Scene2.シビの迷い、シカマルの一手

夜も更けたというのに、飲屋街の賑わいは衰えるどころか益々盛況となっていく。
赤提灯が街を朱色に染める中を、しかしシビは黙々と通り過ぎていこうとしていた。
「よお」
その足を止めたのは、皮肉な笑みを浮かべた男。
「珍しいじゃねぇか。お前がこんな時間にこんなとこほっつき歩いてるなんてよぉ」
「………お前こそ、こんな夜更けに任務でもないのに出歩いて、ヨシノさんに叱られるのじゃないか」
恐妻家であるシカクが、シビの応答に口の端を上げる。
「今日はやけに口が動くじゃねーか」
シビは眉を寄せたが、そんな嫌味に返してやる気分でもなく、
「お前にかまっている暇はない」
と告げると再び歩き出そうとした。
が、踵を返した目の前にシカクが立ち塞がり、行く手を阻まれる。
「いいから…付き合えよ」
そしてぐっと肩を掴まれ、耳元で囁かれれば諦めるより他は無い。
付き合ってやる気分ではないが、ここでこれ以上押し問答を繰り広げる気分でもなく、またシカクが理由もなく粘る気質でない事もシビは知っている。
ただ酔っ払いが絡んできたわけではないらしい。何か理由があって誘って来ているのだ。綱手への用事は済み、今は帰路である。
一つ、溜息を吐き、仕方なくシビは付き合う事にした。


シカクの後に続き居酒屋の暖簾を潜ると活気の良い声に迎えられ、奥へ進めばチョウザが既に席を陣取り、幾つもの皿を空にしていた。
「よお、久しぶり」
「ああ………山中は」
「あいつは任務で今里にいねーよ」
チョウザに挨拶を返したシビが心なしか警戒したように尋ねると、その心中を察したシカクが応え、にやりと笑って「良かったな」と囁いた。
山中いのいちはシノのことを気に入っており、今の状況を知ったなら恐らく半狂乱になって問い質してくるに違いない。
心配してくれるのはありがたいが、あまり騒がれるのはかえって迷惑だ。
「何か飲むか?」
「否」
「そうか」
シビに飲まない事を確認してから店員を捕まえ、ビールを頼むシカク。
チョウザの向かい側、シカクが奥に、シビがその手前に収まると、シカクは「最近どーよ」と気だるげに切り出した。
その問い掛けに、「最近は菜の花が美味い」と竹の子の煮付けを頬張りながら答えたのはチョウザだ。
そのチョウザらしい返答に、シカクが口の端を上げて微かに笑う。
「ああ…でも、いつもより値が張るって、母ちゃんが言ってたな」
「今年は、出来は良かったけど量が取れなかったから」
ほら去年、農村が焼かれる事件があっただろ、と心底残念そうにチョウザが言う。
昨年の年明け、火ノ国にある農村地帯で火災が発生し農作物に甚大な被害が出るという事件が起きた。
幸いなことに人的被害は少数に止められたが、作物はもちろん、長年育てられてきた土も灰と化し、一年が過ぎた今でもまだ土地の半数は使い物にならない状態だ。
それでも今年、復活した畑では、人の努力と大地の生命力の賜物か、今まで以上に出来の良い物が採れたのである。
「……………」
「………で?」
だんまりを決め込んでいるシビに、シカクが振った。
「お前はどーよ」
意味ありげな眼差しに、シビのしかめっ面が強持てを増す。
その顔は知ってるだろう…と睨み返すもシカクは怯まず、チョウザを見れば相変わらずほくほくした顔で
今度は煮付けられたサワラを口に運んでいて、どうも、沈黙も誤魔化しも無駄な気がした。
「……最悪だ」
シビが諦め、そうとだけ口から漏らせば、シカクは満足したらしい。厭味な態度も回りくどい誘導もすっぱり止めて「シノのことか」と呟いた。
「…誰から聞いた」
「家柄、まあいろいろ伝手(つて)があるんだ」
静かな尋問に軽く答え、運ばれてきたビールジョッキを受け取るシカク。
チョウザは漸く箸を止め、「それ、何のことだ」と少し引き締めた顔を二人に向けた。
シカクがチラリとシビを見遣り、固く閉ざした口に話す気も無いが止める気も無いらしいことを悟って、口火を切る。
「ビョーキなんだとよ」
軽い調子で言うも、その重さが軽減する事は無い。
「病気…って、悪いのか」
「最悪…って、コイツはさっき言ってたがなぁ」
俺は知らねぇと言うようにシカクがビールを呷れば、チョウザの視線はシビに向き、その視線を受け止めたシビは頑なに閉ざしていた口を開いた。
「……検査をした。蟲に何らかの異常が発生しているようだが、詳しい原因はよく分らない。再起の見込みは、今のところ無い」
「………そうか…」
シビの淡々とした説明に、チョウザが言い淀む。こういう時、何と言ったら良いのかは幾つ年を食っても難しく、また言われる方の心地悪さも変わらない。
そんな気まずい空気を払拭するように、シビは続けた。
「…先程、その検査結果を火影様に届けて来た」
「5代目は、何だって?」
チョウザの問い掛けに、思い出す。
渡した報告書に目を通すと、綱手は険しい顔をシビに向け、紅と同じような質問をしてきた。
これからどうするつもりだ―――と。
その問いに、シビは紅にしたものと同じような答えを返した。
今考えられる最善の方法は寄壊虫との契約を解消することだ―――と。
ただ、綱手はその結果どうなるかを問う事は無かった。
ただ…大事なのは――。
「大事なのは命だ、と」
生きてさえいれば、シノにも、お前にも、望みは生まれるだろう――と、火影は言った。
体の命の大切さも、そして精神的な、忍としての命の大切さも、分かり切りながら。
その存在が「在る」事の重大さを、知っているのだ。
「そうか……」
チョウザはシビの返事を聞くと、はむ、と再び食べ物を口にした。
シカクはいつの間にかジョッキを空け、次は何を頼むかとメニュー表を広げている。
賑わう店内はガヤガヤとそれぞれの話題で盛り上がり、ガチャガチャとガラスのぶつかる音や料理の匂い、笑い声に満ちている。
そういう空間が、シビは好きだった。だが、その中に自分が溶け込めない事も知っている。
昔から、明るい場所は望む(遠くから眺める)ものだった。
唯一。
馴染める明かりは、ただ一つ。

見上げてくる眼差しと、その存在。

周りから見れば無口で無愛想で、決して明かりなどではないかもしれない。
それでもシノは、シビにとって、掛け替えのないたった一つの光明なのだ。
その明火が今、消えようとしている―――。
「悪いが……やはり帰らせて貰う」
居た堪らなくなり、シビは席を立った。
こんな所で、こんな事をしている場合ではない。
「おい」
だが行こうとするシビを呼び止めたのは、シカクだった。
何だと振り返ればシカクが鋭い眼光を向けている。
「分かってるな」
何をと問う間もなく、シビはシカクが半強制的にここへ連れて来た理由を悟った。
「一人で抱え込むんじゃねーぞ。お前だけの問題じゃねぇんだ」
「…………」
慰めでもなく、励ましでもなく。一人ではないのだと。
周りの人間の存在を忘れるなという、戒めを伝えるため。
「ああ…」
賑やかな店の中。明るく温かな人々の音声が包み込む。
「分かっている」
そう告げると、シビはその人混みの中を行き、活気の良い声に送られて店の外へと静かに出て行った。
しかし不意に、閉めたばかりの戸が背後でガラリを音をたて、まだ何か用があるのかと振り向いて見れば、そこに居たのはシカクではなくチョウザ。
シビが少し驚いていると、チョウザは大きな体には少々窮屈な出入り口から出てきて、シビにニッコリと笑いかけてきた。
「昔…チョウジも死にかけたことがある」
その笑顔はただの愛想笑いではなく、優しさと慈しみの籠もった、深い笑み。
「でも、今は元気だ」
チョウザはそう言うと、シビの肩を加減しながらも力強く叩いた。
「まず、お前さんのところは食事がなってない。偶には精のつくもん食わせてやれ。病は食から、だ」
元気付けようとしたのか、和ませようとしたのか、はたまた本気なのか…恐らくどれもあるのだろう。
チョウザは温かな笑顔と力強い痛みをシビの肩に残し、暖簾の奥へと「さあて、そろそろ晩飯にするか」と言いながら戻っていく。
そして残されたシビは、ただ黙ってその背中が明かりの中へ帰っていくのを見送っていた。
戸が閉め切られると、人々の声も遠くなり少し取り残された気分になる。
寂しいという感情かどうかは知れない。
ただしその感覚は、落ち着かない中にも何故か安堵するものがある。
戸を隔てたこの位置が、自分の居場所と思えるのは、幸なのか不幸なのか…。
提灯が、光を遮る黒いグラスを赤く照らす。
帰ろう、とシビは思った。
自分がただ一つ、目に入れても痛くない、光の下へ…。



「親父」
「おう、シカマル。まだ起きてたのか」
日付も変って暫く経った頃、シカクが帰宅するとシカマルの部屋の明かりがまだ点いていた。
障子戸を開けてみれば将棋盤の前で本を片手に駒を動かしている。
背を向けていた息子がこちらを振り返るのを見て、シカクはそう言えばコイツはシノの一件を知っているのかと思い立ち、ちょっと話題を振ってみた。
「また酒かよ」と酔っ払い親父に顔を顰めるシカマルに、笑いながら「チョウザとな。あと、偶々シビとも一緒になった」と言ってみる。
するとその反応は、上々だった。
「シビ…って、シノの親父さん?」
「おう」
「………何か、話したのか?」
慎重にそう言ったシカマルに対し、シカクはその向かい側に腰を下しながら核心に触れた。
「ああ、シノの事をちょっとな」
「…………」
「お前も、知ってるな?」
表情を険しくしたシカマルに、シカクが探りながらも確信したように言う。
するとシカマルは、ぐっと眉根を顰めて、頷いた。
「……検査、終わったのか? シノの親父さん、何だって?」
開いていた本を置き、シカマルがシカクを見据えて尋ねてくる。
そんな息子の態度に、良い面構えするようになったじゃねぇかとシカクは笑みを浮かべたが、すぐに収めて「ああ…」と答えた。
「芳(かんば)しくは、ねぇみてぇだな。結局コレといった原因も掴めなかったらしい…」
「……そうか…」
シカクの答えを聞いたシカマルは、何事か考え込むように口に手を当て、視線を落として将棋盤を見つめた。
「………何か、してやれる事はねぇのかな…」
「鹿の角も、万能薬じゃあねぇからな。それに蟲相手じゃ畑違いだ」
「蟲相手…って、原因はやっぱ蟲にあんのか?」
「そうらしいが、詳細は分らないそうだ」
「……蟲が原因…って、ことは…」
一度視線を彷徨わせたシカマルが、再びシカクを見つめる。
その眼差しの意図するところは、察するに容易い。
詳細は判らずとも蟲が原因ならば、それを取り除くという方法が最も考えやすく簡単な方法だ。
もちろんシカクもシカマルも、そしてチョウザも、その手段の結果どうなるかなど知らない。
それでも、蟲使いから蟲を取り除くという事が、安易な事でないことくらいは察しが付く。
それは綱手も同様だ。大事なのは命だ――と言った意味は、蟲と心中するよりも、決別しても生きるべきだ――と、そういう事だろう。
「シノが蟲使いでなくなるかもしれねぇのか……」
シカマルが呻いた。
「今のままなら、その確率は高ぇだろうな」
だがまあ…と言いながらシカクは立ち上がり、将棋盤の駒を一つ持ち上げる。
「原因が分かれば、他の道も見えるかもしれねぇがな…」
そして駒を少し弄んでから、パチッと指した。
「原因……」
シカマルが、背後に去っていく父親の気配を追いながらも、目は将棋盤に向けたまま呟く。
指された一手は、まだ詰んでいない。勝ち目は……あるのだろうか。




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