気が付いた時、シノは変わらず竹林に佇んでいた。
笹の雨は止み、再び沈黙が支配する中で、ガサゴソとどこかから音がする。
何だと見回して、虫籠の中に何かが入っていることに気付いた。
見ると、青い蝶が一頭、籠の中で飛び回っている。
おそらく、あの、夢の蝶だ。
これは夢の続きなのだろうかと思いながら、シノは虫籠の蓋を持ち上げた。
ふわりと、青い蝶が羽根を広げて浮かび上がる。
竹林の蝶とは幻想的だな、と妙に感心して見ていると、蝶がひらひら移動し始めた。
離れては戻り、離れては戻りを繰り返す様子は、シノを誘っているようだ。
夢の中では、青い蝶を追って不思議な光に出会した。
この際他に選択する気にもならず、シノはその蝶に続く。
暫く付いていくと、水の音が聞こえてきた。
夢と同じ、1メートル程の草に隠れた小川。
そして、居た。
川の向こうに、黄緑色の光が浮遊している。
「呼んだのは、おまえか?」
シノが問うと、そうだよ、という声が頭に響く。
「おれに、何か用があるのか」
光が笑うように点滅し、答えが返る。
こっちにおいで。
そう言われても、と下を見る。
いくら小川といえど、シノがジャンプして渡るには微妙な幅だ。
大丈夫。
光が広がり大きくなって、次第に人の形を成していく。
そうして手を差し伸べた。
さあ、おいで。
ふわふわと麻痺した頭で、それでもシノはどうするか暫し躊躇った。
手を出しかけては引っ込める。
危険信号はもうないものの、ざわざわと体の中の蟲が落ち着かない。
けれど、その光はとても魅力的だった。
おいで。
そのぼんやりと響く声に導かれて、シノはとうとう手を伸ばした。
ゾクリとする程冷たい光の手に触れた途端、体が傾き足が地を離れる。
シノの手を掴んだその何かが、不気味な微笑を湛えた。
おいで、こっちへ。
意識が遠くなる。
おいで。
こっちへ
オイデ
ブブッという、瞬間的に耳を掠めた羽音にはっとする。
大きな黒い蜻蛉が目の前に現れたと思ったら、突然ぐんと後ろに強く引かれた。
小川の向こうに居た光が掻き消え、それと同時に小川も消えて、代わりに眼前に広がったのは深い渓谷。
「シノ」
はっとして振り向けば、シビがシノの襟首を掴んで引き留めていた。
「親父…?」
一体何が何なのかさっぱりわからず混乱しながらも、もう一歩で危うく谷へ落ちていた事を理解する。
蟲が発していた警告は、このことだったのだ。
竹林などどこにも見当たらず、危険だからと立ち入り禁止を言い渡されていた場所。
では先程までのは何だったのか…?
再び前を向けば、黒い蜻蛉の向こうをひらひらと青い蝶が舞っている。
夢では…ない。
「しっかりしろ」
屈み、呆然とするシノを後ろから抱き竦めながらシビが静かに言う。
「お前が姿を消してから、すでに3日が経っている」
「3日……」
「今日は、送り盆だ」
シビの言葉に反応したように、青い蝶が開け放しになっているシノの虫籠へひらひらと自ら入ってくる。
黒い蜻蛉も、シノの後ろに回り込み、シビの肩に留まった。
「シノ、帰るぞ。皆心配している」
「親父、おれは…」
「話は後だ」
シビは、混乱しているようなシノの頭に手を置いて、くしゃりと撫でる。
「帰ろう」
暑い夏も、夜ともなれば涼しい風がそよそよと吹き込んでくるようになる。
送り盆の仕事を終えたシビはシノの身に起きた事を整理しながら事象の把握を行おうとしていたが、雲を掴むような話にどうにもまとまらない。
帰路に付いてから、背中越しに聞いたシノの話は、それこそ幻術にかかったのではないかと思われる話だった。
実際蟲達は認識していないと言うし、シノ自身も夢の中に居るようだったと言っていた。
かといって家の敷地内で家族に幻術をかける者は居ないし、他者が入り込んだという形跡も無い。
シノが寝惚けて、と言いたいところだが、寝惚けたまま奥へ入り込める程容易な森でもない。
結局シノは家に着く前にシビの背に背負われたまま眠ってしまい、今は蚊帳の中でぐっすり寝入っている。
感覚的には半日も経っていなかったらしいが、現に3日経っていたのだから、無理もない。
そちらをちらと振り向けば、その枕元では、青い蝶が虫籠の中で大人しくしている。
この森の中では特に珍しい種でもない、よく見掛けるものだ。
不思議な力を有しているわけでもないだろう。
目を向け直せば、黒い蜻蛉が文机の端に置物のように留まっている。
こいつはすっかり忘れているしな……。
文机に肘をつけ頬杖を立て、シビは黒蜻蛉をじっと見据えた。
シノが姿を消し帰ってこないということで、次の日は家の者と蟲を遣って探したが、見つけることが出来なかった。
盆の仕事を他の者に頼んで探すこと数日。
送り盆の日になって、最近家の周りでよく見掛ける黒い蜻蛉の誘導するような動作に気付いた。
それに導かれて行ってみれば、シノが正に渓谷へ踏みだそうとしているところだったのだ。
この黒い蜻蛉は、その時点では何かしらを知っていたか気付いていたはずなのだが、今ではすっかり忘れ去ってしまっている。
黒い眼鏡にじっと見つめられた黒蜻蛉が、首を傾げるように頭を回す。
それに僅かに首を傾げ返して、シビは眉間の皺を解いた。
事を追求するには情報が少なすぎる上あやふやな情報ばかりでは、どうしようもない。
それに、シノの件以外里には何も起きてはおらず平穏であり、何かが起こる前触れとも思えない。
信じているわけではないが、地獄の釜の蓋が開き魂の通い路が開かれると言われる盆の間だ。
不思議なことが起きる事も、あるのやもしれない。
兎にも角にも、シノは無事帰ってきたのだ。
今のところ、それで良しとしておこうか…。
夢の中。
シノは蛍のような光がひとつふたつと消えていくのをぼんやりと眺めていた。
その薄闇の中から、一頭の蝶が舞い上がる。
ひらり。
ひらり。
暁の中へと溶けていく、蝶々。
こっちへ、おいで。
最後の灯と囁き声の余韻が溶けると、白朝の静寂が訪れた。
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あとがき
夏と言えば、怪談です。
なのでちょっと不可思議でひやっと怖いお話でした(か?)
こういう話は好きなのですが、文章にするのは難しいです…。
とりとめがなくなります。
御盆の話を書いていながら、今年もお墓参りに行きませんで。
御免なさい、ご先祖様方。
ちなみに寄魂の虫のあたりは全く私の創作で、現存する風習を参考にしたわけではありません。
が、虫と魂はけっこう関連付けて考えられているようです。
特に蝶や蜻蛉や蛍あたり。
ふらふらっとシノがついていって仕舞わぬように、気を付けねばなりませんね(笑)
(07/9/2)