Scene4.ヒナタの迷い
自分たちが…自分が、しっかりしなければいけないことは分かっている。
でも、しっかりしろと言われても、自分が何をしてあげられると言うのだろう…?
ヒナタはそんなことを考えながら重い足取りで帰路に就いていた。
紅に解散を命じられ、叱咤激励を受けても、結局キバは渋い顔をしたまま一言も発せずに行ってしまい、
ヒナタもヒナタで滲み出る涙を堪えるのに精一杯で、紅への挨拶もそこそこに逃げるようにして来てしまった。
家に帰るつもりだったのか何なのか、分からないままにとにかく歩いて、歩いて、気付けば河辺で。
涙ぐみ、赤くなった目鼻を見られないように、知らず知らず人目を避けて来たのだろう…と思い至ったのはだいぶ落ち着いてからだった。
しばらくは手擦りに凭(もた)れ、穏やかにきらめく川面を眺めながら風に吹かれていたのだが、こうしていても仕方がないと鈍く動き出し、のろのろとまた歩き始める。
そうして、考えていた。
自分は、どうしたらいいのだろう…と。
シノを叩いてしまった手は、心は、重く痛んでいる。
ひどい事をしてしまった。
ひどい事を言ってしまった…。
でも。
気がつくと、ヒナタはまた立ち止まっていた。
静かな川のせせらぎの中に、前を横切って行く子供たちの笑い声が弾ける。
バタバタと駆けて行く子供たちを何ともなしに見送って、ヒナタは再び、視線を落とした。
『お前たちには、関係の無いことだ』
シノの言葉を思い出す。
ショックだった。
今でも、胸がギリギリと絞め付けられるように痛む。
悲しいとか、切ないとか、そうした感情にもまだ至っていない。
ただただ、ショックで、その衝撃がまるで重厚な鉛となって心の中に巣食ったようだ。
そしてジリジリと侵食されているかのように、とにかく、痛い。
ヒナタはまた込み上げてきた涙に、顔を歪ませた。
喉が詰まって、苦しい。
それでも何とか胸元を握り締めて、ヒナタは必死に涙を押し殺した。
いつだって―――。
いつだって、シノは自分を仲間として認め、支えてくれたのに。
迷った時や落ち込んだ時、ヒナタはナルトに勇気をもらっていた。
そしてキバや赤丸には、元気をもらった。
だがそれはヒナタが勝手に勇気づけ、元気づけられていただけで、皆にそんなつもりは無かっただろう。
けれどそんな中で、シノだけは、いつもヒナタの心中を察して、時には手を差し伸べ、時には背中を押し、時には具体的なアドバイスをして導いてくれた。
チームを組んだ当初の頃は、皆の足を引っ張らないようにと気を遣い過ぎて逆に失敗したり、おどおどとして自分の意見もまともに言えなかったヒナタに
キバは苛々していたし、シノも迷惑がっていたように思う。
キバに怒鳴られる度に身の縮む思いだったが、実はそれ以上に、何も言わず沈黙を守っているシノの方がヒナタには怖ろしかったのだ。
サングラスで目を隠し、襟で口元まで覆っているため表情も読めず、いつも寄った眉間の皺に、いつ「お前は要らない」と宣告されるか戦々恐々としていた。
しかしそんなある日。
任務の途中で、少しの間ではあったがシノと二人きりになる機会があり、不意にシノは「ヒナタ」と呼んだ。
突然沈黙を破ったシノに心臓が止まる程驚いた事を、今でも覚えている。
けれどシノは、ヒナタの不安をよそに、じっと見据えながらこう言った。
「お前は一体、何をそんなに怯えている」――――と。
そして、狼狽するヒナタに、言ったのだ。
「俺達は仲間であって、敵ではない。もう少し……俺達を信用しろ」
と。
自信が無く、もっと自分を信じなさい―――とは、よく言われていた。
しかしシノは、そうではなくて、「俺達を信じろ」と言ったのだ。
仲間だから、迷惑を掛けても良いのだと。
仲間に遠慮は無用だと。
お前も、俺達の仲間なのだと。
教えてくれたのはシノだった。
だから―――。
だから、自分は頑張れたのだ。
信じられる仲間がいたから。
自分を認めて、信じてくれる仲間がいたから。
なのに―――。
『お前達には関係ない』
それを――どうして―――あなたが言うの?
「っ、」
息を詰めて蹲(うずくま)る。
浅く呼吸するだけでも溢れ出てきそうな涙を、それでも耐えて、ヒナタは手擦りの支柱を握り締めた。
鉄製の支柱に頭や頬や額を付け、火照った顔を冷まそうと努める。
もう、泣きたくはなかった。
泣いたってどうしようも無いのだ。
いつまでもメソメソしていたって仕方がない。
泣いちゃ駄目だ。駄目だ。ダメだ。
けれど、そう思っても思ってもなかなか衝動は収まらず、最早川のせせらぎも子供の声も、何も耳に入ってこない。
とにかく必死に、必死に、押し殺す。
しかしそんな折、ふと肩に何か当たった感触がした。
「 ナタ?」
はっと我に帰れば、何か、誰かの声が聞こえる。
ヒナタは振り向こうとしたが、完全に振り返る前にその人物と目が合い、息が止まった。
ヒナタの間近にあったのは、深く、深く、どこまでも透き通っていて真っ直ぐな青い瞳。
「ヒナタ…?」
そして今度はその声も、はっきりと聞こえてしまった。
ヒナタにとって最も特別で、最も――好きな…。
「どうしたヒナタ。大丈夫か?」
そこに居たのは、ナルトだった。
蹲っていたヒナタのすぐ傍らにしゃがみ込み、驚いたように丸くした目で、ヒナタを食い入るように覗き込んでいる。
「~~~~~~~!」
ヒナタは、声にならない声で叫んでいた。
ゴチャゴチャしていた物が一瞬にして何もかも吹き飛び、せっかく冷まそうとしていた顔が一気に最紅潮に達する。
「ナ…ナルトく……っ」
そしてヒナタは、喉が痞(つか)えていたことも忘れて声を出したために、ついに堰(せき)が切れてしまった。
「!?」
「あ…」
慌てて拭うも時既に遅く。溢れ出した涙は止まらない。
「あ、ご、ごめ…なさ…、っ、っ」
「ヒ…ヒナタ?!」
「~~~~」
ボロボロと泣きだしてしまったヒナタに、ナルトが素っ頓狂な声を上げて慌てふためく。
しかもさっきまでは全然いなかった通行人が何故かこんな時に限って増え出して、何だどうしたと集まりだす始末だ。
川沿いの道で泣きじゃくる女の子と、その傍でうろたえている挙動不審な青年。
自ずと責任は男の方に見出され、悪者と見なされるのは……まあ、致し方あるまい。
「え、いや、俺は、ち、違うってばよ?!」
周囲から注がれる身に覚えの無い非難の眼差しに、ナルトは手を振り腕を振り首を振り無実を訴えたが説得力は皆無に等しく。
「女泣かす男はサイテーなんだぞー!!」と正義感たっぷり子どもに指されて。
「ちょ…え、」
「ええぇぇぇええええ?!??」
取り囲む人々に向かって顔を引きつらせながら、叫んだのだった。
「…ほら」
川べりのベンチに腰を下したヒナタに、ナルトが近くの自販機で買ってきたホットドリンクを差し出してくる。
『ホッと一息癒しのレモン』というラベルの付いた小さいペットボトルに、不器用ながらも何とか慰めようというナルトの苦心が見て取れて、ヒナタはぎこちなくもふっと笑みを零した。
両手でありがたく受け取れば、じんわりとした温かさが伝わってくる。
「さっさと飲んじまえよ」
「あ、うん」
ヒナタがそんな温もりを手の平に感じていると、ナルトが急かすように言ってきた。
一瞬、怒らせてしまったかと焦ったヒナタだったが、「せっかく温けーのに、冷めちまうだろ」と続けたナルトにそんな意図は無かったらしい。
ほっ、とヒナタは安堵して、今度こそ『ホッと一息癒しのレモン』に口を付けた。
とろけるような甘さとレモンの酸味。そして後には仄かな渋味が舌に残る。
ホッ、と一息付くと、少し、肩から力が抜けた気がした。
掌の中のレモンティーはヒナタに熱を譲って、ほんの少しだけその温もりを失っている。
黄色とも橙色ともつかない、琥珀のような液体が小さなペットボトルの中でゆらゆらと揺れ、目にも見えない程の湯気と共に甘酸っぱい香りを漂わせた。
「ん~~~~~~………で?」
ヒナタは暫くそのレモンティーの揺らめきと芳香をぼんやりと受け入れていたが、
隣に座ったナルトが言い出しにくそうにしながらも「どうしたんだよ」と切り出したため、はっと我に返った。
そしてナルトを振り向き、一間置いた後、(どうしよう…)と困惑する。
シノの件はとてもデリケートな問題だ。紅にも誰にも口止めをされたわけではないが、人に話して良いものかどうか、判断が難しい。
しかし、かと言って、目の前でボロボロ泣いておいて何の説明もしないではナルトに失礼だし、嫌われてしまうかもしれない…。
(ど、どうしよう……)
ヒナタはナルトから視線を逸らせ、彷徨わせた。
もしシノの病気の事や騒動の事を話したら、ナルトは一体どういう反応を示すだろうか。
話すとしても、それならそれでどこまで話して良いものか?
自分が泣いた原因はシノにある…が、シノが悪いとも言えないし、涙を堪え切れなかったのは自分自身だ。
それにやっぱり、話してはいけないような気もする。
これは自分達…チーム内での問題であって、ナルトは部外者というか関係無いというか…。
い、いや、同じ里の仲間なんだから関係は有るのだけれど、そういう意味じゃなくて、無闇に心配を掛けたくないというか、
いや心配はしても良いんだけど、というか自分は心配させてもらえなくて泣いてしまったわけで……あれ?
「だああああ! もう! だから何なんだってばよ!!!」
ヒナタが思考の内に迷走を始め、ぐるぐると廻(めぐり)り廻った挙句訳が分からなくなったところで、ナルトが叫ぶ。
「あ…」
怒りと言うかじれったさに皺を寄せ、睨むような困ったような顔を勢いよく、ずいと寄せられて、ヒナタは動揺のあまり思わずペットボトルを落としてしまった。
フタの開いたペットボトルは地面にぶつかって跳ね上がると中身を撒き散らしながら地面を転がり、揺れる液体により重心が安定しないのか少し不規則に揺れながらも、静かに止まる。
「ご、ごめんなさいっ」
ヒナタは慌てて足元に転がったそれを拾い上げようと身を屈めたが、ふと、動きを止めた。
地面に流れ出した琥珀色の飲料水は砂に染み込み、黒いシミを作りながらじわじわと広がっている。
ヒナタはその侵食の流れの先に、えっちらおっちらと動いている小さな黒い点を見つけたのだ。
その光景は既視感(デジャビュ)を起こさせ、そして奥底に眠っていたヒナタの記憶を蘇らせる。
以前にも同じように、何かの拍子に飲み物の入った容器を落として、それに手を伸ばした事があった。
そして同じように、動く黒いモノを見つけて手を伸ばしたのだが―――。
他の所からも伸びてきた手。
驚いて顔を上げると、まだ、丸いサングラスをしていた頃のシノが居て。
シノは少しヒナタと顔を見合わせてから、地面に視線を戻すと、零れた水の波に今にも追いつかれそうになっていた蟻を指に登らせ避難させた。
ヒナタがしようとしていた事と、同じ事を。
シノもしたという事に、その時のヒナタは驚きを隠せず。
無言で安全な場所に蟻を連れて行き、降ろしてやるシノの姿はとても意外で。
ヒナタがきょとんとしていると、少々気まずそうな様子で「…大丈夫だ」と告げられて、
え…何が? あ、あぁ…蟻が? と、突然蟻の無事を告げられた時の事を思い出すと、可笑しさが込み上げてくる。
そして頬が緩むと同時に、再び涙が出てきそうになって、ヒナタは目元を拭った。
「ヒナタ…?」
身を屈めたまま動かなくなったヒナタに、ナルトが訝しげな声を掛けてくる。
「あ…ううん。ごめんなさい。ちょっと待って…」
そんなナルトを、ヒナタは一度振り返ると、ベンチから一歩離れてしゃがみ込んだ。
そっ、と指を差し出し蟻の行く手を遮って、蟻が逃げないようにと周りも囲い込む。
唐突に現れた障壁に、蟻は右へ左へと抜け道を探してしばらくウロウロしていたが、素直な蟻だったらしく思いの外早くよじ登ってくれた。
ヒナタの指に乗った蟻はチョロチョロと動き回り、爪の先で停止して触角をユラユラ動かしたと思ったら下から上へ指周りをグルリ一周。
忙しないそんな虫を、ヒナタは木陰に連れて行って草の上にそうっと降ろした。
一瞬、ここはどこだろうと言う様にキョロキョロしていた蟻は、それでも巣を見つけ出そうと思い至ったのか素早い身のこなしで早々と草陰に消えていく。
こちらの都合で道から外してしまってごめんなさい。どうか無事に、お家に帰れますように…。
ヒナタは心の中でそう祈ると、「ごめんね、ナルトくん」とナルトの下へと踵を返す。
ナルトは、なんだかよく分からない様な顔をしながらも、ヒナタの落としたペットボトルを拾って待ってくれていた。
結局、中身がほとんど零れてしまったそれは脇に置かれ、二人は再度ベンチに腰を落ち着かせて、暫し黙る。
しかし口火を切ったのは、今度はヒナタからだった。
「………あの…実は…」
ヒナタは、話した。
要約し、掻い摘(かいつま)んでだが、自分の知る限りの事をありのまま――ただしシノの頬を引っ叩いてしまった事は、乙女心の都合上、省かせてもらいつつ――ナルトに説明した。
迷いながらも、矢張りヒナタは仲間に隠し事をしたくなかったのだ。
迷走する内に頭も冷えて、仲間だから心配を掛けたくなかったのだろう、シノの気持ちもヒナタなりに分かった気がする。
しかし、それでも、仲間だからこそ心配したい。
シノ一人の問題にはしたくない。
みんなで、力になってあげたい―――。
「……わたし…ワガママ、だね…」
シノに関係無いと言われた上で、それでもそう思う事を少し熱くなりながら語ったヒナタは、一つ溜息を吐いて自嘲気味に呟いた。
シノの主張を、どうしてもヒナタは聞き入れられない。
昔はただおどおどとしていて、確固たる意思も無ければ満足に主張もできない、そんな風だったのに、いつの間にか我の強いキバにまで「ヒナタって頑固だよな」と言われるようになっていた。
それが良いのか悪いのか、判らないけれど、納得できないのだから仕方ない。
どうしても。
シノを放っておくことはできない。
「わたしね…ずっと、シノくんに助けられてきたの…」
仲間として、チームメイトとして、友だちとして。
シノはずっと、自分を支えてくれていた。
それは今までも解っていると思っていたけれど、こういう事態になってみて、より強く感じる。
シノは信頼できる心の支えであったが、しかしそれを、自分は頼りにし過ぎていたのかもしれない。
「だから……わたしは…」
でも…。
「事情は、解ったってばよ」
ヒナタが再び押し黙ると、それまで黙って話を聞いていたナルトが口を開いた。
「なら今度は、お前がシノを助けてやる番だな!」
淀みなく言い放たれたナルトの言葉に、息を呑む。
自分に何ができるのか。自分に、できる事などあるのだろうか。
そうした悩みが、一瞬にして弾け飛ぶ。
ナルトの表情には、瞳には、一分の迷いも無い。
そしてその顔が、その透き通った青い瞳が、自分に向けられ、自分を見つめているのだ。
「うん」
何ができるのか、分からないなら見つければ良い。
助けられるか、分からなくても助けるんだ。
私が、シノくんを。
「俺も、協力するってばよ。アイツは苦手だけど…」
目を見開いて僅か驚きを表したヒナタに、ナルトが破顔して続ける。
「仲間だからな!」
くしゃりと笑うナルトに、釣られてヒナタも顔を綻ばせた。
「うん…!」
シノくんは、本当に関わって欲しくないのかもしれない。
これはただの、ワガママなのかもしれない。
でも―――。
「うしっ! まずはとりあえず」
ナルトが勢い良く立ち上がり、気合十分言った言葉に、ヒナタは一瞬、綻ばせた顔を凍らせた。
「『関係無い』なんて言いやがったシノの野郎、ぶん殴ってやるってばよ!」
「………ナ…ナルトくん…。それはちょっと…ほ、ほら、病人…だし…ね?」
まさか、もう殴ってしまったとは言えるはずも無く。
グッ、握り締められた拳にヒナタは心中で焦りを感じながらも、にこやかに、それでいて困ったように、ナルトを諌めた。
どうか、どうか。
自分勝手な願いだとは思うけれど。
どうか、病人を引っ叩いた事だけは、ナルトくんに知られませんように――。
ザアアア‥と、まだ肌寒い風が木の葉を揺らす。
そうか…? うーん…まあ、それもそうだな…と、ヒナタの説得に応じて拳を解いてくれたナルトに安堵しつつ、ヒナタは改めてシノの事を想った。
ワガママかもしれない。でも――私はあなたを助けたい。
後ろから吹く風に靡(なび)いた髪をそっと押え、空を見上げる。
水色の空の遠く彼方を見つめながら、ヒナタは心の中で呟いた。
ごめんね、シノくん―――。
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