西の空が夕焼け色に染まる頃、紅は厳めしい門の前に立っていた。
此処に立つのはシノを担当することが決まって挨拶しに来た時以来だな、と思いながら、油女と表札のかかったその門先で家人が出迎えにやってくるのを待つ。
前回はシノが一緒にいたので待つ必要は無かったが、念のためにとこのやり方を教えられていた。なぜノッカーやチャイムが無いのかと尋ねたら、うるさいのが嫌だから、
と答えられ、その時は前途多難だなと思ったものだ。なんと言っても、あの、喧しさではナルトをも凌ぐキバが、同じ班にいたのだから。
そんなことを思い出していると、不意に微かに軋む音を立てて重厚な門戸が開かれた。
中からは紅と同じ歳くらいの女性が出てきた。髪は短くしているが、黒眼鏡はかけていない。
浅黒い肌と人を上目遣いに視てくる様子は、油女一族、と言われてもピンと来ない人だった。使用人かもしれなかった。
「先程ご連絡いただいた、夕日 紅です」
「はい、お待ちしていました。……どうぞ」
ほんのりと浮かべられた微笑みに、ますます油女らしさは感じられなくなったが、悪い気はしなかった。
シノの家にもこういう人がいるのだなと些か失礼なことを思いながら、紅はその女性の先導の下敷居を跨ぐ。
石畳の先にある、庭と言うよりは森の中にひっそりと佇む屋敷は、茜色の空の下にあって尚、どこか陰鬱とした空気を纏っていた。
迷灯
Scene1.紅の迷い
和蝋燭の燭台を手にした先導役に従い、薄暗い廊下を歩いていく。
そうしている内に、陰鬱と感じられたのは電気が点いていなかったからだと紅は思い至った。
ぼんやりとした暗い天井には蛍光灯がぽつぽつと見受けられるのだが、使えないのか使わないのか、どれも点いていないのだ。
そんな紅の思いに気付いたのか、先導役の女性は「電気は極力使用しません。なぜならあの光りは、虫達には刺激が強すぎるからです」
と説明してきた。察しの良さと話し方は、まさに油女のものだ。
それでも通された部屋には電灯が点っていて、障子戸が白く浮かび上がっていた。
明るいその障子戸を引き開けた先導役は、「お連れしました」と部屋の主に告げて紅を中へ通すと、そそくさと退場していく。
無駄のない言動もやはり油女で、使用人ではなさそうだなと紅は考え直しながらその人を見送った。
「遅くに呼び出して申し訳ない」
「いえ、連絡して欲しいと頼んだのは私ですから」
明るい部屋の電気に少し目を細めてから、紅は気を取り直して部屋の主…シノの父親である油女シビと向き合った。
そして勧められるまま、背は低いが厚みのあるテーブルの向かいに座す。開口一番、謝罪の意を述べてきたシビに対しては僅かに微笑んで応えた紅だったが、
用意された座布団に座りテーブルの上を見ると、その表情を険しくした。
テーブルの上には、シノの検査結果報告書が広げられている。
「見ても…よろしいのですか」
紅が正面に座すシビに確認すると、シビは一つ頷いて返してきた。
その返事に紅も一つお辞儀をすると、その報告書を手に取り目を通し始めた。
紅がシノの状況を知ったのはおよそ一ヶ月前。情報元はサクラだった。
アカデミーで幻術の特別講師を終えた紅は、イルカからシノが尋ねてきたことは聞いたのだが、用があるならまた来るだろうと思って特別何もせず、
そしてその内に忘れてしまい、数日が過ぎたある日、唐突にサクラに告げられたのだ。
サクラに会ったのは偶然だったが、サクラは紅に会ったら話そうと決めていたらしい。
その場所が墓地であったのは、実に皮肉な事だった。
サクラから話を聞いた紅は急いでシノの家へ向かったのだが、面会する事は叶わず、代わりに検査の結果が出たら知らせて欲しいと頼み込んだ。
そして一月後、現在に至る。
一通り報告書に目を通した紅は、一つ深い息を吐き、顔を上げた。
正面では、シビが身動ぎもせずじっと紅を見つめていた。
「この報告書によると……原因は寄壊虫にあると、ありますが…」
紅は秘伝に関わる事のため遠慮がちに切り出したが、シビは気にした様子も躊躇う気配も見せなかった。
「そうだ。シノの体温を寄壊虫が過剰に奪っている事は間違いない」
「止めさせる事はできないのですか?」
「寄壊虫は、寄生するその宿主に帰属している。他の者からの命令は基本的に受け入れない」
「では、シノが命じれば……」
紅の指摘に、シビは少し間を置いてから、徐に答えた。
「…………それが、どうやらシノの蟲達は、体温の過剰摂取を有益と考えて実行しているらしい」
「それは……どういうことです?」
紅はシビの言った事が理解出来なかった。明らかにシノは体調不良を起こしているのだ。それが蟲にとって有益であるというのは、どういうことか。
「それについては此方もまだ把握していない。ただ、シノの命令を聞かない原因は、その命令を聞き入れる事が
蟲達の生命活動を著しく害するものと判断されたため…だと考えられる」
蟲達の生命活動を害する……? 体温を取り戻す事が?
紅は益々解らなくなった。しかしシビにも解らないと知って、この問い掛けは胸中に収めた。そして、今一度報告書に視線を落としてから、再びシビを見据えて問う。
「これから…どうなさるおつもりですか」
毅然とした態度で問うたものの、心中は穏やかではない。最悪のシナリオも想定される。
冷や汗が流れ、喉が急激に渇いた。
そして、シビの回答はその最悪のシナリオを幾つも含んでいる、正しく最悪なものだった。
「……このままの状態が続けば、チャクラの量が減少し、蟲達にチャクラを与える事が出来なくなる。そうなれば命に関わる問題だ。
そうなる前…今、考えられる最善の方法は……。……寄壊虫との契約を解消することだ」
シビの口調は、飽くまでも淡々としていた。しかし、最後の、決定的な言葉を述べる前の一瞬の沈黙が、紅にシビの心痛を感じさせた。
「しかし……もし契約を解消したとしても、忍は続けられるのでしょう?」
たとえ、蟲使いでなくなったとしても、忍として生きる事は可能なはずだと紅は思っていた。
蟲を使う事が忍の全てではないし、シノは、体術には向かないとしても的確な状況判断を行う堅実さがある。
それに、幻術の素質が無いわけではないのだ。紅には、必要とあらば自分が教え込もうという心積もりもあった。
だが、話は紅が思うほど簡単なものでは、なかった。
「………蟲との契約を解消すれば、忍としての道は絶たれる」
淀みなく、シビは言い切った。
「なぜなら、我々の体は蟲と共生するのに適したものとなっているからだ。虫が去った後の巣が朽ちるのと同じように、寄壊虫がいなくなれば腐敗する。
もちろん、それを食い止める術はある。だが、日常生活においても支障を来す程の後遺症は免れない」
「そんな…」
「不当なことではない。契約を解消された寄壊虫は餌となるチャクラを失い死滅する。当然の代償だ」
シビの声は、口調は、この期に及んでも全く変化しなかった。
これが……。これが、油女一族かと、紅は怒りにも似た感情を覚え、ぐっ、と膝の上で拳をきつく握り締める。
暫くの間、沈黙が部屋を支配した。紅は、自身の中の憤慨を諌めるのに精一杯だった。
シビに対する怒りと言うより、何もできない自分に対しての悔しさ、歯痒さが渦を巻く。
もともと虫が好きというわけではなかったけれど、シノの蟲には助けられてきたし、まるで潮騒のようにざあざあと鳴る音はどこか安心するものがあった。
それに、よくよく見てみれば、小さな小さな頭を傾げたり、忙しなく動き回る様は愛嬌があることも知っている。
流石に可愛いとまでは言えないが、それでも、シノの蟲に好感を持っていたのは事実だ。……それが、どうしてこんなことになってしまうのか。
蟲達にどんな意図があるか知らないが、紅にとってこれは、蟲達の裏切り以外の何物でもなかった。
「………だが」
不意に発せられた低い声に、思考に没頭していた紅ははっと我に帰った。
見るともなしに睨み付けていた報告書から顔を上げれば、シビが、矢張り全く変わらぬ様子で紅を見つめていた。
「幸い、ここ最近シノの状態は安定している。結論を急ぐ必要はない。今後の経過に……期待しよう」
きたいしよう、という音に、紅は肩から力が抜けるのを感じた。固く握りしめていた拳が綻ぶ。
「…………ええ…」
そして落ち着きを取り戻した紅は、正面に座すシノの父親に向かい、静かな笑みを手向けていた。
「そうですね…」
紅が油女邸出た時には既に陽は沈み、夜の帷が降りていた。
紅は見送りに出てくれたシビに礼を言うと、そう言えばとふと思い出してシノがこのことをキバ達に言っていないらしいことを伝えた。
シビはその件については寝耳に水だったようだが、紅がキバ達に伝えておくと告げると、宜しく頼むと頭を下げた。
離れ行く油女の家をちょっと振り返ってみれば、紅のために点けられていたらしい灯籠の明かりがふっと消え、浮かび上がった家屋のシルエットが闇にぼやける。
まるで夜の蜃気楼だと、紅は思った。
……期待しよう。
そう言ったシビの声が耳の奥に甦ってくる。
やはり声にも口調にも変化は見られなかったけれど、その言葉を吐く時だけ、ほんの微か、変化が感じられた。
あの言葉は、自分に向けられたものであったけれど、それだけではなかったのだと思う。
シビが、自分自身に言い聞かせようとした言葉。そう、思えた。
だからその言葉を、声を聞いた途端、急に力が抜けていった。ああこの人も自分と同じ…否、自分以上の感情を秘めているのだと気付いたから。
自分が憤慨しようと動揺しようと焦ろうと、何の解決にもならないし、取り乱せば自分以上の葛藤を抱いているであろう人に、余計な心配事を増やしてしまうだけだった。
だから、紅は微笑ってみせた。それが目の前の人に対して出来る唯一の事だと思った。
怖れてはならない。
どのような事態に相対したとしても、曇り無き眼で見据え、決して怖れてはならない。
出来ずとも、努めなければならない。
以前、紅はシノに尋ねた事があった。
体の中に蟲がいるとはどういう感じなのか、と。
するとシノは眉を寄せ、紅を真っ直ぐ見返して、「普通です」と答えた。
だがその後、そんな答えでは解らないという紅の気持ちを察したのか、こう紅に尋ねてきた。
「では、紅先生は現在どのような感じですか」と。
シノは、自分は蟲がいるのが普通であって、逆に蟲のいない感じが解らない。蟲のいない「普通」とはどのようなものか教えて欲しいと、紅に言ってきたのだった。
紅は、なんとなくした質問が思わぬ方向へ展開して困惑した。また、当時はまだシノとちゃんと話した事も無かったため、普段無口なのが急にしゃべりだした事にも驚いた。
だが、今思えばあの経験はシノを理解するためにはとても良かったと思う。
結局その時は、お互いの状態を語り、比較して、話し合った結果、シノの中では自分ではない別の生命が常に感じられているという結論に至った。
この結論は、まあ、予想の範囲内のものではあったけれど、それでも紅にはそれがどういう感じであるか、具体的に解るものではなかった。
しかし、今なら…。
紅は、そっと腹部に手を当てた。
今ならば、それがどういう感じなのか、解る気がする。
勿論シノのそれとは違うだろうが、体内に別の命がある感覚は解る。
漲る力。満ち溢れる命。全身全霊で生きているとわかる、あの感じ。
もし、それを失うとしたら…。
紅はそっと手を離し、眉を潜めた。
しかしすぐに頭を振り、後ろ向きな考えを振り払う。
あの後、シノに会えるかと尋ねると、会うことは会えるが起きてはいないだろう…と返された。
まだ、何も失ってはいないのだ。
―――怖れてはならない。
もう一度、紅はしっかりと前を見据えた。
明日、キバ達を呼び出して告げなければならない。
私がしっかりしなければ、キバやヒナタの動揺を抑えてやることもできないじゃない。
暫く行くと飲屋街に当たり、紅は少し心惹かれたが、そのまま自宅へと真っ直ぐ向かう。
もうすぐアカデミーに入学する子どもは、きっと新品の鞄を抱いて眠っていることだろう。
生意気なその顔を、何故だかひどく見たくなって、気が付くと自然に駆け出していた。
紅を見送った後、部屋に戻ったシビは、紅がきちんと揃えていった報告書を手に取った。捲る事もせず、ただその表紙をじっと見つめる。
「当主」
不意に呼ばれて振り返れば、家人が此方を上目遣いに窺っていた。
「火影様に提出して来ましょうか」
「否。いい。ワシが行く」
「解りました」
「お前は表の明かりを消して、休むがいい」
「はい」
家人はそう言うとシビに一礼して去って行った。静まり返った部屋の中、迷い込んできた虫が一匹電気に飛び込み、ジジジと音を鳴らす。
熱に焦がれたその虫は、動きを止め、ゆっくりとした速さで落下していくと、黒い塵に成り果てた。
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