長月夜の海(ながつきよのうみ)


トテトテと前を行く赤丸の足跡が、濡れた砂浜に残されていく。
その小さな足跡が波に呑まれ、砂と共にさらわれていくのを眺めてから、キバは顔を上げた。
夜の海は月光に照らされ、鈍く、静かに輝いている。
夏の熱をいまだ受け継ぎながらも秋の気配を含んだ風が吹く。
特有の潮の匂いが鼻についた。
「夏も、終わりだな…」
茹だる暑さ。気だるくなる程の陽光。鬱陶(うっとう)しい湿度に喧(やかま)しい蝉の声。
もういい加減にしろとウンザリしていたものの、いざ終わりが近いとなると寂しい気がする。
夏の思い出にと同期連中でわいわいやって来た、二泊三日の合宿も今日で終わり。
夕食を終え、まったりぐだぐだとなってきた所で、夜の散歩と抜け出して来た。
だが別に、夏を惜しむつもりは無い。
寂しいのは確かだが、移ろいゆくものを思いダラダラと感傷に浸るような神経をキバは持ち合わせていないし、欲しいとも思わない。
生きていれば、夏はまた来るのだ。
だからそのために。
また来年も夏を迎え、過ごし、終わりを感じるために、生きていくことが重要だ。

―――だから。そのために。

キバは波と戯れている赤丸に目を向けた。

―――強くならなければ。

守りたいから。
そして、来年もまたこうして一緒に、居たいから。

「ん?」

寄せては返す波を覗きこんでいた赤丸が不意に顔を上げ、あさっての方を向く。
その視線を追ってキバも顔を上げて見れば、見知った影がこちらにやって来るところだった。
月明かりの中、サングラスに月の光を反射させて、ゆっくりと、ゆったりと、波打ち際を歩いて来る。
ザア…ザア…と繰り返される波の音が、その者の到着に際して一瞬だけ、止んだ気がした。
「よお…どーした? シノ」
何の気兼ねもなく、意識する必要もなく、至極自然にその名が口を吐いて出てくる。
一時は色々な感情が織り交ざり、その名前に、響きに、存在に、意識が支配され、過剰に反応していたこともある。
今でもその感情が何だったのか、よくは解っていないが、多分ライバル心や敵対心、羨望や嫉妬…など
(認めたくはないが)そういう気持ちがごちゃごちゃに混ざっていたのだろう。
そして、「好き」という気持ちも。
一度大爆発を起こし、シノに向かって散々怒りをぶつけ、罵(ののし)り、貶(けな)し、罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせまくった末に
「好きなんだよっ!」と叫んでいた時は、自分が自分に驚いて怒りも何も吹き飛んでしまった。
そんな爆弾発言の後も何だかんだゴタゴタはあったものの、結局シノは、キバが拍子抜けするほどあっけなく、
あっさりと受け入れ、今では当然のようにキバと共に居る。
馴れ合ったりはしない。ただ、傍に居る。
恋人と言うには浅く、特別かと言われればそれ程でもないが、友人や親友・仲間では収まらない。
パートナーは、赤丸だ。
赤丸とは心が通い合っているが、シノとは通じ合っているわけでもない。
ただ、傍にある。
心が、傍にある。
それだけだ。

「…迎えに来た」

それだけ言って、踵を返す。
当初は癇(かん)に障ったその偉そうな態度も、今では何か可笑しいと思う。
当然付いてくるものと思っているシノに、しかしキバは足を止めたまま言った。
「なあ、涼しくなったよな。風」
来た道を戻ろうとしていたシノの足がピタリと止まる。
「温もりがさ、欲しくなんねぇ?」
月明かりに浮かぶ、振り返ったシノの顔は訝(いぶか)し気だ。
涼しくなった海風に吹かれて僅かになびく髪や衣服を、互いに見つめる。
だが暫し見つめ合った後、シノは何を思ったのか、ふと身を屈めると足元でうろうろしていた赤丸を抱き上げて、キバに寄越してきた。
「…いつものように懐に入れておけ」
と、言うことらしい。
「……いや、そーゆーんじゃなくてだな…」
赤丸は取り敢えず受け取りながらも、キバは不服そうに顔を顰(しか)めた。
「人肌が恋しくなる時季だな、って意味で…って、ちょ…ま、待て赤丸! 中に入んのは足の泥落としてからだって…!」
しかしシノに文句を言おうとした時、赤丸がべちょべちょに汚れた足のまま懐に潜り込もうとしてきたために慌てて止める。
多少の砂や土ならかまわないが、海水と泥にまみれたままでは流石に困るのだ。
別に汚されるのが嫌というわけではない。
ただそこは躾として、付けさせるべき分別がある。
「……先に行くぞ」
「あ…! おいこら、待て! てめー俺を迎えに来たんじゃねーのかよ! それを置いてくんじゃねぇ!!」
赤丸の足をタオルで慌ただしく拭きながらキバが怒鳴る。
しかしそれでもシノがそのゆったりとした足取りを止めることはなく、一人さっさと歩を進めて行ってしまう。
そんな背中を見つめながら、キバは笑いたいような、泣きたいような、切ないような、よく解らない感情に駆られた。
シノの歩調は、ちょっと走って追い駆ければすぐに追いつけるものだ。
追い駆けて来い―――ということなのだろうか。
それとも、当然そうするもの、とでも思っているのだろうか。
何にせよ、これで追わなければきっと「何故追い駆けて来ないのだ」と「追い駆けて来い」とも言っていない癖に
恨み言を言い、末永く根に持つに違いない。
結局、追い駆けて欲しい―――のだろう。
「………何でもてめぇの思い通りになると思うなよ…」
キバが追い駆け、追い付いてくることを信じているようなシノの背中を見つめながら、キバは言った。
足を拭き終えた赤丸を服の中に入れ、自分の足に力を込める。
そして、ほんの少し水気を含んで固くなった砂地を抉り、蹴り上げた。
赤丸の足跡を付けられたお返しに、その背中にも足形を付けてやろうと突進して、勢いそのまま蹴り付ける。
察知したシノは振り返ると共に軽く避けたが、キバは着地したその身を一瞬にして翻(ひるがえ)し、殴りかかった。
その手を、シノがパシッと受け止める。
本気ではないと分かっているのだろう。
やり返しては来ないが、どういうつもりだと咎めるような視線がサングラス越しにも向けられたことが分かった。
でも、答えてなどやらない。
どうしてかなど、自分にだって分からないのだから。
「………」
キバはじっとシノの眼差しを見つめ返した後、何も言わないまま力を抜いて踵を返した。
「!」
が、離れようとした手をシノに捕らえられる。
しかし、何だまだやるかと振り向けば、シノはキバの手を掴んだままキバを追い越し、歩き出した。
「あ???」
その行動の意図がよく分からず、目を丸くするキバ。
けれどシノはそんなキバを尻目にずんずんと歩いて行くため、必然的に引っ張られる格好となり、足をもつれさせながらも付いて行くしかない。
「お、おい…っ、ちょ…、」
「……人肌が…」
「は?」
少し歩く速度を緩め、掴んだ手を優しく掴み直して、けれど正面を見据えたまま、シノはキバに言った。
「人肌が、恋しいのだろう…?」
「………」
繋いだ手から伝わる温もり。
強くもなく、弱くもなく、手を握る感触。
「……」
ただ、傍に居る…存在。
「…」

バカじゃねーの?

声には出さず、キバは呟いた。

そして、ぎゅっ、と、その手を握り返してやる。

―――てめーの思い通りになんかしてやらねーよ。
―――傍に居てやるのは、俺の方だ。

ザア…ザア…と静かな、それでいて騒がしい音がする。
潮騒だけではない。
胸の中で。

長月夜の海が、鳴いていた――。




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海月様へ
本当は、せっかく一周年企画があったのですからそちらに参加できれば良かったのですが、
ちょっと私の方に問題がありまして…。
でも、海月様にはお世話になっていますから、何かしたいと思い、駄文ではありますが書かせて頂きました。
本当に、駄文ですみません。一周年、おめでとうございます!