蝉の声、鳥の羽ばたき、触れた樹木の感触、瑞々しい香り。
全てが、とても心地良い。
暫くそうして森を感じてから、ふと目を開け、大きな根の上から飛び降りる。
着地した時には斜めに掛けた虫籠が大きく揺れ、反動で自分にはまだ少し大きい虫取り網を手放しそうになった。
アカデミー入学一年前の夏。
寡黙で不気味というイメージが定着した少年のこの姿をもし同級生が見たならば、呆気に取られること間違いなしだ。
しかし、彼はそんなことは気にしない。
体勢を立て直して、再び大地を踏み進みだした。
夢を、見た。
それはとても不思議な夢で、竹林の中を一頭の青い蝶が飛んでいた。
そして、その蝶の行く先には小さな川があり、明るいのに蛍の黄緑色の光が見えた。
おいで。
誰かが、言う。
おいで。
何処からともなく。
こっちへ、おいで。
甘い水に惹かれる蛍のように手を伸ばす。
何かが、微笑った。
目が覚めてからも、シノはその光景や感覚が忘れられなかった。
それが何故かわからなかったが、幻想的な青い蝶や蛍に惹かれているのかも知れないと、虫籠と虫取り網を手に出掛けて来たと言うわけだ。
家は朝から御盆の準備に忙しない様子で、シノも手伝うべきかと思ったが、皆手際が良く人手も足りているようで。
猫の手ほどの助力は、かえって邪魔になる。
そう考えて、黙って出てきた。
いつもならば誰かにきちんと一言言ってから出掛けるのだが、今回は言うタイミングがつかめなかったのだ。
それに、なんとなく言いたくないような気もした。
言ってしまったら、夢に見た蝶や蛍に会えないような気がしたのだ。
よくよく考えてみれば、とちらにせよ夢の中のモノに会えるわけはないのだが。
しかしこの時のシノは、会えるという根拠のない自信を抱いていた。
夢の竹林がどこにあるかなど知る由もなかったが、幸いにも油女家所有の森の一郭に竹林がある。
森の奥にあるため、シノは父に一度連れて行ってもらったきりだったが、特に立ち入り禁止だとも告げられなかった。
場所も、なんとなく覚えている。
もし迷ったとしても、蟲たちがいるので心配は要らなかった。
虫を傷つけずに捕獲し、少しの間観察させてもらうための虫取り網と虫籠を担いで歩くこと1時間。
目的地は眼前に現れた。
身体に余る荷物と歩きづらい道のりに少々へばりながらも、シノは首を傾げた。
こんなに近かっただろうか、と。
以前はもっと遠く感じた。
歩いて歩いて歩いて歩いて歩いて、漸く辿り着いたと記憶していたので、拍子抜けだ。
自分が大きくなった所為だろうが、なんとも奇妙な感覚だった。
首を傾げつつも、やはりそこは間違いなく竹林であり、目的地に違いない。
シノはよいせと虫取り網を担ぎ直して、竹藪の中へと姿を消した。
その頃。
廊下を歩きながら、シビは擦れ違う家人を引き留めてはシノの居所を尋ねていた。
今宵の迎え盆のため、胡瓜の馬と茄子の牛を作るのに熱中している間にどこかへ行ってしまったのだ。
今のところ、「何か手伝えることは」と言うシノに「ではこれを少し持っていてくれ」と竹籠を持たせたというのが最後の目撃証言である。
家の中は、静かながらも忙しい気配に満ちている。
盆は先祖の霊を迎える行事であり、その準備そのものは大したことはないのだが、これ程忙しないのは油女一族に与えられた大事な仕事があるためだ。
それは、寄魂の虫の提供である。
虫は古来より魂の依代、もしくは魂そのものと考えられてきた。
そのため、迎え盆では墓の前で竹籠に入った蜻蛉や蝶や蛍を外に出し、魂を招く風習となっている。
招かれた魂は家人の提灯や鬼灯に宿り、家まで運ばれるという寸法だ。
籠から出された虫はその家へと向かい、盆の間はその近辺を飛び回ることとなる。送り盆は反対に、竹籠に虫を入れるのだ。
その虫を寄魂の虫と言い、全て油女一族が用意する。
虫達にその仕事を教え込むのはさほど難しくはない。
なぜなら、全て油女一族と契約を結んでいるからだ。
ただ、やはり数が数なので、大変なことには違いない。
それに、たまに迷子になる虫がいたり子供が捕まえてしまったりと、問題も発生するため、御盆の間は気を抜けない。
シビはふと庭に目をやり、その奥に広がる森を見た。
ブブッという瞬間的な音と共に、大きな黒い蜻蛉が横切って行った。
カサリカサリと竹の落ち葉を踏み鳴らしながら、竹林の中を分け入っていく。
どこへ向かうでもないのに、足は軽快で、まるで行き先を知っているかのようだなとシノは他人事のように思った。
いつの間にかしんと静まり返り、あの浴びる程の蝉の声が全く聞こえないことも不思議に感じたが、深くは考えなかった。
まるで夢の中にいるような、ふわふわとした感覚。
それすらもすんなりと受け入れ、ただひたすら青い蝶を探した。
ここに居る、とわけもなく確信して、歩を進める。
時間は、どのくらい経ったのかわからない。
今自分がどこに位置するのかも、もうわからない。
ふと立ち止まって周りを見渡せば、どちらから来たのかもわからなくなった。
身体の中で、寄壊虫がざわめく。
警告を発しているのだと解る。
ここは危険だと。
それでも、危機感が起こらない。
危険。危険。危険。きけん。きけん。キケン―――――。
ぷっつりと、寄壊虫の声が途絶えた。
ザァァァと竹林がしなり、くるくると笹が降り注いでくる。
視界に笹の雨が溢れ、何も考えられなくなる。
キケン。ここは、キケン。
蟲たちの警告が頭の中で反芻されるが、その意味すら何かわからなくなる。
ただ、一つ。
おいで。こっちだよ
その声だけが、鮮明に頭の中に響いた。
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