ザクザクと、踏み出した足が尽く真白い雪に沈み込んでなかなか前へ進めない。
冷たい風に晒された頬はピリピリと痛み、切らした息を吸い込むたびに冷気が喉を凍てつかせる。
「シノ……大丈夫か?」
膝上まで積もった雪に足を取られ、転ぶこともままならない状態で膝を付いたシノに、前を歩いていたゲンマが振り返って言った。
ゲンマは普段している額あての付いたバンダナではなく、寒い地方で見られる耳当ての付いた毛皮の帽子を被っている。
上着にはファーの付いた厚手のブルゾンを着用し、ズボンは普通なようだが靴はスノーブーツ。
一見すると、雪国のファッショナブルな兄ちゃんといった風貌だ。
一方シノは毛糸のバンダナに襟を立てたコート、靴はスポーツシューズではあるが雪対応ではない。
また、それでは寒いだろうということでゲンマが貸してくれた手袋片方とフード付きのマントを身に付けている。
そのお陰でだいぶ寒さを凌げてはいるものの、雪深い山はそれでも容赦なく冷たく、
はぁ…と息を吐けば、湯気のような白い蒸気がはっきりと立ち上った。
だが、ゲンマの白く象られた息は、多少弾んでいるものの荒いという程ではない。
寒さに鼻の頭が赤くなってはいるが、その表情は飄然としていて余裕すら垣間見える。
実際余裕があるのだろう。その証拠に、楊枝(ようじ)はいまだ銜えられたままだ。
「…………」
ほら、と差し出された救いの手に、息の上がったシノが眉根を寄せる。
自分に手を伸ばすゲンマは特別上忍。対するシノは、まだ下忍。
歴然としたこの差は、仕方がないと言えば仕方がない。
身体能力、運動能力、体格、身長、おまけに経験値まで、自分の倍以上生きている人間との差を埋めるのは容易なことではない。
しかし……それでも。
シノはぐっと体重をかけて自力で立ち上がった。
驚いたようなゲンマの顔を見据えながら、息を吐く。
「………平気だ…」
差し伸べられた手に縋るのは嫌だった。
できれば、できるだけ対等でありたいと思うのは、おこがましいことだろうか――。
「………なんだ…」
サングラス越しに手向けた視線の先でゲンマがシノに拒まれた手を下ろす。
その顔は少し困ったようだったが、次に発せられた言葉は呆れているようだった。
「勝手に休暇届出しちまったこと、まだ怒ってんのか?」
「…………」
シノは、自分とゲンマとの間にある差に、返す言葉を失った。
*
Snow light drop~雪の灯雫~
*
「……………旅…?」
数週間前。
木ノ葉にも冬の寒気が入り込み、冷え込んだ夜のこと。
熱の籠もったベッドの中で及んだのは、ゲンマの趣味の話だった。
「………と言うと、各地を放浪する…とか」
「昔はそれもやったけどな。今じゃそんなに休みも取れないし、精々季節の名所に行ってぶらぶらするくらいだ。旅っつーより旅行だな」
「……一人で?」
「だいたいそう、一人で気ままにうろつく。……が、花見の時季なんかには皆で酒盛りしに行ったりはする」
腕に抱き込んだシノの頭を撫でながら、ゲンマが笑う。
「今度一緒に行ってみるか? 紅の飲みっぷりはスゲーぞ~?」
「…遠慮する。何故なら、酔っ払った先生の姿など見たくないからだ」
大真面目に答えたシノに、ゲンマはシノを抱き締めて更に笑った。
そうかそうかと一頻り笑い、終えると一息吐いてシノを抱く腕を僅かに緩める。
そうして、シノの耳元で優しく囁いた。
「………シノ…今度、二人でどこか行こうか」
その甘い誘いにシノは思わずドキリとしたが、何とか声だけは平静を装って返す。
「…………旅行に…?」
「そう。どこか行きたい所とか、見たいモンとかあるか?」
「…………」
あなたが一緒ならどこでも良い―――。
一瞬、頭に浮かんだそんな答えをシノは慌てて却下して、別の答えを考えた。
今の季節に観光するとなると、南に行けばまだ紅葉があるだろうし、北に行けばもう雪が降っているだろう。
紅葉狩りに冬の山、調べれば何かしら祭りも行われているはずだ。また季節を鑑みなくとも名所は沢山あるし、温泉地だってある。
と言うか、そもそもシノは旅行どころか木ノ葉の里の中でさえ巡遊したことが無いのだ。映画館にも木ノ葉の温泉にも行ったことがない。
あのイルカやナルト御用達(ごようたし)の一楽すら利用したのは片手で余るほどだし、沢山ある食事処も然り。
甘味処で買い食いしたのなど、偶然出会した三代目火影に奢ってもらった時が初めてだったくらいだ。
里の地理は学校でも習ったため隅々まで知っている。
どこにどんな店があり誰がやっているのかも把握している。
けれど、それは知識としてだけで、体験したことはほとんど無かった。
ゲンマは旅先でぶらぶらすると言っていたが、そうした感覚はよく解らない。
何か目的がありそれを達成する…そういう理念の下でやってきたため、寄り道や道草など余計なことをした例しもないし、したいと思ったこともない。
遊びに行くとか、旅行に行くとか、それは何のためにすることだ?
楽しむため? ならば自分は本でも読んでいれば満足だ。
骨休みのため? それなら出掛けるより家で寝ていた方が良い。
ゲンマと旅行に行ったとして、一体何をすると言うのだ?
宿泊なら、自分はとうにこうしてゲンマの家に泊まっているし、することもしている。
わざわざ出掛けてどうすることもない。
「…………」
「………………おい、シノ…起きてるか?」
考えすぎて迷走し始めたシノの思考を、ゲンマの声が現実に引き戻した。
はたと気付いたシノが頷けばゲンマが身を離してシノの顔を覗き込む。
「いくら待っても返事がねぇから寝たかと思った。それとも、眠いか?」
あやすように顔を撫で、頭を撫でてくるゲンマに首を振るシノ。
「俺は――」
シノは口を開き、逡巡(しゅんじゅん)した挙げ句に辿り着いた答えを告げた。
「あなたがいればそれで良い」
結局はそんなところだ。
特別なことは望まない。どこかに旅行に行く必要もなければデートをする必要もない。
こうして一緒にいられればそれだけで十分で、一番である。
「嬉しいこと言ってくれるじゃねぇの」
シノの回答を聞いたゲンマは少し驚いたような顔をしたが、ふっと笑うとシノの額にキスをして言った。
そしてふふと笑みを深め、つつつ、とシノの背筋を指先で掠めるようになぞり下ろす。
「―――っ!」
「……何だかまた可愛がりたくなってきた」
「…………今からか?」
「眠くないんだろ…?」
「…………」
シノは口を噤み暫し躊躇ったが、返答を待つゲンマに、一つ息を吐いて腕を回した。
そうして話題は打ち切られ終了した―――はずだったのだが。
それから暫く経った昨日のこと。ゲンマが突然、何の前振りもなく「明日行くから」と言いだしたのである。
それは、行かないか? という質問でもなければ誘いでもなく、行くから用意しておけという決定事項の宣告だった。
「………は…?」
家の近くで、それを告げるためシノを待ち伏せていたのだろうゲンマに、しかしシノは意味が全く解らない。
一体どこへ何をしに行くのかと尋ねれば、「旅行」という答えが返ってきて、
「行き先は着いてからのお楽しみ。ああでも、防寒対策して来いよ。寒いとこに行くからな」
と、愉しげに言われる。
シノはポンポンと頭を撫でられ、明日の集合時間と場所を告げられて、漸く数週間前の話題を思い出した。
ゲンマが『不言実行』を好むことは知っていたし、シノも嫌いではない。が、これはあまりにも突然すぎた。
「しかし、仕事は…」
「大丈夫。休暇届は出しといたから」
「………
俺の分も?」
唖然とするシノに、悪びれた様子もなく「おう」と頷くゲンマ。
その無邪気な大人の笑顔に、シノは珍しく語気を荒げた。
「――っ、勝手な事をするな。一言の相談も無しに……こちらにも都合というものがある!」
「あ…おい、シノ!」
憤慨し踵を返したシノを、ゲンマが慌てて引き留める。
背後からぎゅっと抱き竦められて、シノは足を止めた。
「悪ぃ……ごめん。驚かせようと思ったんだ」
「…………」
「お前、俺がいれば良いって言ったろ? だから勝手に決めちまった」
「………そういう意味では…」
確かに最初、ゲンマと一緒ならどこに行っても良いと思った。
だが、答えたのはそういう意味ではない。
しかしゲンマにはうまく伝わっていなかったようだ。
「………。……わかった…」
自分の言葉も足りなかったのだろうと思い、怒りを静めて振り向くシノ。
ただこれだけは言っておかなければ、と、シノは情け無い顔をした特別上忍に向かって言った。
「ただし、今後は重々気を付けてください」
ぱっと華やいだその顔に、シノは小さく溜め息を付いた――。
*
*
*
*
「…………」
吐いた息が白く浮き立つ。
そんなこんなでシノはゲンマと今朝早くに出立したわけだが、それはシノの予想を遥かに超えて長く険しい道のりだった。
旅行というより、旅というより、最早修行。特別上忍がルンルン気分でスキップするように飛んでいく後ろを、シノは死に物狂いで追い駆けてきたのだ。
まあそれは、幾度と無くかけられた「スピード落とそうか?」というゲンマの親切な言葉を、意地を張って断固と拒否したシノ自身のせいではあるが。
とにかくシノは、頑張った。
その上ようやっと辿り着いたのが雪山で、今またそこを必死に登っているのである。
雪を見た時、シノは防寒対策をしてこいと言われた意味が解ったが、それならば雪対策をして来いと言って欲しかったと思ったものだ。
だが今ではそんな不平も出てこない。
「着いてからのお楽しみ」と言われた行き先に当初抱いていた不安すら、苦難に満ちた道のりの末にもうどうでもよくなっている。
とにかくどこでもいいから辿り着きたい。
残っているのは、最早意地だけだった。
「…………」
ゲンマと自分の差に閉口し、言葉無く首を振ってよろよろとまた一歩踏み出せば、圧された雪がギシギシと鳴る。
ゲンマをかわし、この旅で初めてゲンマの前に出たシノは、足跡のない真っ新な世界を一面に見た。
灰白色の空と雪道の境界もほとんど判らず、木々の黒い幹が無ければ方向感覚を失ってしまいそうだ。
とは言え、行き先を知らないのだから方向感覚があったところであまり意味はない。
目的地も知らず、ゲンマという目標も失って、あるのは真っ白な道なき道。
目的の無い旅というのはこんな感じなのかと、シノは漠然と思った。
アテもなく、一歩、また一歩と踏み出していく。
ドサドサと、どこかで雪の落ちる音が聞こえてきた。
*
それから自分の息遣いだけを聞いて歩くこと数時間。
結局ゲンマが再びシノの前に出ることは無く、控えるように付き添い要所要所で道を示すようになった。
雪の深さも増し傾斜も更に厳しくなって、きっと自分に何かあった時支えてくれるつもりなのだろうと思いながら、シノはそうならないように雪を掻き分けて進む。
ペースメーカーだったゲンマが下がったことで速度はだいぶ落ちたが、それでも漸く登り切り目にしたのは、白い山々に囲まれた小さな集落だった。
「………」
「シノ、もう一頑張りだ。でもここまで来りゃあ多少暗くなっても大丈夫だから、ゆっくいでいいぞ」
そう言ってポンポンとシノに付いた雪を払い、ニッと笑うゲンマに、シノはようやくゲンマがハイペースだった理由を悟った。
眼下に見下ろした集落には、影が落ち始めていて明かりもぽつぽつと窺える。
灰白色だった空には暮れかけた陽の色が混じり合い、遠くには一番星も見えた。
ゲンマは、暗くなる前に雪山を越えたかったのだろう。
そういうことならそう言えばいいのに………。
シノはそう思ったが、夕陽をバックにした雪山の絶景に免じて黙っていることにした。
それにそのことを知っていたからと言ってあまり大差はない。
ここまで来るのにシノはほとんど考える余裕もなく、付いてくるのにひたすら無我夢中だったのだから。
「ほら」
呆けた顔の前に差し出される手。
見ればゲンマが微笑みながら手袋をしていない方の手を差し伸べている。
夕焼け色に照らされて落ちる陰影、そしてキラキラと反射した雪の光りがゲンマを彩り、シノのグラスに映し出された。
「……」
綺麗だと、思った。
思って、恥ずかしくなり思わずうつむく。
うつむいた先には差し出されたゲンマの手があり、シノは逡巡してから、躊躇いがちにその手を取った。
意地を張ったところでもう仕方がないように思えたのだ。
雄大な自然の景色を見て、どうでもよくなったのかもしれない。
そっと、ゲンマの手袋をはめた手を乗せれば、自分のよりも厚く大きな手がきゅっと握り締めてくる。
その手が少しかじかんでいるようで、シノもぎゅっと、握り返した。
*(Scene2へ)