ピリピリと、痛いぐらいの沈黙の中。
どちらとも口を開くことなく、数時間。
鉄を叩き延ばす作業から刀身の形を整えて反りを作り、何やらその刃に土を塗ってまた火に入れる……そんな工程を、シノはじいっと見続けていた。
そして今、火で熱した刀身を水に入れ急冷する作業も終えて、刀匠は研ぎの仕事に入っている。
その流れるような作業、手捌きは見事で、一分の無駄も無い。
しかし、シノは刀作りにどれ程の時間が掛かるかなど知らないが、それでもこのペースは物凄く速いのではないかと思えてならなかった。
確かに刀匠の動きは名工と謳われた者の動きだろうし、その集中力も熱気も半端ではない。
一見して出来上がってきた刀身の出来映えも悪くないし、ゲンマの友人を虜にしたという、魂の籠められた作品だろう。
けれど、でも。
シノにはそれが丁寧な仕事だとは思えなかった。
手慣れているのと丁寧なのは違う。刀匠の動きは体に染み付いているだけのものであり、魂は籠めていても、乱暴だ。
素人目と言われればそうだが、その目には刀匠の、刀への慈愛や畏敬の念が全く見えてこない。
見えるのは、一心不乱に刃に執念を叩き込んでいるような、そんな風な姿だけだった。
鍛錬に鍛錬を重ねられた刀身が、研かれてどんどん刃物らしくなっていく。
それなのに感動が無い。
ただ、その見えてきた切っ先に、シノは何故か表情が険しくなるだけだ。
刀作りとは、見る者をこんなに不安で重苦しい気分にさせるものなのだろうか…?
「…………おい小僧」
「!」
低い声で突然呼びかけられ、思わずギクリとする。
灯雪が、初めて口を利いたのだ。
顰めっ面を更に険しくしたシノがサングラス越しに睨んで見れば、灯雪も厳しい顔でシノに向いていた。
「楽しいか」
「…………」
シノは問われて、一瞬意味が解らなかった。
…………楽しい…? 見ていて楽しいかということか。
それならば。
燃えたぎる炎に室内は灼熱地獄。
離れて見ていただけなのに汗だくになっている。
息も苦しいし木箱にずっと座っているため尻も痛い。
それにこの重々しさ。
全然――
「……楽しくなどない」
シノはこれ以上無いという程無愛想にそう答えていた。
灯雪が眉を顰めてシノを見る。
「………なら何で出ていかねぇ。とっととあの兄ちゃんのトコに戻れば良いだろうが」
「………そうはいかない。何故なら、まだ灯雪の刀の生まれるところを見ていないからだ」
「………生まれる…?」
シノが真っ直ぐに見据えたまま突き付けるように言えば、灯雪は目を細めた。
「…………そう言や、あの兄ちゃんが初めて来た時もそんなコトを言ってたな」
灯雪が、思い出したように言う。
「灯雪のファンだった仲間に、本物の灯雪に会って、その刀の生まれる瞬間を見てきたぞって自慢してやりたいんだ……とかなんとか」
(………だった…?)
過去形か…とシノは心の中で呟いた。
故意か偶然か。どちらにせよ、やはりゲンマは全てをシノに話してはいないようだ。
「……だがな」
灯雪がそんな思い出を振り払うかのように首を振り、研いだばかりの刀身を手にする。
「いくら待っても、そんなモンは見れねぇよ」
その言葉に、シノは惜しげもなく怪訝な顔を表した。
「…………何故だ。あなたは今、刀を作っているのではないのか」
そう言えば、
「ああ……違うな」
と否定される。
では一体何を作っているのだ――。
とシノが訝しそうに黙すと、灯雪は何を思ったか近くに来いとシノを呼び寄せた。
「………」
どうにもよく解らないが、呼ばれたのだから行ってみるのが良いだろう。
シノが少し警戒しながらも指示に従い歩み寄って行けば、灯雪は研いたばかりの刀身を水に浸け、すうっと手拭いで拭き取った。
そして、それは一瞬の出来事。
空を裂く鋭い音がしたかと思うと、シノの鼻先に刀身の切っ先が向けられていた。
シノが寸でのところで立ち止まったのではない。
完璧な間合い取りで灯雪が寸止めしたのだ。
「……っ、」
息を呑んだシノの喉元を、熱さだけの所為ではない汗が滴り落ちる。
驚いた。
突然刃を向けられた事にも驚いたがそれ以上に驚いたのは灯雪の剣術の腕だ。
刀の扱いに慣れていると言っても、今の振りは素人ではなかった。
しかも握っているのは柄(え)の付いた刀ではなく、剥き出しの刀身である。
「………何のつもりだ」
「…………やっぱり、テメェもただのガキじゃねぇな」
「………」
シノが僅かに身構え睨み付けると、それを睨み返しながら灯雪は少し笑った。
「俺は戦乱の世にずっと刀を作り続けてきた。そして、それを欲しがる奴等も腐るほど見てきた。だから、凶器を持つ奴は見れば判る」
「……」
シノの中で、蟲がざわめいた。
どうやら灯雪という刀工はただの刀鍛冶ではないようだ。
忍のそれと同等の鍛えられたチャクラが感じられる。
「……忍か…あの兄ちゃんもそうだな」
「…」
「そう恐い顔すんなよ。別に取って食やしねぇ」
そう言いながらも、灯雪は刀身を引かない。
シノは灯雪の様子や表情、筋肉の動きまで注意して見たが、その真意は窺い知れなかった。
読み取れないと言うより、読み解けない。
余裕の笑みを浮かべながらもどこか切羽詰まり、その目には愁(うれ)いと狂気が混ざっている。
刃先は微動だにせず静かだがどうしてか怯え震えているように感じられるし、
気配は本気で斬りつけてきてもおかしくないものなのに、何故か恐くない。
よく、解らなかった。
「……小僧。お前さん、どうやら観察は得意たようだが、この刃ぁ見てどう思う」
あいにく灯雪像は掴めなかったが、冷静に相手を観察し分析しようとしたことが功を奏しシノは平静を取り戻していた。
そしてずっと観察していたことを、灯雪もまたシノの微かな表情や気配から察していたらしい。
「どう…とは」
シノが問えば、
「実戦で使えるかって訊いてんだ」
と灯雪がぶっきらぼうに返す。
「…………」
シノは警戒心を残しながらも灯雪へ向けていた視線を目の前の切っ先に向けて見た。
粗かった。
と言うより、酷い。
遠巻きに見ただけでは分からなかったが、それは思った以上に雑な仕事だった。
勢いだけで作られたようでその刃からはまるで「生かそう」という作者の意図が感じられない。
「……………いや…」
それどころかシノには、籠められた魂が厚く鈍い鉄の中に押し込められて、息吹く事ができず、生きることを阻まれているようにさえ思えた。
それはまるで、白濁とした殻に覆われて、孵化することを許されぬ卵のように―――。
「………これでは使い物にならない」
「……だろう?」
シノの答えに灯雪が満足げに呟き、漸くシノに突き付けていた刃を下ろす。
そして今度はシノの前で、あっさりと、呆気なく、ポキッと――その窒息死寸前の刀身を折ってしまった。
「?!」
単純な力業では無いだろう。ほんの少しチャクラを溜めた指先で、赤子の腕を捻るように…。
「………」
シノは絶句した。
大雑把だったにしろ今まで、何時間も掛けて作ってきた物を、こんなにも安易に壊してしまうのか。
でも、それでは一体、この人は何のために手間暇掛けてきたのだ。
出来が悪いから壊した――と言うことでも無いだろう。
どちらかと言えば出来の悪い物をわざと作っていたようだし、もしかしたら壊すために作っていたのかも知れない。
―――壊すために作る? そんなバカなこと…。
「灯雪の刀はもう生まれねぇ」
困惑するシノに、灯雪が言った。
シノがはっとして折れた刀身から顔を上げて見れば、灯雪は顔を顰め苦々しげな表情をしていた。
その表情もシノには読み解けない。読み解くだけの経験値が、足りない。
そして灯雪は告げた。
「何故なら、『灯雪』はもう死んでるからだ」
「…………」
その、言葉の意味が、一瞬解らなかった。
―――死んで――いる――?
の、ならば…。
「………では、あなたは、誰なんだ?」
シノが、表情を変えることなく、しかし内心では混乱しながら問う。
「…………さぁな」
灯雪…と思っていた男はそう言うと真っ二つに折った刀身を持って立ち上がった。
「……」
当惑するシノをかわして、先程までシノが座っていた木箱の前へ歩み寄る。
するとその上に置かれたままだったシノの上着を取り上げ、投げて寄越してきたので、シノは少しだけ視界と意識を逸らされた。
が、すぐに上着を抱えて目を戻せば、その木箱の蓋が開けられていた。
「…………それは…」
シノは、目を疑った。
その中には、先程の刃と同じように折られた刀身の残骸が詰まっていたのである。
確かにゲンマは、この人が刀を打ち続けているようなことを言っていた。
だがその刀は生み出されることなく、全て、打ち壊されていたというのか。
「俺が誰かっていうんなら―――」
カシャンカシャンと、刀身の墓場にまた、壊されたばかりの刀身が捨てられる。
そして木箱の蓋を閉めた男は何故か酷くやつれた様子で、刀を打っていた時の鬼気迫るような覇気を失っていた。
そこに見えるのはただの年老いた老人で。
「きっと、『灯雪』の残骸だな……」
その、意味が、シノには全然―――解らなかった。
*
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
金具雑貨の店を後にして旅館へと向かう帰り道。
シノとゲンマは黙々と並んで歩いていた。
とは言え黙々としているのはシノの方であり、ゲンマは黙したシノをチラチラと見て様子を窺っては
「 」
何か声を掛けようとし、しかしやはりと引っ込める。
灯雪の所から戻ってきたシノは、来る時になった不機嫌とは比べ物にならない程むっつりとしていて、
「何かあったのか」と尋ねても「何でもない」と答えるばかり。
帰ると言い出し金具雑貨の店を出るまではおばさんにあいさつをするなどしていたが、帰路に就いてからは完全に押し黙ってしまった。
しかも怒って機嫌が悪い…という感じではなく、何事か考えることに没頭している雰囲気で、余計声が掛け辛い。
シノは基本的に考え事をする時にはそうなるが、これだけ近付き難いのはゲンマにとって初めてだった。
ポケットに両手を突っ込み前を睨み据えて黙々と歩く姿はいつもとさほど変わりはないが、そのオーラが、
手を出した途端に逆鱗に触れてしまいそうな程ピリピリとしていて、手出しできない上に口も出せない。
ゲンマとて伊達に忍として幾度も修羅場をくぐり抜けてきたわけではなく、まさか下忍を怖れているわけではないが、
正直シノの蟲に襲われるのは御免被りたかったし下手に手を出してシノに嫌われるのは怖かった。
いったいこの気まずい空気はどうすりゃ良いんだ…。
ゲンマが空を仰いで溜め息を吐く――と、その時。
ドッ、と鈍い音がして何だと思って見れば隣を歩いていたはずのシノが居らず、ぱっと振り返るとシノが尻餅を付いていた。
どうやら滑って転んだらしい。
シノの靴は雪道には向いていない物だから無理もないが、注意深いシノにしては珍しく少々滑稽な失態だ。
考え事に没頭しすぎて足下への注意が疎(おろそ)かになっていたのだろう。
「おい、大丈夫か」
ゲンマは、思わず口も手も出してしまっていた。
「………」
向けられた一睨みはなかなかの迫力があったが、シノはむっつりとしながらもゲンマの手を取って立ち上がる。
人の手は借りない、という反発心は起こらなかったようだ。
ゲンマは今しかないと意を決し、ゲンマの手を掴んだシノの手を更に上から包むように握って言った。
「シノ」
身を屈めシノと目線を合わせ、聞き分けのない子どもに言い聞かせるようにしてもう一度語りかける。
「何かあったんだよな…爺さんと何があったんだ?」
「………」
シノは黙りこくったままじっとゲンマを見つめていたが、不意に口を開いた。
「アレは本物の灯雪なのか」
「………え…?」
「あの人は本当に、本物の灯雪なのかと言った」
「………そりゃあ…本物だろうよ。俺が訪ねて来た時、家族も村人達も言ってたし」
「その証言が真実だという証拠は」
「証拠って……お前一体何――」
「では」
ゲンマが言うのを遮ってシノは違う質問をした。
「あなたはどうして俺と刀匠を会わせようと思ったんだ」
「うん…?」
「俺はあなたから刀の話を聞いた憶えもないが、俺も刀の話などした憶えはない。
刀に興味があるとも言っていない。なのに何故、刀匠と俺を会わせた。魂胆は何だ」
「魂胆…って…」
睨むようなシノに、ゲンマが困ったような苦笑を浮かべる。
「俺はただ、爺さん達にお前を見せびらかして自慢したかっただけさ」
「誤魔化すな」
「誤魔化してなんかねーよ」
ゲンマはう~んと唸って少し上を向き、考えながら慎重に言った。
「……俺は、爺さんとはあんまり反りが合わなくてな。俺は好きなんだけど。向こうはなかなか心を開いてくれなくて、作業も最後まで見せてくれねぇ。
だから、確かに、お前となら仲良くできるんじゃないかと思ったってたのは、ある」
「………何故俺となら仲良くできる」
「何故って、だってお前ら似てるから」
「…………」
どうやら思ってもみていなかったらしく、シノはゲンマの言葉に愕然としたようだった。
「………似ている?」
「おう」
「……どこが」
「どこがって…気難しいとことか、生真面目で完璧主義で凝り性で無口で無愛想で……」
からかい甲斐が無いようであったり…と、指折り数え上げていくゲンマに、シノがもういいと止める。
「………だとしても…だが……俺と仲良くさせてどうする」
「どうするもこうするも…仲良くなったら友だち増えるだろ?」
「…」
シノは、自分の片手を包むゲンマの手の上に、更にもう片方の手を乗せて、考え込むように項垂れた。
「では…ゲンマさんは……特に何か深い考えがあって俺と刀匠を会わせたわけでは無いと…」
「ねぇよ」
「……」
ないないそんなモン、と言い切ったゲンマに、シノは溜め息を吐いた。
「深い考えって何だ。っつーか、お前が深く考えすぎなんじゃねーのか? そもそも俺が旅先にココを選んだのはお前に見せたいモンがあったからで、
爺さん達は…まあ、言っちゃ悪いがそのついでだ。どうせ来るんなら会わせてやろうと思っただけだぜ?」
「…………」
シノはまた押し黙った。
状況を把握しようと帰路に就いてからこれまでずっと頭の中で繰り返し再生させてきた記憶を、
出来る限り、事細かに思い出し、今のゲンマの発言も踏まえて再度頭を整理させる。
要するに―――。
ゲンマがなんとなく会わせようと思い自分を灯雪のところへ連れて行き。
その灯雪は懸命に不細工な刀身を作っては壊す老人で。
そして『灯雪』は死に、自分は灯雪の残骸だと言った。
「………」
冷静に考えてみれば、おかしな事だと改めて思える。
ゲンマの様子からするとあの男は、数度会っているゲンマには特別何も奇っ怪な事をしていないようだ。
作業を最後まで見せていないと言うことは、刀が生まれずに死んでいることも知らないのだろう。
心を開かない…とゲンマは言っていた。
とすると、自分には心を開いたからあんな態度を見せ意味深な事を言ったのだろうか。
それともただ、子どもだからと侮り、からかって煙に巻いただけなのか。
ただ追い返したかったから吐いた狂言とも考えられる。
演技のようには、見えなかったが…。ただの狂人とも思えない。
ゲンマには見せず。
自分に晒したのは正体か?
しかしもしそうなら、何故自分に見せたのか。
―――何故って、だってお前ら似てるから
「……」
やはり、まだよく解らない。
「………おい、シノ。シノ?」
迷走を始めたシノの思考を、ゲンマの声が現実に引き戻した。
はたと気付いたシノが顔を上げればゲンマが覗き込んでいる。
「動かねぇから、立ったまま寝たのかと思った」
そう言ってちょっと笑ったゲンマだが、すぐに真顔に戻って言った。
「って、ゆーか。また俺が答えちまってるじゃねぇか。情報交換…だろ? いい加減お前の情報も教えろよ」
何があったんだ? と再び尋ねてきたゲンマに、シノは口を開きかけたが……。
―――灯雪のファンだった仲間に、本物の灯雪に会って、その刀の生まれる瞬間を見てきたぞって自慢してやりたいんだ
不意に、何度も繰り返し再生した記憶の中から、そんなセリフが思い出される。
ゲンマにとってはまだ、あの老人は友人の憧れであった『灯雪』であり、しかもその居場所であるココは友人が突き止めた場所なのだ。
アレは灯雪ではない、と。灯雪はこの場所には居ないのだ、と。
まだよく解っていない曖昧な現状で告げるのは軽率だ。
この場所、そして『灯雪』という友人と繋がる大切なものを、確たる証拠も無しに傷付けるわけにはいかない。
「それは……」
シノは少し心配そうなゲンマを見つめて言った。
「まだ言えない…」
「………」
今度はゲンマが項垂れる。
シノもさすがに少し申し訳なく思ったが、昨日の事にしろ今日の事にしろ言えないのはゲンマのためだ。
またズルイと言われるかもしれないな…。
とシノは思ったが、予想外にゲンマは「分かった」と言った。
「『まだ』ってことは、いつか教えてくれるんだろ。ならお前に任せる」
そう言いながら屈んでいた身を起こし、そっとシノの手を放してうんと背中を曲げ伸ばす。
そして一息吐くとシノの頭をくしゃりと撫でて笑い掛けた。
「……でもな、一人で考えんのも良いが、解らない事があったら偶には人に聞いたりして頼りな。
せっかく経験豊富な年上と付き合ってんだしよ」
「………」
ゲンマの笑顔に、シノは暫し黙してから、こくりと頷いた。
「よし! それじゃあ、一度旅館に戻って、飯食ったら行くぞ!」
しかし、気を取り直して言われたゲンマの言葉に再び眉根を寄せる。
「行く…って、どこへ」
「ん? だから、さっき言ったろ? 『そもそも俺が旅先にココを選んだのはお前に見せたいモンがあったから』だって。それを見に行くんだよ」
「………これから…見に?」
「そう、これから」
「………」
シノは湧き上がってきた文句を、どうにか呑み込んで沈黙を守り、ただ溜め息だけを吐いた。
「シノ」
ほら、と差し出されるゲンマの手。
「…」
その、シノよりも多くの経験が刻まれた手に、シノはそっと手を伸ばした。
が、その時。
「ああそういや、さっき転んだの大丈夫だったか?」
「!?!」
ゲンマがいきなり尻を触ってきたものだから、思わず手が出てしまった。
「うおっ?!」
さすがかわしたゲンマが、しかし氷った雪に足が滑ってすっ転ぶ。
強(したた)かに打った背中と頭は上着と帽子に守られてそれ程痛くは無かったが、その衝撃が地味に痛くて情け無い。
「ゲンマさん…大丈夫、ですか」
すみません…と珍しく丁寧な言葉で謝ってくるシノ。
伸ばされた手には大きくて、少し余った手袋がはめられている。
「…いや……」
ゲンマはその手に掴まって起き上がると、笑って言った。
「蟲が出て来なくて良かったよ」
*(Scene5へ)