集落に到着した頃には陽も暮れて、薄闇の中シノが確認した入口には『雪洞村』と書かれていた。
その標識もほとんど雪に埋まっていて辛うじてのぞいていた文字だが、間違いは無いだろう。

ぼんぼり村――その名に、シノは憶えがあった。

その後、ゲンマに連れられて入った宿は『しずく』という、小さな村にしては立派な旅館。
2階建ての木造建築は木ノ葉の様式に近いが、さすが雪国と言うべきか、屋根の勾配は急でパイプなど雪の積もりそうな突起物もほとんど見えない。
おそらく道管は、外に出していると凍ってしまう…という理由もあるのだろう。
また、目を惹いたのは街灯で、至る所に見られる灯りは全て小さな「かまくら」の中に灯されたロウソクの炎だった。
さすがに建物の中は電灯で明るく照らされていたが、ラウンジの窓からは外の灯りが見られるようになっていて、なかなか凝った演出になっている。
内装も、本当に田舎の旅館とは思えない程、質素ながらもどこか高級感が漂っていた。
「不知火様、お待ちしておりました」
出迎えたのは女将と思われる初老の女性と、カウンターの中に立った二十歳くらいの女性。
女将の方は着物だが、もう一人の娘は作務衣(さむえ)を着ている。
ゲンマは慣れた感じでチェックインを済ませ、鍵を受け取ると、それをシノに渡してきた。
「俺はちょっと用があるから、お前先に部屋に行っててくれ」
「え…」
キーホルダーに書かれた部屋の番号は『201』となっていて、女将が案内してくれると言うので困ることはない。
だが……と、シノはにこにこと姿勢正しく立っている女将を見てから、ゲンマを見上げた。
一人が不安だとか心細いだとか、そんな気持ちは無い。
ただ、その場に残るゲンマと、娘が少し気になったのだ。
二十歳くらいの娘は色白で身長もシノより高く、あどけなさは残っているが傍目で見ても器量よし。
心配することではないと、分かってはいるが、気になるものは仕方がない。
とは言え行けと言われて行かないわけにもいかず、女将を待たせるのも悪い。
「………わかった…」
仕方なく、シノは小さく頷くと踵を返した。
女将に付いていく前にチラと振り返って見てみれば、娘と何やら親しげに話しているゲンマが見える。
シノは僅かに眉を顰めて、女将の後に付いて行った。
「こんな所まで、大変だったでしょう」
女将は、初老と言ってもまだ50後半だろう。
白髪交じりではあるが腰も曲がっておらず、背もシノより若干高くてシャキッとしている。
けれどキツイ印象は無く、穏やかな顔付きと恰幅の良さからは安心感も感じられる。
「………他に客は」
だがシノはそんな女将に対してもいつもの態度を変えることなく、顰めっ面のまま尋ねた。
それでも女将は気を悪くした様子もなく和(なご)やかな笑みを浮かべて答えてくれる。
「他にはおりません。この時季のお客様は珍しいですから」
その返答を聞いて、シノはやはりそうなのか…と思った。
下忍と言えど忍であるシノがあれ程苦労して来たのだ。一般人が安易に来られるはずがない。
それに山道はともかく村に下りてくる道にも足跡が無かったことから、ここ最近訪れた者はいないと考えられる。
この旅館はおそらく、紅葉目当ての観光客や登山家などが利用する宿なのだろう。
雪さえなければ来られない場所ではないし、看板や宿泊施設を見ただけでも観光地化されていることは判る。
「ゲン……不知火さんは、以前にも来たことが?」
「ええ。何度かお見えに。……けれど、この時季にいらしたのは初めてですね。それに誰かを連れて来られたのも初めてです」
そう言うと女将はふふふとたおやかに笑い、シノに優しい眼差しを向けて言った。
「お歳は聞いて知っておりましたが、まさかこんなに立派なお子さんがいらっしゃるとは存じませんでした」
「!」
ころころと笑う女将に悪意は全く感じられないが、それは大いなる誤解だ。
「ち…違う」
シノは驚いて即座に否定したものの、ではどんな関係と言えば良いのだろうかとはたとする。
上司と部下がプライベートで一緒に来るというのは怪しさ満点だし、自分たちが忍だと知らない可能性もある現状では軽率なことは言えない。
シノは、頭をフル回転させ当たり障りのない答えを必死に捻り出した。
「お……叔父です…」
自分たちの歳の差を考えれば、そんなところだろう。
女将は納得したのかどうなのか、まあそうでしたか失礼しました、と丁寧に侘び、部屋に着くと一通りの説明をして戻っていった。
部屋は程良い広さの座敷で、障子戸に仕切られた縁側には読書などをするのに良さそうな机と椅子も置かれている。
カーテンを開けてみればもう真っ暗で何も見えず、窓には冷たい水滴が付いているだけだったが、陽が昇ればきっと純白の雪の風景が一面に見えることだろう。
トイレや風呂も完備されているが、女将の話によれば共同風呂もあるらしい。
ただしそちらは村の銭湯にもなっており、村人と親交を深めざるを得なくなるそうだ。
良いところだと、シノは思った。
床の間の掛け軸には沢に雪が降っているような絵が描かれているが、温かみのある画風故か冷たさは感じられない。
雪山に囲まれた極寒の地でありながら、この村には人の温かさがあるように思われた。
女将も良い人だ。
たが――と、シノは荷物を下ろし畳に寝転ぶと、目を閉じて思った。
接客に熟達した人間は人や人間関係を見る目が肥えている。
気を付けなければ自分とゲンマの関係を悟られてまうかもしれないし、もしかしたらもう薄々勘付かれている可能性だってある。
気付いた上で、敢えて「親子」と言い気を遣ったのかもしれない。
実年齢で計算しても三十路のゲンマと十三の自分を親子と見るのは厳しい見立てだし、
自分は年上に見られることはあっても年下に見られることは滅多にないからますます有り得ない。
そもそも自分はゲンマとは全く似ていないのだ。
どこをどう見たって親子には見えない。

―――考えすぎか…。

シノはそう思い、寝返りを打った。
最近少し、そういうことに過敏になっている。
ゲンマとの関係が誰かに知られたところで動じたりはしないが、心のどこかに巣くった罪悪感が消えて無くならないのだ。
悪いことをしているつもりは、ないのに…。
「…………」
暖房の効いた部屋。 その暖かさと今日一日の疲れに瞼が重くなる。
微睡みの中、度々閉じる瞼の裏にちらついたのは、親しげに話す受付嬢とゲンマの姿だった。
「………」
まだ身に付けたままのゲンマのマントを手繰り寄せ、片手袋を抱くようにして身を縮める。
早く戻ってきて欲しかった。
その顔を見て、声を聞いて、体に触れて、存在を感じたい。
親子に見紛われる程歳の離れた男と付き合い抱かれることに、不安が無いと言えば嘘になるが、それでももう求めずにはいられなくなっている。
ゲンマの方にも多少なりとも思うところがあるのだろう。
抱く時彼は、過ぎるほどに優しくて、そして時々申し訳なさそうな顔をする。
それでも愛してくれることが嬉しくて思わず安堵してしまうのは、浅はかだろうか……。
閉じた瞼がいよいよ持ち上がらなくなり、意識が遠退いていく。
シノはその事に気付きながらもどうにも出来ず、すうっと熔けるように眠りへと落ちていった。


                 *


「ん……」
「お、起きた…」
ふとシノが目を覚ますと、ゲンマがシノを覗き込んでいた。
シノは一瞬状況を呑み込めなかったが、ぼやけた頭でゲンマと旅館に来たことを思い出す。
「……あれ…どうやって……鍵は…」
確か部屋には鍵をかけたはず……と思ったシノだったが、
「どうやって…って、開いてたぞ?」
とゲンマに言われて、鍵をかけるのをすっかり忘れていたことに気が付いた。
「今日は頑張ったからな……疲れたんだろ」
あ…と自分の失態に呆然としたシノを、ゲンマが微笑んで慰めてくれる。
子どものように扱われて、シノは気恥ずかしさと居心地の悪さに眉を顰めた。
だが次の瞬間、自分がゲンマに抱えられている事に気付いて絶句する。
居心地に違和感もあるはずだ。
うたたねと思ったのが、存外深い眠りだったらしい。
いつの間にかバンダナも手袋も外され、外套も脱がされていた。
「?!!」
「あ、悪ぃ悪ぃ」
驚いて僅かながらも動揺するシノに、ゲンマが気が付いて下ろす。
「畳じゃ寝難いかと思って、移そうと思ってな?」
そう言ってゲンマが向けた視線を追えば、床の間のある部屋に布団が敷かれていた。
「夕飯までまだ時間あるそうだから、それまで休んでな」
ポンポンと頭を撫でてくるゲンマを見上げるシノ。
人の服を脱がせておきながらゲンマ自身はまだ旅装のままで、どうやら部屋に来てからそれほど経っていないらしい。
寝て忘れてしまえたら良かったのに、短時間の睡眠の間にも整理され妙にクリアになった頭には、
親しげに話す受付嬢とゲンマの姿が鮮明に浮かんできた。
「…………あの女性とは何を…」
「ん…?」
シノの頭に手を置いたまま小首を傾げたゲンマに、シノはふいと視線を逸らせて言った。
「ナンパでもしていたのか」
そんなことはないと分かっていても思わず口調が刺々しくなってしまう。
ゲンマはあまり自覚していないようだが、飄々として誰とでもすぐに打ち解ける性格や兄貴分的な人柄は男女問わずウケが良い。
それに何より容姿が良いため、なかなかにモテるのである。
けれどそんな心配をよそに「まさか」とゲンマは一笑し、
「俺が口説くのはお前だけだよ」
とシノの顔を両手で包み自分の方へと向けさせて言った。
その優しく熱い眼差しに、シノの頬が仄かに赤くなる。
そんなシノの態度に触発されたのか、薄い笑みを湛えていたゲンマの表情が真剣なものになった。
そしてそっと、顔を寄せてくる。
キスをされると思ったシノは、緊張した。
ゲンマの態度からすると軽いキスだけでは済まなそうだし、その先に発展することも考えられる。
そう思っただけでシノの身体は硬直して、気付けばギュッと目を瞑っていた。
だが、実際にされたのは、片頬への軽い口付けだけ。
チュッと頬に口付けたゲンマはつんとそこを指先で押すと、恐る恐る目を開けたシノに愉しげに言った。
「……ここ、畳の痕付いてるぜ?」
「~~~~~」
シノが顔を真っ赤にすると、それを見たゲンマは更に愉快そうに笑い、ポンとシノの肩を叩いて屈んでいた身を起こした。
「さって、俺も着替えるかな」
シノからビシビシと送られる非難の眼差しを避けるように背を向けて、態とらしく伸びをするゲンマ。
シノはからかわれたことと、期待してしまった自分に憤りを隠せず、危うく蟲を出しかけるまで頭にきた
――のだが、本当に着替え始め服を脱いだゲンマを見て、色々な熱が急激に醒めた。
「…………」
「……ん?」
不自然に沈黙し大人しくなったシノに、ゲンマが振り返る。
刻まれた古傷を含めても、鍛え上げられたたくましい体躯は何度見ても羨ましく思う程だ。
が、その胴に巻かれているのは紛うことなく腹巻きで、下には股引まで履いている。
防寒対策として間違ってもいないしその有効性はとてもよく理解出来るのだが、それを見て、シノは差というか、
ゲンマが『オジサン』の部類に属するのだということを改めて認識させられ、痛感してしまった。
けっして腹巻きや股引をバカにする気は無い。ついでにオジサンが悪いわけでも無い。無い。無いが……。

せっかくイケメンなのに……。

「どうした…?」
不思議そうにそう尋ねてくるゲンマに、シノは額を押さえ暫し考え込んだ末、言った。

「………いえ…実は………ゲンマさんは、俺の叔父さんということになったもので」

「はあ…?」
ゲンマが、間の抜けたような声を上げた。


                 *


夕食を終えた後、ゲンマが風呂から上がって出てくると、先に上がっていたシノが寝床に沈んでいた。
余程疲れたのだろう。
まさに泥のように眠るシノに、ゲンマは笑みを浮かべて思った。
普段は顰めっ面で気難しい大人のような雰囲気を醸し出してはいるが、蓋を開ければまだ13歳の少年だ。
欲目かも知れないが覗き込んでみればその寝顔はあどけなく、非常に愛らしい。
「……子ども、か…」
何事か気落ちしたようなシノは結局その理由は告げずに、ゲンマとの間柄を「甥と叔父の関係だ」と女将に言ってしまったことを告白した。
その事を思い出したゲンマが、浮かべた笑みを苦笑いに変える。
女将がシノを自分の子どもだと思った…という話は、正直笑えない話だった。
ショックも受けたし、シノとの歳の差を改めて突き付けられて思い知らされた気分だ。
子ども扱いされることをシノは嫌うだろうが、ゲンマからしてみればやはりまだ子どもで、そんな幼気(いたいけ)な少年に手を出していることに胸が痛むことはある。
さっきも、シノの反応があまりにも可愛かったものだから思わず夕食の前に夜食を頂いてしまいそうになったものの、寸前で思い止まった。
シノが疲れていたのは明らかだったし、あの場で手を出すことは大人として躊躇われたのだ。
シノを抱きたかったが、そこは自制心でなんとか持ち堪えた。
今だって襲いたい気持ちは充分ある。
だが今はそれ以上に、愛しいこの子の寝顔を守りたいという想いの方が強かった。
「シノ……お休み…」
深い眠りに就くシノのこめかみに触れるだけのキスをして、ゲンマは隣に布かれた布団に潜り込んだ。
眠かったろうに、ゲンマが風呂に入っている間にシノが布いておいてくれたのだ。
今夜はその優しさを抱いて眠ろうと、ゲンマは思いながら瞼を下ろした。



                 *(Scene3へ)