オーシャン・ブルー
「ひゃっほ~!!!」
バッシャ~ン!と盛大な水しぶきを上げ、張り出した小高い崖の先端から海へダイブした少年は、
暫く海の中に潜った後、再びバシャンと音をたてて水面に顔を出した。
「ぷっはぁ!……おーい、シノ! お前も潜ってみろよ! すっげーキレイだぞ!!」
水を得た魚の如く生き生きとその瞳を輝かせ、その身体全身で海を楽しむ彼の姿を、シノはよくやるなと半分呆れ半分感心しながら眺めていた。
崖の上からダイビングというのは、忍ならともかく一般人にとっては非常に危険な行為である。忍とて、体を故障する恐れがあることに違いはない。
その事を注意したいのはやまやまなのだが、心底楽しそうな姿に、その気も失せてしまう。
再び、キレイだと言う海の中に潜水した姿を眺めながら、シノは小さく、息を吐いた。
キバが突然、海へ行こうと言いだしたのは一昨日の事。
「海の日と言やぁ、海だろう!」
と、そのまんま過ぎて理由になっているんだかいないんだか分からない理由を引っ提げて、
意気揚々と、目をキラキラ輝かせてシノを誘いにやって来た。ちょうど海の日は休みだから海に行こう、と言うのである。
しかし、それを聞いたシノは、
「断る。休みは休むものだ」
と切り捨てた。そしてその返答は当然、キバの反感を買った。
「何だよそれ! 休みだからこそ出掛けるんだろうが!」
意見は真っ向から食い違い、暫く休日の過ごし方で揉める事となったのだが、結局キバの粘りと赤丸の懇願にシノが折れた。
ところが、赤丸は勿論、ヒナタや皆も誘って行くのかと思いきや、蓋を開ければキバとシノの二人だけ。
詰まるところ、休日デートの申し込みだったわけだ。
シノは羽織ったパーカーの裾を引き寄せ、膝を抱え直した。
足下の白い砂浜の上を、ヤドカリがえっちらおっちら前進していく。
サングラス越しでよくはわからないが、紺碧に澄んだ海はキレイで、水平線上に広がる真っ青な空と真っ白な入道雲は、
絵葉書にしたいほど素晴らしい風景なはずだ。
それに、浅瀬がほとんど無く、ごつごつとした岩にも囲まれているために海水浴場として開発されなかった自然の場所であるから、他に人の姿も無い。
キバが穴場だと自負していたのも頷ける、最高のスポットだ。
ただ。
最大の問題は、シノは海があまり得意ではないという事である。
厳密に言えばシノではなく体の中の蟲たちが、であり、海は蟲達にとって安息の天敵とも言える。
有害光線、潮水、水圧、酸欠…その他諸々。仕事の時ならいざ知らず、休日の日に蟲達の安息を脅かす事はしたくない。
だからシノは、休みの日は基本的に大人しく過ごしていた。
それなのに、今は砂浜で座っている。
日除けに持ってきたパラソルの下とは言え、シート越しの砂の熱とじりじりと照り付ける太陽の熱は容赦なく、蟲達が過ごし難さを感じている事は否めない。
赤丸のように留守番をさせることができれば良いのだが、生まれた時から共に生きる蟲達が居ないと、今度はシノ自身に支障を来す事になる。
体のバランス感覚や力感覚、チャクラコントロール等に微妙な変化が生じ、動きが鈍くなったりぎこちなくなってしまうのだ。
それに、精神的にも、居て欲しいというのが本音である。
赤丸が居ない今、これで蟲まで居なければ、本当にキバと二人きりになってしまうのだ。
「すまない」
囁くと、体の中から微かなざわめきが起こり、問題ないと返事が返ってきた。
海面に頭を浮かべて、キバは顔を顰めた。
「海の日と言えば海!」とハイテンションなノリでシノを誘えたのは良いとしても、テンションが高かった所為で、後の事を全く考えていなかったのだ。
とにかく海だから泳いでおこうと素潜りしたり飛び込んだりしているものの、シノは浜辺に座ったまま一向に動かない。
泳ごうと誘いもしたが、断られた。
矢っ張り、あの時は勢いで押して頷かせたようなものだったからな…。と誘い方を反省する。
もしかしたら、本当に来たくなかったのかも知れない。
一度約束したことは意地でも破らないシノの性格は百も承知で、だからこそ易々と約束しないことも知っている。
だが、あの時ばかりは無理矢理承知させてしまったのではないだろうか。
そう考えて、いや、でも、しかし、とキバは首を振る。
それでも、ここが穴場だという自信は有るのだ。
水は澄んでいて珊瑚礁だって見えるし、珍しい魚も居るし、海の中から見上げる海面は光が揺らめいていてとても幻想的。
暑い夏に気持ち良い冷たさで、ゆらゆら浮いているだけでも良い気分になる。
シノにもそういうのを楽しんでもらいたいと思って、前々から連れてきたかった場所だ。
キバはう~んと海の中で唸った。
こんな時、赤丸が居てくれたらもっとスムーズに行くんだろうけどなぁ……。
と家に置いてきた相棒を想う。
置いてきたと言うより、送り出された感じではあったが。
しかしいくら唸っても、こうなっては今更後へは引けない。
キバは考えた末に、一度海から上がる事にした。
ザバザバと岸に上がって、シノの下へ向かう。
シノは、上がってきたキバにタオルを投げて寄越してきた。
灼熱の太陽に晒されたタオルは、フカフカしていて気持ち良いものの、少し熱い。
キバはおざなりに熱いタオルで体を拭くと、シノの隣に腰掛けた。
眩しい海と空と砂浜が、日陰の中からは余計眩しく見えた。
「なあ、楽しくねぇ?」
キバは、正面の景色を見据えたまま、横にいるシノに尋ねた。
きっと、「ああ」とか「楽しくない」とか端的で痛烈な言葉が返ってくるんだろうと思い、心なしか身構える。
しかし、シノは予想に反して「否」と答えた。
キバがシノを見ると、シノもキバを見ていた。
「楽しんでるようには……感じねぇけど?」
シノのサングラスに映った自分の姿に、キバが疑いの眼を向ける。
シノは喜怒哀楽が殆ど表に出ず、特に喜楽は目で見ても判らないので、雰囲気を感じて判断するしかない。
そして今は、それすら感じられなかった。
そんなキバの視線に、シノはちょっと眉を寄せて応える。
「……楽しいというか、楽しんでいるお前を見るのは好きだからな」
そう言って、視線を少し外す。ちょっと恥ずかしがっている…ように見えなくもないその様子に、仄かに赤くなって、キバも視線を逸らせた。
「…………俺だって…」
視線を逸らしながら、キバがボソボソと不満を漏らす。
「お前が楽しんでるの見たいんだから、もう少しそういうの、表に出せよ」
楽しんでんのかな、と感じた事ですら、数年間一緒にいて片手に余る程しかない。
一度で良いから楽しんでいるところを見てみたいと思うのは、当然の好奇心だし、自分が楽しませたいと思うのは恋人として当然だろう。
しかし、シノはキバの言葉に黙ってしまった。
暫し、無言の時が流れる。
ザアザアと、波の音だけが聞こえてきた。
「……………俺、もう一泳ぎしてくるわ」
そう言うとキバは逃げ込むように、再び海の中へ潜っていった。
プカプカと浮かび、波に揺られること数時間。
空の色は褪せ、夕暮れ時も過ぎようとしている。
キバは黄昏れの空を見上げながら溜め息を吐くと、ふっと体に力を入れた。
海の中を泳いで、岸に向かう。
放っておいたシノがどうしているかと考えて、帰ってしまったかもしれないと一抹の不安が過ぎったが、
ザバッと顔を出して見れば、シノは数時間前と変わらない体勢で座り込んでいた。
日除けの必要がなくなったと判断したのか、パラソルは畳んで仕舞われている。
キバが海から上がって行くと、シノは先程と同じようにキバにタオルを投げて寄越す。
タオルは先程と同じ物だったが、すっかり乾いていて、熱も引いていた。
キバは受け取ったものの、しかし拭くことなく、シノをじっと見詰めた。
その眼差しを、シノもじっと見つめ返す。
二人はそうして暫し見つめ合っていたが、不意にシノが視線を下ろすと、徐に立ち上がった。
砂が付いていたのかポンポンと軽く尻の辺りを叩き、キバに歩み寄ってくる。
浜の砂に、足跡が踏み残される。
「………俺は…」
キバが持ったままのタオルを取り上げ、首や腕、胴を拭いていく。
顔にタオルをあてがって漸く、シノは再びキバと視線を交わした。
「楽しいという感情を、どう表せばいいのか分からない」
キバの頭にタオルを被せたシノは、キバを見つめた後、そっとサングラスを手に掛けて外した。
キバはそれを見て、僅かに目を瞠った。
シノが自ら眼鏡を取る事は、滅多に無い。
顕わになった瞳は、未だ残る夕焼けの光りに細められる。
キバは反射的にシノの頭を引き寄せ、自分の影の中に引き入れていた。
シノの顔が、目と鼻の先となる。
「だが」
透き通ったシノの目が、間近で、真剣にキバの目を捕らえていた。
「俺が、お前を見て……一緒にいて、嬉しいと感じるのは事実だ。それは信じてほしい」
キバは、黙ってシノの目を見つめていた。
シノの眼差しは、真剣で、必死ささえ感じられる。
キバは、目を細めた。
シノにこんな表情をさせたかったわけではない。
見たかったのは、こんな表情ではない。
ただ―――。
「そんなこと……言われなくても分かってるよ」
キバはそう言うと、シノの顔に手を添えて、口付けた。
「……だから、無理しなくて良い。ただ、楽しいと思ったり、嬉しいと思ったら、ちょっとでいい。ほんのちょっとでいいから、
微笑ってくれりゃあ、俺は嬉しいんだ」
表情に乏しいその顔を撫でる。
するとシノは、少し困ったような顔をしてから、ほんの少しだけ――――微笑んだ。
「ん、良い笑顔」
シノのぎこちない笑みを見て、キバが柔らかく自然に微笑う。
そして今度は、その淡く弛んだ唇に、深く口付けた…。
*
太陽は水平線に沈み、海は夜を迎える準備を整えた。
ザブザブと寄せては帰す波打ち際で、混じり合う、想いと想い。
母なる海の、真夏の夜の懐に包まれる。
「………キバ…」
「…ん……?」
岩に寄り掛かかり、互いに寄り添っていた時。
不意に、それまでぐったりとしていたシノが、口を開いた。
シノの肩に掛けてやったタオルを直しながら、キバが何と問う。
シノは、キバに寄り掛かり、身を預けたまま、呟いた。
「………やはり俺は、休日は休みたい…」
(09/7/20)