Boys be ambitious


「なあなあ、コレなんて面白いんじゃねー?」
やんちゃな笑みを浮かべて振り返ったキバに、ナルトが何だ何だと後ろから覗き込む。
「お!いいんじゃねーの!?」
こちらもすっかり悪戯小僧の顔をして、喜々とした笑みを満面に浮かべている。
どんなやつだと、シカマルやチョウジもキバの前から覗き込んできた。
キバ、ナルト、シカマル、チョウジの四人が今居るのは、火影の家の地下にある書庫である。
下忍になりたての4名に、班を崩して書庫の片付け任務が命ぜられたのは、アカデミー生の頃に『書庫見学』をサボった事を、
火影が覚えていたからだ。
一度は見ておけ。ついでに片付けろ。というわけだ。
「ガキに戻る術だってよ。そんな危険な術じゃなさそーじゃん?」
「でもこれ、何で禁術なんだ?変化の術と何か違うのか?」
「さあ…。でもどのみち、ここにあんのは低レベルの禁術だけだろ。禁止にした理由なんて、ちょっとした事故があったり、
使い道がなかったり…ってとこだろうし」
「やってみればわかるってばよ!」
「誰がやるの?」
シカマルの疑問にキバが応え、ナルトが催促してチョウジが問う。
火影が4名に書庫の見学ついでに掃除させようと考えたのは実に名案ではあったのだが、如何せん、
悪ガキ面子を集わせてしまったのは良くなかった。
この場に一人でも『しっかり者』がいればこの悪ガキ共のイタズラ精神を抑えることができたのだろうが、
生憎ここにその抑止力は無く。ナルトが「禁術を試してみよう」と言い出したのにキバが悪乗りし、
唯一ストッパーに成り得るシカマルはその能力はあるのに止める気がない。
チョウジは、何も考えずに成り行きを見守るだけである。
「俺パス」
「ぼくも嫌だよ」
シカマルが即座に辞退し、チョウジもそれに続いた。
禁術を試そうと言い出したナルトと、この禁術を見つけ出したキバが顔を見合わせる。
そして、タイミングを計ったかのように「最初はグー!」と同時に拳を突き合わせ、「じゃんけんぽんっ!」とじゃんけんをした。
結果。
ナルトがパーで、キバがグー。
「俺かよ…」
「へへへ~!ほらほら、早くやれってばよ!」
ナルトが心底楽しそうにキバを促す。
キバは、しょーがねーなーと言いながら禁術が書かれた巻物を広げ直し、読みながら印を組んだ。
皆が見守る中、印を組み終え更にチャクラを集中して練り上げる。
と。
ぼんっ!という音と共に煙が湧き、キバの姿が隠される。
煙が消えた時、そこには―――。
幼くなったキバが、居た。
「おお!ホントにちっこくなったってばよ!!」
ナルトが感嘆の声をあげる。
キバも自分の小さくなった手や体を見、可笑しそうに笑って、
「ははっ!何だ簡単じゃねーの!」
とぴょんぴょん飛び跳ねてみせる。
シカマルも口角を上げて言った
「その小ささなら、棚の裏に落ちた書を取ってこれるな」
「はっ!冗談…!」
キバはこの時は鼻で笑ったが、もともとシカマルはその腹積もりであったらしい。
そんなシカマルの策略にはまる形で、小さくなったキバはいいようにこき使われる羽目になった。



異変は、大体の片付けが終了した頃に起こった。
それまで何の異変も無かったキバが、突然「俺何でこんなとこいるんだっけ?」と言い出したのである。
最初は「はぁ?」と呆れたような顔をした面々だったが、次第に「ここはどこだ」やら、「クロマルは?」と言い出すキバを見て、
事態の異変を察知した。
「………これ、ちょっとヤベーんじゃねぇ?」
一足先に察したシカマルがナルトとチョウジを交互に見遣る。
「記憶まで子どもに戻っちゃう術だったみたいだね」
次ぎにチョウジが言った。
「は…はやく戻すってばよっ!」
ナルトが慌てて禁術書を開いてみたが、ピタリと動きを止めて、見守るシカマルとチョウジをぎこちない動作で振り返った。
チョウジが不安そうな表情をして、シカマルが嫌そうな顔をする。
「………戻し方、書いてねぇ…」
ナルトの言葉に、シカマルがやっぱりそうかと溜め息を吐いた。
そんな時、突然どさどさと物が落ちる音がした。
はっとして見れば、片付けたばかりの書物や巻物が床に散乱している。
そして視線を上げれば、そびえ立つ書棚をキバがよじ登っていた。
「ばっ…!何やってんだ!!」
シカマルが慌てて駆け寄ると、正真正銘悪ガキと化したキバが振り返り、挑戦的な笑みを満面に浮かべて、
「これるもんならきてみろ~!」
と挑発してきた。
「バカ!危ないから、降りてこい!」
「うっせーバカマル!!オレにめいれいすんなっ!」
そう言って、キバが片手を離してあっかんべーをする。
と、書棚の端を掴んでいた手も離れて、落ちてきた。
「なっ!」
受け止める間もなく、キバの足がシカマルの顔面を蹴り、踏み台にする。
蹴り倒されたシカマルが、キバの足跡の残った顔を反らせて見れば、受け止めたらしいチョウジの腕の中でケラケラと笑っている。
――――そういやコイツ、ガキの頃から身体能力だけは高かったっけ…。
シカマルは、ひっくり返ったまま呆けたような顔をして思った。
だが、キバは休む暇なく動きだし、チョウジの腕をすり抜けて今度は反対側の書棚を荒らし始める。
「バカ!やめろってばよ!!」
ナルトが止めに入ったが火に油で、キバはナルトの頭にしがみつくとその金髪を鷲掴み引っ張りだす。
「イデデデデっ!!こら、キバ!!」
「おいバカナルトっ!なんでおまえのほうがオレよりデカイんだよ!!」
「だからそれはあ!!イッテ!髪ひっぱんな!!」
頭の上で暴れ回るキバに、ナルトが奮闘する。
体を起こしたシカマルはその様子を心底面倒臭そうに眺め、大きな溜め息を吐いた。
「おい、キバ!よく聴けよ!」
吐いた息を吸い、気を引き締めたシカマルが、ズカズカとキバとナルトの方へ歩を進める。
そしてキバの顔に己の顔を突き合わせて、極めて真剣な調子で言った。
「オマエはな、禁術で、ガキに戻っちまったんだ。いいか?オマエは、本当は今12歳で、
俺らがデカくなったんじゃなくて、オマエがちっこくなったんだよ」
シカマルの説明に、ナルトの髪を引っ張っていたキバがきょとんとして動きを止める。
これで理解してくれれば事態はかなりマシになるだろう…と思ったシカマルだったが、そんな期待は、
ぷっと吹き出したキバの反応に、泡と消えた。
「ばぁ~か!!んなわけあるか!!オレは今6さいだっ!じょーだんはかおだけにしろっ!!」
そう自信満々に言い放つと、キバはナルトの頭を思いっ切り蹴りつけ、その反動で床に飛び降りた。
「てめっ…!こんにゃろ…!やりやがったなっ!?」
蹴られたナルトがぶち切れ、大人げなくキバの後を追い駆け出す。
そんな二人に、シカマルは3度目の溜め息を吐いた。
鏡がないのでシカマルは自身は知らないが、その顔には未だくっきりとキバの足跡が残っている。
とにかく。
キバをこのまま放っておくわけにも行かないので、シカマルは印を組み、ナルトと取っ組み合っているキバの影を捕らえた。
「取り敢えず、大人しくしてろ」
ピタリと、キバの動きが止まる。
「……つっても、ずっと捕まえとくわけにもいかねーしなぁ…」
シカマルが4度目の溜め息を吐きかけた時。
不意に、ギィィと鈍い音を立てて書庫の扉が開いた。
ぎょっとしたシカマル、チョウジ、ナルトの視線が扉に集中する。
その視線の先に、現れたのは…。
幸か不幸か、油女シノであった。
「書庫掃除の進捗状況を確認してくるよう、火影様から……」
言葉と共に、扉から入ってきたシノの足がピタリと止まる。
「…………」
書庫に入ってまず、シノが目を留めたのは、片付けているはずの部屋の床に散乱した、書巻の数々だった。
そして、ぽかんとした様子で固まっている面々に目を向け、
そして―――。
「………………何をしている……」
幼少時の姿をしたキバを見留めて、眉を寄せた。
どう見ても、片付けをしている様子ではない。
しかし、シノの小言説教諸々が始まる前に、シカマルが機敏に動いた。
「シノ!いーとこに来た!さすがシノ!」
即座にキバをひっつかまえて、入口に佇むシノに押し付ける。
「シカ……」
「いや、なに、ちょっとした手違いでな。キバがガキに戻っちまったんだ。変化の術じゃねぇ。記憶まで戻っちまってんだ」
「記憶…?」
「そうだ。でな?俺らは今から元に戻す方法を調べるから、その間、お前ちょっと預かっててくれ」
「預か……」
「んじゃ、よろしく」
ガチャン。
シカマルに押し出されたシノの眼前で、扉が閉められた。
「…………」
暫し呆然としていたシノだったが、押し付けられた物が動いて、はっと我に返る。
腕の中を見ると、幼いキバが鋭い眼で睨み付けていた。
「おまえ、ダレだ!」
これが第一声。
叫び声に、耳が痛くなる。
「…………」
シノは、少ない情報からも、努めて冷静に、何とか状況を理解しようとした。
これは、どうやらキバらしい。
禁術でもかけられて、子どもに戻って、記憶も戻ってしまったのだろう。
見たところ年齢は6歳程度だから、自分のことは知らないに違いない。
そして。
その術の解き方をシカマル達が調べている間、このキバの世話をするのは…。
………自分?
「おい、きこえてんのか!グラサンやろう!」
わあわあわ叫き、じたばたと暴れ出したキバに、シノが眉間に皺を寄せる。
面倒を、押し付けられたわけか……。
理解して、シノは更に眉間の皺を深めた。
「………油女…シノだ」
顔を顰め、キンキンと鳴る声から逃れるように頭を離す。
「……しの?」
キバが、まじまじとシノの顔を覗き込む。
そして、心底バカにしたような顔をして、
「女みてぇ!!」
と叫んだ。
「…………」
いっそ気絶させてしまおうか、と思ったシノだったが、凶行に及ぶ前に再び目の前の扉が開かれ、シカマルの顔が覗く。
先程は気に留める間が無かったが、その顔には足跡がくっきりと表れている。
キバに蹴られたのだなと、シノは即座に思い至った。
そしてそんな、可哀想ながらも間抜けな顔のシカマルは、
「あとそれから。このことは誰にも言うなよ。もちろん三代目にもだ。いいな?」
と言うだけ言って、再び扉を閉めてしまった。
地下の薄暗い廊下に、奇妙な静寂が訪れる。
シノは――――。
その静寂を壊さないほど静かに、だが深い深い、溜め息を吐いた。




勝手気ままなキバを、誰にも気付かれずに外に連れ出すのは至難の業だった。
それでもなんとか成し遂げて、シノは仕方なくキバを負ぶって自宅へ向かう。
一旦家に帰ってから、火影に報告に行かなければならないと考えていた。
そもそもシノは、火影の命令で、状況を確認するために書庫へ行ったのだ。
だから、報告の義務がある。
だが、キバの事を告げるつもりはなかった。
シノが受けたのは、『書庫掃除』の状況確認だったからだ。
掃除の状況は、見るからに進んでいなかったから、それは報告せねばなるまい。
キバの件は、報告した方が良いのだろうが、シカマル達が調べ終わるのを待ってからでも遅くはないと考えた。
その結果キバが戻れば、その後本人達に報告させて懺悔させればいい。
大事にならずに済むなら、その方が良いだろう。
だがもし解き方が解らなかったなら、その時は報告しなければならない。
大事になろうが、このままにしておくわけにはいかない。
そんな事を黙々と考えながらシノが敷地内の長い石畳を歩いていると、不意に眼鏡が動いた。
僅かに振り向いてみると、おんぶされたキバがシノの黒眼鏡の縁に手を掛けているらしい。
弄られて、眼鏡が外れそうになる。
「こら、よせ」
シノは頭を反らせてキバを引き剥がそうとした。
だが背負っている状態では所詮無意味な抵抗で、キバは益々眼鏡を外そうと躍起になり、ついには奪われてしまう。
キバは、火影の屋敷から連れ出す際に使った蟲に衝撃を受けたようで、以来大人しくしていたのだが、
ショックから立ち直ってしまったようだ。
「まっくらだ!」
という科白から、奪い取ったサングラスをキバが掛けたことが判る。
「………返せ」
「へんっ!やなこった!あんなきもちわりぃ術つかうやつの言うことなんかきくもんか!」
「………それとこれとは話が違う」
「うっせー!!つーか、どこつれてくつもりだてめぇ!オレのうちはこっちじゃねぇぞ!」
「俺の家だ。………だが、そうだな。お前の家に連れて行った方が得策かもしれん。赤丸もいるだろうし…」
「あかまる?あかまるって何だ?」
「………」
シノは、キバの言葉を聞いて歩みを止めた。
振り返り、顔のサイズに合わないサングラスを掛けた、キバを見る。
そうか、この年ではまだ赤丸も知らないのだなと、シノは得心した。
そして、それなら犬塚家に連れ帰るのは、赤丸にとって酷だろうと考え直す。
「なあ!何だよ、あかまるって!!」
キバがシノの襟を引っ張り、しつこく問い質す。
「引っ張るな」
シノは一言キバに注意してから、赤丸というのは…と続けた。
「……お前の、最も信頼する相棒だ」
「オレ、そんなやつしらねー!」
「………大きくなればわかる」
キバはシノの言葉に、ふぅんと鼻を鳴らした。
納得したのか、興味を無くしたのか、ぶらぶらと足を揺らして退屈そうにし始めた。
一応、それでも背負われているうちは大人しくしていたのだ。
だが。
家に着き、下ろした途端。
鬱憤を晴らすように、怒濤の勢いではしゃぎだしたものだから、シノは息つく隙も無い。
脱兎の如く駆け出したと思ったら、廊下を全速力で走り回り、家中を駆け巡る。
柱にぶつかろうが障子を破こうが襖を壊そうが、おかまいなし。
つまずいて転んで、それすら楽しんでいる様だ。
油女邸が無闇に広かったのが、仇となった。
余計な物が無いため、障害となる物が少なく、キバにとってはこの上なく開放的な遊び場である。
縁の下に潜り込み、屋根によじ登り、書斎を荒らし、台所を水浸しにし、中庭の渡り石を掘り起こし、虫を飼育している小屋に乱入する。
ちょこまかと動き回り予測不能な行動を取るキバに、シノはほとほと手を焼かされた。
「こら、待て、キバ!」
被害を被った家中の者にひたすら謝罪し、キバのしでかしたイタズラの後始末をしながら、ヤンチャなイタズラ小僧を追い掛ける。
大した面倒を押し付けてくれたものだと、シノはシカマルを恨んだ。





「………何処へ行った」
廊下の角を曲がった所で、キバを見失ったシノは足を止めた。
蟲は付けてあるため、居場所はすぐ判った。
上。
シノが顔を上げた、その瞬間――。
何かが、ボタボタと降ってきた。
顔一面、襟の中、服、足下に、ボタボタと、重量感のない、物が。
「……………」
そしてその物々は、あるものはカサコソと、あるものはウネウネと、あるものはウゾウゾと、
シノの頬を、首元を、背中を転がり………這い始める。
蜘蛛や、百足や、芋虫や、団子虫といった、一般的に忌避される、虫達だった。
「どーだ!きもちわりぃだろお!!」
キバは、柱と柱を繋ぐ横木の上に身を屈めて、シノを見下ろしていた。
恐いもの無しの自信に満ちた顔で。
慌てふためく様を期待した、無邪気な顔で。
………だが。
シノは、その究極のイタズラに、動じる気配すらない。
その白い頬に、服の下に、体に、虫を這わせたまま、能面のような感情の無い顔でキバを見上げている。
その、不気味なほど平然とした顔に、見ているキバの方が薄気味悪くなった。
「な…なんだよ、やせがまんか!?でも、ほんとはきもちわりーんだろ!オレにはわかるんだぞ!」
虚勢を張ったのは、キバの方だった。
それでもシノは眉一つ動かさず、虫にまみれたままじっとキバを見つめている。


ゾッとした。


白い顔を這う虫が。
見据えてくる眼が。
異様で。
怖ろしくなった。


キバは、サングラスを奪ってしまったことを後悔した。
奪い取った黒眼鏡は、走り回っている内にどこかに落っことしてしまったらしく、もうキバの手元には無い。
どこに落としたのだろうと、キバは急に不安になった。
「キバ」
無表情のまま、シノがキバを呼ぶ。
キバはビクッとして、強張った表情を更に固くした。
声が、異常に鋭かったからだ。
まるで刃を向けられたようだった。
恐怖に体が竦み、冷や汗が伝い、喉がカラカラに乾いた。
対してシノは、そんなキバを見据えると、まるで何事も無かったかのように眼を伏せ、そっと屈み込んだ。
そして、打って変わって穏やかな声で、静かに言う。
「キバ…よく見ろ」
シノが、足下で丸まり縮込まっていた芋虫を、そっと指先で撫でる。
すると芋虫はもぞもぞと動き出して、うねうねとシノの手をよじ登りだした。
「この虫達は……生きている」
「………」
「確かに、お前にとってこいつらは、卑しく、気持ちの悪い物だろう。それに…弱い」
「………」
「弱い者は淘汰され、搾取され、犠牲となる。それも自然の節理だ」
「………」
「だが――」
シノが、再びキバに眼を向ける。
変わらない無表情。しかし。
「何を壊そうが、何処を荒らそうが、誰を困らせようが、それはお前の勝手だ」
その眼は。
「だがな、キバ」
その、声は。

「この『命』を、悪戯の玩具にして、玩んでいい道理は、無い」

キバは、戦慄した。
大人をからかうのは面白い。
バカみたいに怒鳴って、慌てて、戸惑って、つまらない巫山戯に対して本気で怒る。
振り回される姿は滑稽で、そんな大人を、子供は見下して笑うのだ。
それなのに―――。
今見下ろしている者は、慌てもせず、怒ってもいない。
ただ、向けられているのは…。
静かな、されど深い。
絶対的な軽蔑と。
嫌悪の眼。


嫌だ。


キバは思った。
嫌だ。
怒られるのは、恐くない。
叱られたって、怖くない。
でも。
嫌われるのは―――。
シノが、無言で踵を返し、立ち去っていく。
見放されるのは―――。

「あ……」

コワイ。

キバは声を出しかけたが、喉につっかかって出てこなかった。
シノの背中が、何だか悲しんでいるように見えて……。
胸が、痛くて。
張り裂けそうだった。




その後、油女邸は嵐が過ぎ去ったように静寂を取り戻した。
シノはその静寂の中、自室で書物を繙いて、没頭した。
そうでもしなければ、掻き乱された平常心を取り戻せなかったからだ。
頭に血が上ったのは久しぶりだった。
しかしそれは一瞬のことで、その後は怒りを覚えたというより、吐き気がした。
これは、シノ本人はただ血圧が上がった事に拠る現象だと考えていたが、実際は少し違う。
傷ついた、というのが正しい。
虫が忌み嫌われるのも、その扱いの酷さも、経験上重々承知している。
しかしどこかで、心のどこかでは――ヒナタや、キバには――期待していたのだ。
だから。
子供に戻ってしまったとはいえ……キバが。
キバが、あんな所行をしたことに、シノの淡い期待は裏切られて――傷付いたのだ。
当人は、そのことに全く気が付いていないのだが。
しかしそれでも、書物に没頭しながらも、シノが責任を放棄することは無い。
常にキバに付けた蟲からの情報に注意を払い、キバの動向は把握していた。
キバは、今―――。
すぅ、と襖が戸板を滑って、僅かに開いた。
シノは書物から目を上げることなく、その気配に意識を向ける。
恐る恐る這入って来た小さな気配は、シノの様子を窺うように、一歩一歩近付いて、シノの前にやって来た。
漸くシノが視線を上げて見ると、キバが、眉根を寄せ、ふて腐れたような顔で居心地悪そうに立っていた。
土埃にまみれて、酷く汚れている。
キバは、まるで親の敵でもみるような目でシノを睨み付けていたが、暫し躊躇った後、「ん」とシノに手を突き出した。
その小さな手には、土埃に汚れた黒眼鏡が握られている。
いつどこで落としたのかも知らないコレを、キバは今の今まで探していたのだ。
「…………」
シノは、キバの様子を注意深く観ながら、その薄汚れた黒眼鏡を受け取った。
汚れ、細かな傷が付いてはいるが、割れてはいない。
シノは汚れを拭き取ると、漸く自身の元に戻ってきた眼鏡を、掛け直した。
再び、今度は黒眼鏡越しに見ると、キバはまだ突っ立っていた。
何か言いたげだが、なかなか言い出せないらしく、あっちこっちに視線を泳がせ、手元は落ち尽きなく服を弄くっている。
その様子を、シノは黙ってじっと見つめた。
すると、暫くしてから……。


「ゴメンナサイ」


ぼそりと、キバが呟いた。
ぶすっと唇を尖らせて、視線を合わせないように畳を見つめたまま。
「………」
シノは、キバの様子をじっと見つめながら、こういう場合どうしたらいいのだろうかと僅かに困惑した。
子どもの扱い方など、シノは知らない。
だが、素直に謝ったからといって褒めることでもないだろう。
では――――。


「………赦す」


ぼそりと、シノは呟いた。
キバが、目を丸くしてシノを見る。
二人の目が、キバの悪戯以来、初めて合った。
まじまじと注視してくるキバに、シノが頷いてみせれば、キバは漸く理解したのかもう一回り大きく目を見開いてから…。

―――笑った。

シノは、実際には何も戻っていないと知りながらも、キバが戻ってきたような気がした。




シノの赦しを得たキバは、その後すっかり調子を取り戻して「腹が減った」と喚き出したが、
その汚れた格好を見かねて、シノはまず風呂に入れる事にした。
しかし、調子の戻ったキバは風呂場でも当然の如く手に負えず。
何とか風呂と食事を済ませた頃には、シノはすっかり疲労困憊していた。
そんなシノの苦労を露とも知らず、その疲労の元凶は今や呑気に夢の中。
遊び疲れた上お腹一杯になったキバは、シノの懐を陣取って寝入っていた。
いい御身分である。
何とも幸せそうな寝顔は、知らないとは言え、自分の置かれた状況に際して実にいい気なものだ。
シノがそんなとこを思っていると、キバが「あかまるぅ」と寝言を漏らした。
それを聞き、シノは少し驚いて、もしかしたらと考える。
どこかに、記憶の欠片が残っているのかもしれない。
だから『赤丸』という単語に過剰な反応を示したのではないだろうか。
そうであれば、キバから見て全くの『見知らぬ者』である自分に、こうも懐いたのも頷ける。
シノは、キバの寝顔を見つめた。
その顔は微笑ましいのだが、現実問題ほのぼのともしていられない。


シカマル達は、方法を見つけられるだろうか。
シノはふと気になった。
キバは――戻れるのだろうか…?


と。
その時。
突然、ぼんっ!という音がして、煙がキバを覆い隠した。
そして煙が消えた時。
そこには―――。
キバが、居た。
元の大きさの、元の、キバが。


「……………」
呆然とするシノの懐で、キバが何とも呑気に「赤丸ぅ」と寝言を漏らす。
シノは―――。
容赦なく、その能天気な頭目掛けて、拳固で、叩き起こした。


「イッ――!?」
テエェェェッ!!!
と叫び声を上げて、キバが跳ね起きる。
頭の天辺を押さえ、非難に満ちた涙目でシノを睨み付け、
「てめぇ!何しやがるっ!痛ぇじゃねーか!!」
と牙を剥いて怒鳴った。
シノは、こちらもこちらでキバの石頭で痛くなった手を振りながら、
「自業自得だ」
と眉間の皺を目一杯深くした。
「自業自得だぁ~?!オレが何したって―――」
シノの言葉に、打たれたら響けと噛み付こうとしたキバだったが、はたと口を噤んだ。
そして、まだ痛みが疼く頭を撫でながら、
「ぁあ…?そういや俺、何してたんだっけ……?」
と渋い顔を作った。
「覚えていないのか」
「え~っと…。確か三代目に書庫掃除させられて……それで…」
上を向き、記憶を辿っていくキバ。そして唐突に、叫んだ。
「ああっ!思い出した!確か禁術使ってちっこくなったんだ!」
だがすぐに不思議そうな顔でシノを見、
「あれ?じゃあ何でお前が……つかココ、お前ンち??」
と、矢張りわけがわかっていない。
どうやら、小さくなって暫くの事は覚えているが、シノが登場した辺りの記憶は無いらしいかった。
勿論、油女邸を荒らし暴れ回った事も、シノに多大なる迷惑をかけた事も、とんと覚えていない。
シノは、溜め息を吐きつつ、詳しい事は知らないがと前置きをしてから、術が解けなくなったらしいことや、
シカマル達がその術の解き方を調べている事。そしてその間のキバの世話を押し付けられた事など、
推測も交えて事情を説明した。
その説明に、へぇ、そうなんだとまるで他人事のような反応を返したキバが、ふと首を傾げ、
「でも、じゃあ何で俺、戻れたんだろ?お前が解いたんじゃねーんだろ?」
と言う。
シノは少し小首を傾げて、
「………一つ、確認したいのだが」
とキバに尋ねた。
「お前は、術を『かけられた』のではなく、自分で自分に『かけた』のか」
「んあ…?ああ……確か…うん。そうだ。自分で印組んで自分でやったな」
そうそうそうだったと、キバが思い出しながら間違いないと頷く。
それを聞いて、シノは少し緩んでいた眉を再び寄せる。
「それならば………答えは一つだ」
「あ?なに」
シノは、黒眼鏡を押し上げながら、答えた。

「お前が意識を失ったからに……決まっている」

術は術者の意識があってこそ発動する。
分身であれ変化であれ、自身にかけた術ならば、自身が気を失えば効力を失うのが道理だ。

「あ!そうか!」
なるほど!と手を打つキバに、シノの疲労感は倍増した。
恐らく……シカマルもきっと同じ反応を示すのだろう。
灯台下暗し。当たり前な事ほど、気付き難いものである。
シノは、もう何度目か定かでない溜め息を再び吐きながら、
「…………気絶させれば良かったのか…」
と呟いた。
最初、シノは正にそうしようかと思ったのだ。だが、後悔してももう遅い。
「な…なんだよ、お前。わかってたらぶん殴ってたみてーなこと…」
シノの科白を聞いたキバが、ぎょっとして思わず身構える。
だがシノはキバの反応に対して「当然だ」と即答した。


「それでお前が戻るなら、躊躇う理由は無い」


きっぱりと、そう言い切った。
「…………………」
シノの明言に、キバが返す言葉を失う。
「………お…」
「兎に角。シカマル達にお前が元に戻った事を知らせよう。それが先決だ」
暫くして、キバは漸く声を発したが、その意味を持たない音声は明確なシノの言葉に拠って跡形も無くなってしまい、
「……………おう……」
結局、そんな相槌になってしまった。
しかし、シノはキバの間の抜けた応答など気にも留めずに、「それから」と話を続けた。
「今回の件は、禁術を不用意に使ったという点で非常に重大な問題だ。お前達には報告の責任がある。
きちんと火影様に――――」


突然、ピタリと、シノが止まった。
「……………」
「……………」
「……………」
「……………」
「……………。」
「……………ど…どうした…?」
押し黙り、何事か考え込み、挙げ句頭を押さえたシノに、キバが恐る恐る声を掛ける。
すると、シノは恨めしい目をキバに向け、それから深い深い深い溜め息を、静かに静かに吐きだした。
そうしたくもなるだろう。
シノは、『書庫掃除の状況報告』をすっかり忘れてしまっていた事に、たった今、気が付いたのである。
全ては、キバのせいだ。
非難の眼差しを浴びせられ、溜め息を吐かれて狼狽えるキバを尻目に、シノは思った。


もう二度と、何があっても、キバの面倒など、絶対、断固として、御免だ。……と。





                                                               fin.



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

あとがき
『タバコヤビルヂング』様の絵日記に、小さくなったキバを負ぶったシノの絵があり、
禁術で小さくなったキバにシノがものすごく手を焼かされる……という設定が添えられておりました。
これは、そこのところを拝借して書かせてもらった物です。
………シノはきっと、方法が判っていたならば一寸も躊躇うことなく、キバを昏倒させたと思います。

そしてついでに『F -3』部屋(仮)設立を記念して、
「子キバ×シノ」及び「子シノ×キバ」の絵をこっそりとこちらに置いていきます。

タバコヤビルヂング様より、元となった絵、更には小説の1シーンを頂いてしまいました!!
               ※画像の転写・配布は厳禁です!


                        元絵



                      「こら、よせ」

                          *


                        1シーン



                       「女みてぇ!!」



                        「…………」