翌朝、シノは窓の外に広がる眩しいほどの光景に、本当に目を眩ませた。
一面に広がる白銀の世界。
雪も氷も全てがキラキラと輝いていて、シノの目には刺激が強すぎたのだ。
それは実際に外に出てみても変わらず、「いってらっしゃい」と満面の笑顔で娘に送り出されて眉を顰めながらも、
一歩屋外に踏み出した途端にシノはサングラスの内の目を細めてしまった。
陽の光が雪に反射し、下から照り付けてくるのだ。
シノは、これはサングラスがなかったら確実に雪焼けして大変なことになっているな、と思いながらゲンマの後に付いていった。
雪は昨日昨晩共に降らなかったようで均(なら)された雪道はそのままだったが、人の立ち入らない場所に積もった雪は真っ新で新雪さながら。
しかもその積雪は1メートル以上でシノの肩ほどの高さがあり、昨日登ってきた雪山の峠よりもあった。
しかしこれでも、まだ少ない方なのだとゲンマは言う。
ゲンマの聞いた話では酷い時は家一軒がまるごと埋まるのだそうで、綺麗や凄いなどとは言っていられない次元である。
過酷な環境もそれ相応に経験してきたシノだが、それでもそんなところに人が住めるのかと信じられなかった。

虫など環境が少し変化しただけで生きられなくなることがほとんどだと言うのに、人間とは強いものだと改めて驚かされる――。

そんな風なことを言えば、それはちょっと違うなと楊枝を揺らしながらゲンマは笑った。
「生命力だ何だなら、お前のお得意な虫なんかの方が強いんだろ? 適応能力にしても微生物とか細菌とか、強いのならいくらでもいる」
「……それは…まあそうだが」
「人間は、ちょっとココが違っただけさ」
そう言って、ゲンマが人差し指で帽子越しに頭をトントンと叩く。
シノは、人間が他の生き物より利口だったのだ、という意味だと思ったが、ゲンマの言い方は少し違った。
「他の生き物よりずる賢かった」
「………」
「人は強くなかったから、それを補うために知恵を使って、言葉を生みだし道具を作った。
そして経験や実験を経て知識と技術を持ち、環境を『変化させる』術を手にした。
暑いところなら涼しくなるように、寒いところなら暖かくなるようにな。
人間は環境に強いんじゃなくて、弱い自分たちに環境を『合わせ』たんだ。
そのために作り出した『物』が無けりゃ、こんなトコ、一秒だって居られやしねぇよ」
だって服が無くて真っ裸だったら死ぬだろ? と、爽やかな笑みを浮かべて振り向いたゲンマに、しかしシノは笑えなかった。
「……………意外だ…」
呆然と、唖然としながらそう呟く。
「あなたがそういう話をするとは……思わなかった」
ゲンマとは短いながらも深い関係を持ち、その独り身の家に訪ねては泊まることも少なくない。
確かに、遊びに行った時は何をするでもなく、会話も無く、本を読み耽るばかりで「ここはお前の自習室じゃねぇぞ」とオトナの遊び相手をさせられ、
幾度も体を重ねてからようやく相手に旅という趣味があることを知ったような、決してよく話し合い語り合う健全な付き合いをしてきたわけではないが。
それにしても、ゲンマは一度だってそんな話をしたことは無かった。
「何だよそれ」
「何故なら……あなたは一度だって、俺の読む本に興味を示さなかった」
シノの反応こそ意外だったらしいゲンマに、シノは言った。
シノの趣味はもちろん虫の事だが、その虫に関する物事というのは思いの外幅広い。
虫の形や生態はもとより、どうしてその形や生態になったのかを知るには生息地域の環境や変化を調べなければならないし、
その分布を把握するには統計学を学ばなければならない。また、虫の鳴き声を分析するなら音の、虫の体液や毒素などを研究するには化学の知識が不可欠だ。
他にもまだまだあるが、当然それら全てに精通することは非常に難しく、普通は得意分野を中心に究めていくものである。
しかし、シノは蟲使い、油女一族当主の息子だ。
寄壊虫の事を知り尽くしその秘伝を受け継がねばならないばかりでなく、その他の虫に関しても出来得る限り精通しなければならない。
そのためシノは読書に関してはほぼ雑食なのだが、やはり好みによる偏りというのはあり、
ゲンマの家に持ち込む本は環境や人との共生などといった自然系のものが多かった。
なのにゲンマは一度もその本の話題に触れたことがなかったのである。
「ああ……そういやお前、そういう系の本よく読んでたな」
「本の系統を知らなかったわけではないのだな」
「あ~そりゃ、……まぁ…」
「普通、恋人が興味を持っている事に関して、少しでも知識があるならばそれを話題に出すのではないのか」
「いや…それは……ん~…っと」
ゲンマは困ったように頬を掻いた。
そして内心で失敗したと舌打ちする。
シノの本に興味を示さなかった理由を、「へ~お前そんなの読んでたのか」と知らぬ存ぜぬで通せば良かったのに、
今気が付いたようなヘタな芝居が返って仇(あだ)となってしまった。
これで「今気付いたのだ」などと言おうものならシノは「知りながら気付かないとはどういうことだ、本に興味が無いのではなく俺に興味が無いんだろう」
などと言い出しかねないし、「話そうと思ったが忘れて…」と言っても結果は同じだろう。
今シノが知りたいのは、「何故恋人である自分の興味を知り、その知識があるのに一言も言わなかったのか」というものであり、
それは即ち「アンタにとって俺は恋人ではないのか」という究極的な質問をされているに等しい。
これは端から見ると分かり難いが、深いところで非常にデリケートな問題だ。
答え方を間違えればシノの機嫌を最悪に落とす結果になりかねない。
こういう時、どう対処するのが一番良いか…。それは――。
「だってお前があんまり熱心に読んでるからよ…。つまり…なんだ、……その話題に触れたら、延々語り出すんじゃねぇかと…」

正直に言ってしまうのが、吉でなくとも大凶にはならない選択だろう。
「そう思って……な?」
とゲンマが背筋の凍る思いで可愛らしく首を傾げてみれば、シノは呆気に取られたように「………なんだ…」と言った。
どうやら機嫌を損ねなかったらしいそんなシノの様子に、ゲンマが一瞬、お、と期待した…次の瞬間。
「つまり、あなたは俺の長話には付き合えないということか」
とシノの眉間が一気に狭まった。
そしてぷいと正面を向くとそれまでゆっくりとしていた足取りを早めてズンズンと先へ歩き出す。
「あ……おい、シノ」
ゲンマはやれやれと大きな溜め息を吐き、でもまあとりあえず危害を加えられなくて良かったと思うことにして、
「お前、どこ行くつもりだよ」
と行き先を知らぬシノの後を追い掛けた。

「……………」

シノの斜めった機嫌はいくら取り繕ってもなかなか直らない。しかし、ゲンマが「あ~」と間延びした声を発してから、
「そうだ、道具。道具の話。お前、『灯雪』っていう刀工(とうこう)、知ってるか?」
と尋ねると、ピタリとシノの足が止まった。どうやら興味を引く話題だったらしい。
「とうせつ? ……灯雪というと、あの有名な刀鍛冶の?」
「そっ」
ゲンマも一度足を止めたが、にいっと口の端を上げて笑うと再び歩き出す。
またゆっくりと進み出したゲンマに、シノはザクザクと雪を鳴らして小走りにゲンマの横に並んだ。
「これからその灯雪に会いに行くんだ」
そう言われ、しかしシノは当惑する。ゲンマの言葉の真偽が判らなかったのだ。
「……しかし、灯雪の鍛刀地(たんとうち)は火の国にあると」
「それは『灯雪派』の刀工一派が拠点としてる作刀地(さくとうち)だろ? 灯雪本人はもうとっくに隠居して、作ってんのは弟子達だ」
「…………」
シノはゲンマの言葉を考えるように、押し黙った。
シノはその戦闘方法故にあまり武器には詳しくないが、それなりの知識は持っている。
刀工とは刀剣を作ることを生業とする者のことで、刀匠(とうしょう)や刀鍛冶(かたなかじ)とも呼ばれるものだ。
その中でも『灯雪』とは、約40年前に新風の如く現れ現在まで数多くの名刀を世に出している、武器を扱う者なら知らぬ者はいない程の名工である。
刀工の中にも流派や派閥などがあり、『灯雪派』の刀工一派は他の刀派に比べれば歴史が浅いが、それでも確かな技と質には定評があり人気も高い。
木ノ葉にも愛用者は多く、どこの販売店にも必ず置いてあるブランドだ。
考えてみれば40年前、その灯雪が仮に20歳だったとしても今ではもう60歳でゲンマの言うように引退していてもおかしくはないし、
それで隠居したならば、刀剣が製造される場所――鍛刀地や作刀地などと言う――がたとえ木ノ葉にあったとしても関係ないだろう。
それに『灯雪』という名前からしても、この『雪洞(ぼんぼり)村』の出身である可能性はある。
だが……とシノの頭に引っ掛かったのは、どうしてゲンマが灯雪の居場所など知っているのか、と言うことだ。
「……何故あなたが灯雪の居場所など知っている。俺はあなたから業物(わざもの)にまつわる話も聞いたことはない」
一瞬、先程の怨みが蘇ってきたようなシノにゲンマは慌てて答えた。
「俺のダチに灯雪マニアがいてな。そいつが突き止めたんだよ」
「灯雪…マニア?」
「そう。普段はしゃべらないくせに、灯雪の刀のこととなると饒舌になってな。まるで生きてるようなんだと、何時間も何時間も延々語るんだ」
あれにはまいった…と遠く彼方を見つめるゲンマ。
その様子に、なるほどだから自分にも不用意に話題を振るのを避けたのか、とシノは合点した。
確かに、話し出すと止まらなくなる人というのはいる。
そしてその話に付き合わされて物凄い迷惑を被る人もいる。
けれど自分が前者と思われたことは、シノには少し心外だった。
「……俺は何時間も語り無駄な時間を取らせたりはしない」
「はは、そーだな。ってか、俺らはも~ちょい話した方が良いのかもな」
シノが不服そうに言えばゲンマはポンポンとシノの頭を撫でてきた。

近いようで、まだ遠い。
体はこれ程近くにあって繋がっているのに、心はいまだ離れたまま。
互いに手探り、時に触れてもまた見失い、擦り抜けてゆく――。

シノは撫でてくるゲンマの手を掴んで頭から剥がすと、言った。
「………情報交換が必要だ」
「ん?」
「あなたはこの村に何度か訪れているようだが、その灯雪に会ったことはあるのか」
「ああ、そりゃあ、最初来た目的がそれだったからな。それからけっこう親しくしてる。今日行くって連絡もしてあるし」
「……そんなに友好的な人なのか」
「灯雪自身は偏屈な頑固爺さ。でもその家族がフレンドリーでな」
ゲンマはそう答えてにっと笑うと、シノに驚くべき事を告げた。
「ほら、さっき旅館を送り出してくれた嬢ちゃん。あの子は灯雪の孫娘だよ」
「?!」
「昨日は、ちゃんと行くって伝わってるか確認してたんだ。手紙出してOKの返事ももらってはいたが……一応な。
事前の連絡しっかりしとかねーと、あの爺さんうるせぇから」
愉しそうな笑みを浮かべるゲンマに唖然とするシノ。
出掛けに旅館の娘が奇妙なほど満面の笑みを浮かべていたのは、行く先が自分の祖父のところだと知っていたからだったのだ。
それにゲンマが旅行の話題を数週間後に突然持ち出してきたのは、恐らくその手紙の遣り取りに時間が掛かったからだったのだろう。
こんな雪深い辺鄙(へんぴ)な場所だ。連絡も不便であろう。
「…………」
シノは、閉口した。
自分も秘密主義で余計なことを言わないがゲンマも聞かなければ情報を開示しないところがある。
無意識なのか意図的なのか。シノが「そういうことならさっさとそう言えばいい」と思う事を、しかしゲンマは飄々として言わずに置き、
更に予想外の事を予想外のタイミングで言ってくるのでどうにも掴み難くてやりづらい。
「―――それじゃあ」
シノが押し黙っていると、ふとゲンマが口を開いた。
「シノも教えろよ。昨日は何に落ち込んでたんだ?」
「…え?」
「え、じゃなくて。情報『交換』だろ? ギブアンドテイク。質問に答えたんだから当然お前も答えるんだよな」
「…そ……」
ほれほれと催促してくるゲンマに、シノは開いた口が塞がらなかった。
「それは言えない」
「え~、ズリー! それは不公平だろ」
「っ、不公平なものか。あなたが話したのは……そう、もともと俺が得て然るべき情報だ。それをあなたが出し惜しみしていただけじゃないか」
「然るも然らないもあるかよ。情報交換っつったのはそっちだぞ」
「そうだ。情報交換だ。誰も『答弁』とは言っていない。故に質問に答える義務はない」
「うわ、スゲー屁理屈。何だよ、俺が話さなけりゃ怒るくせに、自分が話さないのは良いのか」
「あなたはいつも大事なことを話さない。だから怒るんだ。俺は、大事なことは言っている」
「俺は大事じゃなくていいから聞きてぇんだよ。気になるだろうが」
「気にするな」
「『する』んじゃなくて『なる』んだ。自然発生的なモン、どうしろってんだ」
「忍だろう。そのぐらい我慢しろ」
「お前が教えてくれれば済む話じゃねぇか」
そう言ってしつこい『オジサン』に、シノはきっぱりはっきりと答えた。

「絶対に、断る!」

そんな言い合いをしながら歩く二人は互いに手を掴んだまま。
陽が昇り明るくなった灰白色の空に、キラキラとした雪源の煌めきがますます眩しくなっていた。


                 *


その後、言え言わないの水掛け論を続けた二人が到着したのは、金物を主とした生活雑貨のこぢんまりとした店だった。
ゲンマがカラカラとガラス戸を開けて入ると、中には更にもうひとつガラス戸があり、二重構造になっている。寒い空気が直接入り込まないようにするためだろう。
そして一方を後ろ手に閉めてからもう一つの戸を開ければ、シノ達は春が来たような暖かさに包まれた。凍えた体が一気にほぐれ思わずほっとする。
と同時に鼻水も出てきたのでシノがティッシュを取り出すと、ゲンマもくれと言ってきたので一枚、その手にペシリと叩き渡した。
「あらぁ、いらっしゃい!」
そんな入口の凸凹コンビに、甲高い声を掛けてきたのは40代と見られる女性。
クルクルとカールしたパーマで少しポッチャリ系のその人は、しかし顔立ちに旅館の娘の面影が重なって、シノには彼女の母親だと一目で判った。
小皺はあるが色白で肌艶も良く、なにより表情が明るくて、美人なのに愛らしさも持っている。
ゲンマを見るなり目をキラキラとさせて、人懐こさが十分に伝わってきた。
「どうもおばさん、久しぶりっス」
「久しぶりねぇ! ゲンマくん! まあまあまあまあ相変わらずいい男! 元気そうで良かったわ! この時季にこんなトコまで、大変だったでしょう!」
「良い運動になりましたよ。おばさんも元気そうで何より」
「元気だけが取り柄だものねぇ! あ、それでこの子がゲンマくんのお気に入りだって言う?!」
「!」
シノはその怒濤の勢いと、ゲンマがくん付けで呼ばれた衝撃、そしてゲンマと抱擁を交わすおばさんのはしゃぎっぷりに内心気圧されていたが、
唐突に話を振られてビクリとした。
「………油女シノです…」
それでもお辞儀をし冷静に対処したシノに、おばさんは何やら感激した様子でシノにまで熱い抱擁をしてきたものだから困惑する。
「なんて礼儀正しい子! ウチの子にほしいくらいだわ!」
ぎゅううううと抱き締められ、シノはどうしていいか判らなかった。
サングラスを掛けた顰めっ面の子どもなど、気味悪がられることはあっても好かれることはほとんど無い。
そんな自分を家族以外で喜んで抱き締めてくれたのは……二人目だ。
「おばさんおばさん、シノが苦しがってるから」
一人目が、そう苦笑しておばさんの肩を叩く。するとおばさんも笑って、ごめんなさいねと豊満な胸で潰していたシノを解放した。
シノは嬉しさと気恥ずかしさと困惑から更に眉間の皺を深めていたが、どちらの大人も気にすることなく楽しげに話を弾ませている。
もしかしたらこの二人、似た者同士なのかもしれないとシノが思っていると、ゲンマが振り向いて言った。
「ほらシノ、行くぞ」
「?」
首を傾げたシノに、ゲンマが笑う。

「もちろん、灯雪に会いにさ」

そしてシノは、勝手知ったるゲンマに案内された場所を見て驚いた。
そこは金物雑貨の店に繋がった母家の先。裏口から出て少し離れた所に建っている、工房だったのだ。
隠居していると言うからてっきり職人を辞めたのだと思っていたが、勘違いだったらしい。
立派な鍛冶場は熱気に満ち、いまだに生きていた。
そして名工『灯雪』もまた、匠として―――そこに生きていたのである。
「…………」
「爺さん、入るぜ」
呆然と入口に佇むシノの背を押して中へと遠慮無く踏み込むゲンマ。
シノもつられて入ったものの、そんなゲンマの行動がシノには信じられなかった。
息をするのも憚(はばか)られるほど緊張し張り詰めた空気。
他を寄せ付けぬ圧倒的な重みを感じさせる空間。
そこは、聖域だった。
そこへゲンマは気軽にズカズカと上がり込んだのである。
シノは一瞬ゲンマの不躾さにその足を踏んづけてやりたくなったが、カキンッと高鳴った鉄を打つ音に思い止まった。
見れば刀匠は目を逸らすことなく作業を続けている。
真剣なその横顔は60過ぎの老人とは思えない程気迫に満ち、シノでさえ、思わず格好いいと見惚れてしまった。
『灯雪』その人は、とにかく体格が良い。
筋骨隆々とまではいかないが捲った袖から見える腕は逞(たくま)しく、赤茶けた肌がますます硬質に思わせる。顔立ちも整っていて、太い眉に大きな鼻。
刻まれた皺やバンダナの端から見える白髪は確かに年齢を感じさせるが、それは老いた証というより勲章のように思われた。
ゲンマが兄貴分ならば、灯雪はまさに親分だ。
シノは灯雪の姿を知らないのだから実際この人が本人であるかなど判らない。
が、シノは本物だと思った。
たとえ灯雪でなくとも、この人は『本物』だと思えたのだ。
「シノ」
名を呼ばれ、呆と刀匠に見惚れていたシノははっとした。
見ればゲンマが壁際に置かれた大きめの木箱の一つに腰を掛け、ちょいちょいとシノを手招きしている。
シノはそんな所に座って良いのかと思ったが、突っ立っているわけにもいかないのでゲンマの隣に腰を下ろした。
そんな中でも刀匠は脇目も振らずに鉄を打ち続けている。
赤々と燃えたぎる火の中に入れた鉄を、取り出してはカンカンと叩き伸ばす。火花が散ることもあり、薄暗い室内にそれは星屑のようだ。
その輝きにまた少し見惚れてしまったシノだったが、しかし……と、ふと疑問が湧く。
熱くなったので手袋を外して上着を脱ぐと、シノはゲンマに小声で尋ねた。
「……一人で作っているのか」
シノは刀作りに関してそれ程詳しくないが、それでも数多の工程が要ることは知っている。
心身共に疲れる仕事だろうし、普通は数人あるいは集団で行うものであり個人でやるものではないはずだ。
そう思い訊いてみればゲンマは可笑しそうに笑って言った。
「そんな小声にならなくてもいいって。爺さん、趣味でやってるだけなんだから」
「趣味…?」
ゲンマの緊張感のない言葉と笑い声に刀匠が初めて反応を示し、ゴホンと一つ咳払いをする。
シノはビクリとして振り向いたが、刀匠は相変わらず作業を続けたままだ。
そしてゲンマも態度を変えない。
「ああ。刀を鍛えるのがご隠居の唯一の楽しみなんだって。引退しても、それしか能が無かったってこったな」
小声どころか、もはやゲンマは明らかに刀匠に向かって言っていた。
厳めしい顔の刀匠は何も応えず淡々と作業に没頭しているようだが、鉄を打つ音が何だか大きくなっている。
「…………」
そんなゲンマと刀匠の掛け合いにシノは内心でハラハラしながらも、それと同時に少し安堵していた。
初めは圧倒されてしまった刀匠だが、案外普通の人らしい。
ゲンマの言い方はどうかと思うが言い分はもっともで、ゲンマの言うことが真実ならば、この人は骨の髄まで刀工なのだろう。
そしてそれは残念ながら『刀バカ』と言い換えることも出来る。
少し、親近感が湧いた。
「………」
「シノ」
そんな時、シノの灯雪への緊張が解れたところへゲンマがまたしても予想外な事を言ってきた。
「俺は母家でおばさんとダベってるから、お前は好きなだけココにいていいぞ」
それを聞いたシノは、愕然とした。
失礼なことを言うだけ言ってその場にシノを置き去りにするつもりらしい。
確かにゲンマはこの熱い中上着も脱がずさっさと出る気でいたようだが、それはあんまりだろう。無責任にも程がある。
しかも、立ち上がって行こうとするゲンマの、上着の裾を掴んで引き留めようとしたシノにゲンマは言い放った。
「大丈夫。爺さん、ああ見えて子ども好きらしいからさ。寂しい老人の話し相手になってやんな。それにきっとお前とは気が合うから」
一応、ひそひそ声にしたつもりらしいが、確実にその『寂しい老人』にも聞こえている声量だ。
しかも「子ども好きらしい」とか「きっと気が合う」とか、安心させるつもりが本当にあるのかも分からない。
逆に不安を煽ってないか…とシノが呆然としていると、ゲンマは更に声を張り上げて駄目押しをしてくれた。
「……つーわけで爺さん、コイツ置いてくんでよろしく! 俺の可愛いのだから、あんまりイジメてくれるなよ?」
もう、言葉も出なかった。
ゲンマの意図がさっぱり解らない。自分に希代の名工を紹介してくれるのでは無かったのか。
だが、紹介は愚か、シノはただその名工の前に連れてこられ置いていかれようとしている。
それにそう言えば、先程のおばさんなる人物の紹介も受けていなかった。
結局、道すがらしてきた「もっと話そう」という話も虚しく、シノはゲンマの『不言』精神に振り回されてしまっているのである。
内心で狼狽えるシノの耳に、一際大きな鎚(つち)音が響いて聞こえた。
ビク、として見れば名匠が鋭い眼光をシノに向けている。
シノは僅かに怯んだが、睨まれたら睨み返すのが道理だろう。
シノは受けて立つように眉根を寄せ、こうなったら意地でもここに居てやると、腰を据えた。
「………」
そんな二人の火花散る初対面にゲンマは不敵な笑みを浮かべると、愉しそうに銜えた楊枝を玩びながら、静かに戸を閉め、その場から去っていった。


                 *


ゲンマが母家の居間を覗くと、灯雪の息子の嫁であるおばさんがコタツで眼鏡をかけて編み物をしていた。
「あれ、おばさん。店はいいの」
そう笑いながら防寒着を脱ぎコタツにお邪魔すると、おばさんも笑って言う。
「いいのいいの! 客なんてそう滅多に来ないもの! さっきはゲンマくん達を待ってただけだし!」
「はは、相変わらずだな~」
ほらこれ食べてと籠ごと勧められたミカンに手を伸ばしながらゲンマは答えた。
「それで? お気に入りのあの子はどうしたの」
「ああ、工房に置いてきた」
「置いてきたって、お義父さんのところに?」
「大丈夫大丈夫。あの二人は似てるから、意気投合するって」
「ああ! それはわかる! ほんと驚いちゃったわ! あの気難しそ~なところなんてそっくり!」
「でしょう? ああいうタイプはこっちが近付けてやるより、放っておいた方が自分から近付いていくんスよ」
はい、と差し出されたお茶を頂き、ミカンの皮を剥きながら笑うゲンマ。
まるで主婦同士のおしゃべりである。
「でもゲンマくんが突然『会わせたい奴がいる』なんて手紙寄越すもんだから、てっきりお嫁さんでも連れてくるのかと思ってたのに、
まさかあんな可愛い子連れて来るなんてね~!」
本当、ウチの子に欲しいわぁ…と言うおばさんにゲンマは少しだけミカンの籠を押し戻した。
「お嬢さんもずいぶん器量良しの娘になったじゃないですか」
「だからよ! 昔は『ゲンマさんのお嫁さんになる!』な~んて言ってたのに、あなたが長いこと来ないうちに良い人見つけたみたいでね。
来年の春に山を下りて一緒に暮らすんだって」
「………へぇ…」
ゲンマは、旅館を笑顔で送り出してくれた娘を思い出した。
ゲンマがこの村に初めてやって来たのはおよそ10年前。九尾襲来の事件から木ノ葉が復興し始めた頃だった。
それから年に1,2度遊びに来ていたのだが、7年程前に特別上忍になってからは忙しくなって来ていなかった。
この家の娘から春に村を出ることは聞いていたが、その母親からしみじみと聞かされると、
この雪と山に閉ざされた村にも時間が流れているのだということを改めて実感させられる。
「若い人はどんどん村を出て行って、随分淋しくなったわ。残るのは私みたいな年寄りばっかり」
「おばさんだってまだまだ若いじゃないっスか」
ゲンマがニコニコしながら言えば、おばさんは「ヤダも~!」と手で叩くような仕草を付けて応えた。
「ふふ、まあ人は減ってくけどね。『雪の国』にお姫様が戻って来てからは、山向こうの港までの近道として利用客は増えてるわ。
雪が降ると迂回した方が速いから客は来なくなるけど、お陰様で景気は良くなってるよ」
「ああ、あの大物女優が実は姫だったっていう。そうか…この山を越えれば雪の国までの船が出る港があるのか」
雪の国で起きた事件について詳しくは知らないが、カカシやうずまきナルトが関わっていたらしい事はゲンマの耳にも入っていた。
雪の国はその姫の知名度も手伝って今やすっかり観光名所となっており、ゲンマも一度は行ってみたいと思っていた所だ。
詳しいルートなどは調べていなかったが、そうと分かれば次シノを連れて行くならそこが良いかな、とゲンマは思い始めた。
「そうそう! 景気が良いと言えばね!」
だがおばさんが身を乗り出して、そうそうと始めたものだから思考が中断される。
何だと思えば、おばさんは口元に手を当てて内緒話のようにひそひそと言った。
「ほら、ウチの旦那、お義父さんの後継いで鍛冶屋やってるでしょう」
確かに、蛙の子は蛙、灯雪の息子もまた刀を作る職人だ。それも灯雪一派の作刀地で働いている。
「……ここだけの話、そこにどうも大量の注文が入ったみたいなのよ」
「………それって…マジで?」
ゲンマもつられて身を乗り出し聞いてみれば、それは聞き捨てならない情報だった。
刀の注文が大量に入ったというのが本当ならばそれは武器を大量に手に入れようとしている輩がいるということであり、
戦が起こる前兆である可能性があるのだ。
ゲンマが旅を好むのは人や物に出会ったり様々な経験ができるからだが、時々こうした情報が転がり込んでくるのも一つの理由である。
本当ならどこ吹く風、知らぬ存ぜぬを通してのらくらと周遊していたいところだが、職業柄そういうわけにもいかない。
根も葉もない噂だったりデマという可能性も十分あるが、火のないところに煙は立たないと言い、風聞・噂話というのはあながち侮れないのだ。
とは言え、そうした関連の職人には徹底した箝口令(かんこうれい)が敷かれており、家族にも情報を漏らすことは無いはずだが。
「……それがね、こないだ来た手紙に、『正月忙しくなるから帰れない』って書いてあったのよ。いい?
いくら灯雪派が有名って言っても、正月も帰れないほど忙しくなるなんてそうそう無いわ。間違いなく、大量の注文が入ったのよ」
「………う~ん…そりゃあ…」
近々戦が起きるわよと鼻息荒く言うおばさんに、ゲンマは鈍い反応を返す。
説得力が無いわけではない。が、憶測の域を出ない。
ゲンマは結論は出さず、ここは穏便に済ませることにした。
「旦那さん、浮気でもしてんじゃ……痛っ!」
「もう、真面目にお聞きよ!」
にこやかに言えば、おばさんにペシッと頭を叩かれた。
そうしていつの間にか編み物を横に置き、ミカンに手を出していたおばさんは溜め息混じりに言う。
「……それにしても、ウチの景気が良くなっても素直に喜べないんじゃあねぇ…因果な商売だよ、まったく」
「…………」
ゲンマは叩かれた頭を撫でながら、その他人事とは思えない、身につまされる言葉に苦笑を浮かべた。
「……まったくっスね…」
おばさんの鉄拳は思った以上に頭に残り、ジンジンと微かな痛みが疼いていた。



                 *(Scene4へ)