「ん…」
シノが気が付くと衣服は全て元通りにされ、更にその上から毛布が掛けられて、そしてゲンマに膝枕をされていた。
「気が付いたか」
顔を上げれば微笑むゲンマが居て、シノは呆けた頭で記憶を辿ろうとする。
「?!」
が、頭よりも体に残った痛みの方が鮮明に記憶を甦らせた。
腰を押さえ悶絶したシノに、ゲンマが笑って謝罪する。
「悪ぃ。ちょっと大人げなくハメ外しすぎた」
その全く誠意の見られない謝罪に、シノは痛みに顔を歪めながらゲンマを睨み上げる。
だが不意にかまくらの入口の方へ目を向けると、その表情を変えた。
そこからは月明かりを受けて静かに光っている外の様子が見て取れる。
どうやらいつの間にか雲が晴れたらしい。
「ユキホタルは、まだ現れてない」
ゲンマが簡単に言った。
「今回はダメだったのかもな」
「…………」
しかしシノはじっと見つめ続けた。
サングラスだけはまだ外されたままで、その瞳は滅多に浴びない自然光に濡れたような輝きを帯びている。
泣かせられた名残がまだ残っているのだろう。
その横顔はひどく綺麗で、大人びていて、ゲンマは思わずドキッとしてしまった。
それは驚いたと同時に感じられた危機感でもあり、本当に、この少年が大人になるのにそう時間は掛からないのだと思われたのだ。
成長するのは大いにけっこうなのだがあまり急激に大人になられても焦ってしまう。
シノは歳の割には背も高く早熟な方だろうから、できれば今後の成長はゆっくりしていってもらいたい―――。
そんなことを思ってしまったゲンマは、なんだかまるで父親の心境じゃねぇかと少し凹んだ。
けれどブブブと羽音をさせて入口から滑り込んできたシノの蟲に、嘆くのを中断する。
そしてそれと同時にシノが動いた。
痛む腰を庇いながらも入口まで体を引きずって、外を覗き込む。
ゲンマも慌ててそれに続き、シノとくっつくようにして覗き込んだ。
ぼんやりとした淡い光がひとつふたつ…。
ふわふわと舞い降るそれは、雪のようだった。
「………雪…?」
そんなゲンマの呟きにシノが即座に答える。
「いや――」
シノは外の景色に目を釘付けにしたまま、言った。
「ユキホタルだ」
だがゲンマには雪にしか見えない。そう言えば、シノは何を思ったのか突然大量の蟲を空に放った。
「お、おい、何…」
「前にも言ったが――」
シノがくっつく程近くでゲンマに顔を突き合わせて言う。
「ユキホタルは産卵時に白く発光する」
「ああ…おぉ」
「だからよく見ろ」
眉間に皺の寄ったその顔に影が射す。
ゲンマがもう一度外を見てみると、その影は放たれた蟲が雲の代わりに月の光を遮って作ったものだった。
そして陰る沢の中。
雪と思われたそれらが、仄かに光っているのが見て取れた。
「ホントに光ってる…」
だが決して明るくはない。
周囲が薄暗くなって初めて、ぼんやりと明るくなったり暗くなったりを繰り返していることが分かる程度だ。
「でも……思ったより地味だ」
つい漏れた本音に、思い切り嫌な顔をされた。
「全く風情の無い人だ」
「だって…」
ゲンマが反抗的に口を尖らせれば、シノは一度黙ってから静かに口を開いた。
「……ユキホタルは産卵時に発光する」
「それはもう聞いた」
「だが、卵が光っているわけではない」
「ん? ホタルだってそうだろ」
「ホタルが光るのは基本的に産卵時ではなく交尾の時だ」
「ああ、そうか」
少し呆れたようにゲンマを見たシノは、しかし気を取り直して続けた。
「……ユキホタルのメスはオスの体に卵を産み付け、そして更に化学物質を注入しそのオスの体を溶かし丸め固めることで卵を保護する。
ユキホタルの発光はそのオスの体が溶ける際に起こる化学反応によるものだ」
「……そっちこそよっぽど風情ねぇじゃねーか」
つーか怖ぇ…と僅かに引いたゲンマに、シノは何が怖いものかと眉間の皺を深めて言う。
「その後メスもオスの上から覆い被さるようにしてその身を溶かし、卵の殻の一部となる。
光るという綺麗な部分だけが注目されがちだが、ユキホタルの本当のすごさは、同種の雌雄がその身を使って
二重構造で卵を保護するという、極めて特殊な子孫の残し方をすることだ。他のトンボ目には見られない。
これは冷たい雪の中で卵を生かす事ができる、この時季に産卵するユキホタルならではの方法だ」
「……まあ…うん……スゲーのは解った」
虫スゲェよ、と頷いたゲンマだったが、ほとんどシノの勢いに圧されたようなものだった。
「…でも、それなら何もこんな時季にこんな場所で生む必要無いんじゃねぇか? 普通に土ん中とか草っ原に生めばいい」
「こんな時季、こんな場所だからこそ生む価値がある。何故なら、こんな所には外敵も少ないからだ」
「あ~………そんなもんか」
ふぅん、とゲンマは曖昧な相槌を打った。
解らない事もないしシノがそう言うならそうなのだろう。
ただ、虫の常識というのはゲンマにはいささか理解し難いところがあって、やっぱり普通の場所に生んだ方が良いのではないかと思ってしまう。
まあ、虫にも虫の事情があるのだろうが。
「…………」
そんなゲンマの思いを察したのか、ふとシノが言った。
「……何も、ユキホタルの産卵方法が『善い』と言っているわけではない。合理的とも、言えないだろう」
ゲンマが見れば、間近でシノは首を傾げて見せた。
「だが産卵方法一つ取っても多種多様、虫も動物も、もちろん人間も、生き方は様々あって然るべきだ」
「ああ、うん、そうだな」
子どもに諭(さと)されているようでゲンマは苦笑を浮かべたが、どうやらシノにそのつもりは無かったらしい。
「…でなければつまらない」
と、虫好きな少年は言ってくれた。
それを聞いてゲンマは更に苦笑を深めたが、不意に辺りが暗くなって外を見る。
すると今度はシノの蟲ではなく本物の雲が月に掛かったらしい。
辺りが闇に、呑まれていく―――。
「ん?」
ついと服の裾を掴まれ何だとシノを見れば、シノは目を瞠って何かを凝視していた。
一体何だとその視線を追うと、ゲンマも思わず、息を呑んだ。
それは、本当に美しい光景だった。
さっきまでは周囲の明るさのためによく見えなかったのだろう。
暗闇の中、雪と見紛う白い光が次々と静寂の内に沢へと下りてゆく。
深々と、揺れることもなく一定の速度を保ちながら降るその光は、蛍の光よりも静かに息を潜め、雪の音よりも激しく息吹いている。
新たな命の灯火をその身を熔かして守らんとする命の灯。
儚く、強く、優しく、情熱的に。
それは夢のように幻想的な―――現実だった。
「…………」
「…………」
小さな入口に身を寄せ合い、ほう…と白い息を吐いて暫し見惚れていた二人が、どちらともなく顔を見合わせる。
そして、どちらともなく、声も漏らさずに笑い出した。
お互い何が可笑しいのか、首を押さえても傾げても笑みが零れてしまう。
先に笑いが治まったのはシノだった。
「………やはり…キレイだ」
そう言いながら、顔にはまだ笑みが湛えられている。
「……そうだな」
ゲンマも、いまだニヤケながらシノの肩を抱き、寄り掛かるようにして言った。
どんなに理屈を並べても。
どんなに小難しいことを言ったって。
綺麗なものは綺麗だし、良いと思うものは思ってしまう。
自然はただそこにあるだけで。
自分たちも、ただ、ココに居るだけだ。
「…百万両以上の価値がある夜景だしな」
「……またそういうことを…」
「だって一粒十万両なんだろ?」
「孵化しないようにすればだ」
「ああそうか……なら、タダの方が良いな」
クスクスと笑いながら、ゲンマがシノの髪に頬や唇を当てる。
「価値なんて無くても、ただ普通に生まれてくる方が良い」
「……」
その、言葉に。
シノは一瞬、突き付けられた刃の煌めきを思い出した。
灯雪が折ってしまったあの刀身は生物ではないが。
それでも苦んでいるように見えたのは、何故だったのだろう――。
シノはユキホタルの美しい光景を目に映しながら、掴んだままだったゲンマの服をきゅっと握った。
「ん?」
シノに懐いていたゲンマが首を傾げて覗き込んでくる。
その顔を、シノは見ないように外を見続ける。
吐き出す息は白くなり、息をしていることが目に見えた。
シノを包むゲンマの温かさと感触が伝わってくる。
「………」
ゲンマは、解らない事があったら頼っても良いと言った。
けれど、本当に良いのだろうか。
灯雪のことを話したらゲンマを困らせる事にはならないか。
それにもし灯雪が自分だけに話したのだとすれば、それは自分で答えを出さなければいけない事なのではないのか?
ここで頼り、甘んじて縋ってしまったら、自分は対等ではなくなってしまうのではないか…?
シノは、押し黙ったままユキホタルの光を眺め続けた。
また月が顔を出し始めその光景が薄らいでゆく。
眩しくなって、目を細めた。
「………どうした?」
ゲンマの優しい、けれど少し困ったような声が聞こえてきて、シノはゲンマの服を強く握り締めていた事に気が付いた。
泣きはしない。涙は出ないし心も震えていない。けれど、少し泣きたい気分だった。
握り締めた服を引きながらゲンマの胸に顔を押し付ける。
何度も繰り返し再生させた記憶が今度は勝手に浮かんできて、ぐるぐるぐるぐる巡り出す。
取り憑かれたようだと思った。おかしな事に、刀に感情移入している。
苦しい。悲しい。辛い。怖い。生きたい――。
そう、あの刃は、泣いていた―――。
「シノ……」
ゲンマが抱き締めてくれる。
シノはしがみつき、大きく息を吸った。
耐えて堪えて頑張ったけれど……結局自分は、一人では解決できないようだ。
吸った息を吐き出すと、頑なだった思いが解(ほつ)れて、シノは、吐露(とろ)した。
灯雪のした事、言った事。
自分の感じた事、思った事。
自分には灯雪の言動が全く理解できなかった事を。
淡々と、出来る限り正確に出していく。
自分の理解できていない物事を人に説明するのは難しいが、シノの拙(つたな)い話を、ゲンマは黙って聞いてくれた。
そして語り終えた時。
シノは、何だか酷く疲れたが、憑き物が落ちたような気持ちだった。
どうやら灯雪の工房の雰囲気や出来事に、知らぬ間に呑まれていたようだ。
そんな事を呆と思いながらゲンマの腕の中でぐったりとする。
安堵したというのもあったが、ゲンマとの行為もあり時間も時間だ。眠くなっていた。
「…………眠いか?」
ゲンマにそう問われ、小さく頷く。
すると優しく抱えられて奥へと連れて行かれた。
「……ユキホタルは」
「また見えなくなっちまったなぁ」
「…光は闇の中の方がよく見えるから」
「ん」
雪の壁に凭れて座ったゲンマが、譫言(うわごと)のように呟くシノを腕の中に閉じ込めて胸に依(よ)らせる。
自身と共に毛布を掛け落ち着かせると、シノは心地良さそうに目を閉じた。
「………あなたは」
「うん?」
「…あの刀匠の言動を理解できたのか」
シノが目を閉じたまま呟く。
眠気はあってもまだ眠れないらしい。
「理解は無理だな。俺は爺さんにはなれないから。でも、なんとなく解る気はする」
「……どういう、ことだったんだ」
シノの問い掛けにゲンマは少し考えてから答えた。
「…………きっと、迷って、藻掻いてんだろう」
「?」
訝しげに瞼を擡げうっすらと目を開けたシノに、ゲンマが微笑む。
「道具の話をしたろ。人は弱さを補うために道具を作り、強さを得ようとする……刀もそのための道具だ」
「………」
「自分たちの都合に合わせて鉄を溶かし加工して、変化させて作る武器」
「………」
「……そしてそれは、人を斬るための物」
「………」
「それをずっと作り続けてきたことが、きっと爺さんにとっては誇りで、罪なんだろうな」
「………罪…?」
「そう、罪だ。重い罪」
「……何故だ。それは…刀は人斬りの道具だが…刀工が斬るわけではない」
「…それでも、負っちまったんだろ。悪いと思いたくなくても、感じる罪悪感もある」
「…………」
それは…シノにも解った。
再び目を閉じて、ゲンマの腕に身を任せる。
「だから……きっと…爺さんなりの罪滅ぼしなんじゃねぇのかと、俺は思う」
「………」
ゲンマの言葉を聞きながら思い出したのは、刀身を折った刀匠の苦々しげな表情だった。
あの刀身には確かに魂が込められていた。それを折る事が、彼の罪滅ぼしなのだろうか。
『灯雪』は死んだと言うよりそれは、『灯雪』を自身の手で殺し続けているようなものだ。
刀を打つことが生き甲斐で、打ち続けてしまう自分の咎(とが)を、罰しているのか。
それは…。
「………悲しいな…」
悲しい、事だと思う。これまで生きてきた証を傷付けながら生きるなど。
けれど、辿々しい話からそう推察したということは、ゲンマにもそう読み解くだけの経験があるということだろうか。
「………あなたにも、あるのか」
「ん?」
「…………罪が」
そしてそのどうしようもない罪を解こうと、迷い藻掻き、自分を傷付けた事が。
それとも今も…。
「…………雪…みたいなモンだな」
「…」
「始めは消えちまうようなものなのに、いつの間にか…気付いたら信じられないくらい積もってる」
「…」
「経験を重ねれば、お前にも積もってくだろうよ」
今はたとえ本を読むように想像するしかできずとも。
大人になっていけば自ずと理解できるようになるだろう。
「……でもな、それは罪や、傷ばかりじゃねぇ。嬉しいことも、楽しいことも、一緒に積もってく。
苦しいことや痛いことを経験して、そういうことも解る大人になることは、悪いことじゃないぞ」
「…」
「人間は弱いが、そうして色んなものを身に付けて、強さを得ていく力があるから」
「…」
「爺さんだって、新しい出会いや新しい経験をすれば、また変わってくさ」
「…」
この人は本当に、何の思惑もなく灯雪と自分を会わせたのだろうか…とシノは思った。
疑わしい。が敢えて聞くまい。
「だから…きっと『灯雪』は生き返る」
シノは、何も言わずに頷いた。
「…………しかし…」
だがふと気になって呟く。
「…何故あの人は俺に話したんだ」
それだけはどうも納得できない。
しかしゲンマは「ああそれは多分」とシノの髪を撫でながら笑った。
「言ったろ。爺さん、ああ見えて子ども好きなんだよ。年寄りってのは大抵、知識だったり技術だったり、若いのに何かを教えたがるもんだしな。
ただあの爺さんは、それが滅茶苦茶下手だったんだろ」
そう言って愉しそうに笑うゲンマに、シノは目を閉じたまま眉を潜めた。
「やっぱお前とは気が合うんだって。見事寂しい老人の話し相手に選ば…」
そこまで言って、ゲンマがはたと口を噤んだ。
ザワザワと嫌な悪寒が背中を走る。
「…」
「…………シノ」
顔を凍り付かせ引き吊った笑みを貼り付かせたゲンマに、シノも笑みを浮かべて見せる。
「……良い経験になりますよ」
敢えて聞きはしない、が。
あなたの思い通りというのは気に入らない。
シノは問答無用で、回収しようとかまくらの中に戻らせ潜ませていた蟲達に、命を下した。
*(Scene8へ)