己が身 絆し 縛した蛹 (おのがみ ほだし ばくしたさなぎ)
四方斜に走りし 竜馬を想ふ (しほうしゃにはしりし りゅうめをおもう)
唯一握した 運命の糸と (ゆいつあくした さだめのいとと)
太く 強く 成りゆく色糸 (ふとく つよく なりゆくしきし)
絡み解れて 翅が震え (からみほつれて しがふるえ)
未だ見ぬ夢に 油女も儚し (まだみぬゆめに ゆめもはかなし)
絆蛹想馬(はんようそうま)
昼食を終えて暫くの後。
油女シビは、シノを探していた。
部屋を訪ねてもおらず、家人に尋ねてもわからないと言うので仕方なく蟲を使って探す。
すると、屋敷の中にいることはいたが、意外な場所にいることが判った。
常時開かれた戸の代わりに、部屋と廊下を隔てる暖簾(のれん)。潜った先は、台所だ。
普段、シビがその暖簾を潜る事は滅多に無く、それはシノも同じだった。
台所は女性の聖域……そんな観念は無いが、それでも矢張り料理は女性が担当することが多く、自然とこの場所は近付き難い場所となっていた。
来ても入りづらいと言うか、入っても邪魔になるだけだからだ。
しかし今はもう昼食の後片付けも終わっているらしく、いつもの忙しない気配は無い。
暖簾の陰から中を覗くと、一人立って何かしている、シノの背が垣間見えた。
「………シノ…」
滅多に跨がない、台所の敷居を跨いで入る。呼びかけると、シノが振り返った。
「………何だ、親父」
台所には、甘い香りが充満していた。チョコやクリームの匂いではなく、餡の香りだ。
「………。…何をしている」
シノが手にしている、小さな饅頭のような物を窺いながら、シビは用件を置いてまず尋ねた。
用件はさほど急用でもないため、先に息子の奇妙な行動を解明しようと思ったのである。
シノは、シビが訝しげに窺っている手元に一度視線を落としてから、再び顔を上げて言った。
「……ねりきりを作っている」
ねりきりとは和菓子のあれかと、シビは思うと同時に納得した。
だから餡の匂いがしているのだ。しかし…。
「……何故…」
そんな物を作っているのかは、さっぱり解らない。
シノは普段料理などしないし、菓子作りの趣味があったという記憶もない。
しかも、木ノ葉崩しの騒乱が5代目火影就任によって鎮まったと言えど、まだまだ混迷しているこの時分に。
一体何を思って菓子作りなのか……親としては、聞いておくべきだろう。
だがシノはその問いに対して、眉を寄せた。
言いたくないのか、言えぬ事情があるのか。
シビも、僅かに眉間の皺を深めた。
深く追求すべきか否か、考える。と。
「………何となく…」
シノが、ボソリと答えた。
歯切れが悪いのは、嘘を吐いているからか。
それとも、もしかしたら自分でも何故こんな事をしているのか解らないのかもしれない―――とシビは思った。
混迷している、この時分だからこそ…。
シビはシノに歩み寄り、そっと頭に手を置いた。
撫でるつもりだったが、シノはビクリとして、横に一歩離れてしまった。
撫で損ねた手が、空に留まる。
頭を撫でて喜ばれた事こそ無かったが、これ程あからさまに避けられた事も無い。
「…………」
シビは少々気落ちしながらも、何事も無かったかのようにその手をポケットにしまい、
「話がある。作業が終わったら部屋に来なさい」
と告げて台所を後にした。
一歩、避けてしまった足を見下ろす。
父に撫でられるのが嫌だったわけではない。
ではどうしてかと言えば、よくわからなかった。
汚(けが)れた自分に触れてほしくなったのか。
それとも…。
シノはそっと、餡の付いた指で髪の毛先を抓んだ。
他人に……あの人以外に触れられる事を、拒みたかったのか。
わからない。
シノは髪に触れた指先を水で洗うと、手にしていたねりきりを皿に置いて包丁を取り出した。
クナイやナイフではない、武器でない刃物は、いまいち手に馴染まない。
包丁を使うのは、覚えている限りではこれで3度目だ。
よく研がれた刃の側面に、霞んだ自身の顔が映し出される。
初めて握ったのは、アカデミーの時。
運悪く、調理実習に参加することになった時だった。
*
それは、アカデミー6年生の春。
アカデミー時代、シノは出席したり欠席したり、居たと思ったら居なくなったり、居なかったのにいつの間にか座っていたりと、
神出鬼没な、非不登校児だった。問題児寄りの生徒ではあったが、元来目立たないのに加えて他に目立った問題児が数人いたため、
その陰に隠れてあまり問題視されていなかった。それに、低学年の頃はまだ体の抵抗力が弱く、蟲を制御しきれていなかったために
アカデミーを休みがちで、6年生になっても、イルカ先生はシノの顔を見ると怒るよりも「よく来たな」と笑っていた。
そんなある日だった。
シノはその朝、きちんと家を出てアカデミーに向かっていたのだが、その途中にハルジオンを見つけてしまった。
そして道端に咲き乱れる、春を迎え芽吹きだした野草の数々に目を奪われ、惹き付けられる。
シノは、野草サラダとは名ばかりで、自生している草をそのまま食す……文字通り『道草を食う』のが好きなのである。
野草は、毒や棘さえ無ければ何でも食える。木の実も食べるが、旬は秋だ。
腹が空いていたわけではなかったが、採るだけでもと、シノはいつもの習慣で道草を食い、野草を摘み始めて、そのまま没頭してしまった。
そうして気付いた時には陽はずいぶん昇っていて、2時間目も終わる頃。
シノは一時、登校するかどうか迷ったものの、結局摘んだ野草をビニール袋に入れ、ポッケに突っ込んで、アカデミーへ行くことにした。
シノの大幅な遅刻登校は珍しくもないし、何よりクラスメートのほとんどはシノに関心など持っていないのだ。
シノが居ようが居まいが関係無く、シノが居る事にも居ない事にも気付かない。
これから赴き紛れ込んでも、とやかく言われない自信はあった。
しかしこの日は、いつもと様子が違っていた。
休み時間に紛れて何食わぬ顔で教室に入ったシノは、踏み入った途端に、「シノ!」と名を叫ばれたのである。
何だとサングラスの下で少し驚いて見れば、シノを呼んだのは担任教師のイルカだった。
イルカはざわざわとした休み時間の教室で、何故かエプロンを身につけ、意気揚々としていた。
シノは大人から、『子どもらしくない』という評価を受けることがままあったが、イルカを見ていると、『この教師は大人らしくない』と思うことがある。
忍としても教師としてもそれ相応に認め、敬意も持っているが、それでも時に浮かべる子どものような笑顔は、子どもであるシノには無いものだった。
そしてシノは、このイルカに好感を持っていた。
名を叫ばれた時はさすがに今日は怒られるか、と一瞬覚悟もしたが、どうもそんな雰囲気ではない。
イルカはシノに寄ってくると、「ちょうど良かった!」と言って笑った。
一体何事かと思っていると、イルカは天辺が円く切り取られた箱を差し出し、シノに中の紙をひとつ引けと言う。くじ引きのようだった。
「………これは…?」
「いいから引きなさい」
何か嫌な予感はしたが、引けと言われて引かないわけにもいかない。
シノは言われた通り、ひとつ、小さく畳まれた紙を引いた。
そして開いて見ると、そこには『5』と書かれていた。
これは何だとイルカを見上げる。するとイルカはよし、と満足そうに頷いて言った。
「次の授業は、野外で調理実習だ。それは班の番号。お前は5班だな」
「………は…?」
シノは呆気に取られてしまった。今日、調理実習をするなど聞いていない。
そんな気持ちが伝わったのか、イルカは驚いたか、と言って笑った。
「忍たるもの、どんな緊急事態にも対処できなければならない。と、言うわけで、抜き打ち野外演習の一環だ」
まるで避難訓練だなと、シノは思った。
教室を見渡せば、確かに皆色めき立った様子でぞろぞろと教室から出て行っている。
「言っとくが、サボるなよ? お前はただでさえ出席率低いんだから。特に演習は、出ないと成績がつけられん」
そう言いながらも、イルカは強い姿勢には出てこない。
それはきっと、イルカが大人だからだろうとシノは思っていた。
どんなに子どもっぽい表情を持っていたとしても、この人は大人で、教師で、木ノ葉の忍だ。
油女が蟲使いであることを知っていて、シノの中の、蟲の存在を知っている。
恐れではなく、大人として子どもを、教師として生徒を心配しているのだろう。
シノがクラスメートを傷付け、そしてシノ自身も傷付くことを。
本当なら、そんな心配をする必要は無い。アカデミーももう6年だ。蟲が暴走する危険性はほとんど無くなっている。
しかし、それを恐れているのは―――シノの方だった。
「シノ」
ポン、とイルカがシノの肩に手を置いた。
「お前は優秀だ。心配するな」
そう言って屈託無く笑ったイルカに、シノは眉間の皺を深くした。
「よぉシノ、はよ」
シノが調理実習を行うという演習場に来てみると、またもや声をかけられた。
振り向けば、奈良シカマルがこちらにやって来ていた。
「………ああ…」
どちらもちゃんとした挨拶などせず、いつも簡単に済ませてしまう。
「お前、いつ来たんだよ」
「さっきだ。来たら『次は調理実習だ』と聞かされた」
「はは、タイミング悪かったな」
「まったくだ」
シノが大真面目に言うと、シカマルは大いに笑った。
シカマルは、シノにとって友だちと呼べる唯一の存在だった。
シノはクラスメートや里人のことも友だと思っているが、それはシノがそう思っているだけで、一方的なものだ。
相手がどう思っているかなど、シノには関係無かった。
だがシカマルだけは、両想いの友人だった。なぜなら、シカマルがシノに「友だちだ」と言ったからだ。
「サボっちまえば?」
「サボるなとイルカ先生に言われた」
「残念。それじゃ無理だな」
シカマルが張り出した木の根に腰を下ろしたので、シノもその隣に座った。
「外で調理実習とか、マジメンドクセェよなぁ…。俺基本、サバイバル嫌いなんだよ」
メンドクセェから…と、シカマルが心底面倒臭そうに言う。
しかしシノは教師達が実習の準備をしている様子を見て、「否」と応えた。
「材料や器具は用意されている。サバイバルと言うより、アウトドアだろう」
「どっちでもいいよ、んなこたぁ…」
シカマルにとっては、どちらにせよ面倒ならしい。
「そういやお前、何班だった?」
そう問われたのでシノが「5班」と返すと、シカマルは「何だ別か」と言う。
「俺は2班。キバと一緒なんだよなぁ…。アイツうるさくてウゼェんだよ。チョウジは1班だしなぁ…」
つまらなそうなシカマルに、しかしシノは合いの手も入れず頷きすらしない。無反応にただ聞いている。
『それがダメなのよ』とある人物に以前言われたことがあったが、シカマルはダメではないらしく、別段気にした風もなく話を続けた。
「ま、ナルトが同じ班でなけりゃ良いけどな。アイツがいると、できるもんもできねぇ…。お前、他の班員知ってるか?」
「………否。その時になれば分かるだろう」
シノは誰が同じ班か一人も把握していなかったが、今知るのも後で知るのも大差はない。
誰と一緒だろうと、シノは何も変わらない。
しかしそんな折、不意に「何で俺がお前と同じ班なんだってばよ!」という怒声が聞こえてきた。
シカマルと共に振り向いたシノは、アカデミー最凶の問題児、うずまきナルトの姿を見た。
ナルトがうちはサスケにケンカを吹っかけているらしく、サスケを取り巻く女子生徒達が色めき立っている。
その中に、シノは山中いのと春野サクラの姿を見つけた。
「サスケくんだって、好きでアンタと同じ班になったわけじゃないわよ! 私だって、せっかくサスケくんと同じ班になったのに、
アンタがいたんじゃ台無しだわ!」
いのが叫ぶ。と、サクラが驚いたように言った。
「え…じゃ、なに。いの、アンタ5班なの?!」
サクラの動揺に、いのがフフンと笑ってくじを見せびらかしながら、サクラを見下すような姿勢を取る。
「そーよ!」
「な…! ちょっと、そのくじ寄越しなさいよ!」
「誰がアンタなんかにやるもんですか!」
ベーっと舌を出したいのに、サクラがきいぃぃと悔しそうに歯ぎしりをする。
そして、ビシッとナルトを指差したかと思えば、サクラは言い放った。
「ナルト! アンタのくじ寄越しなさい!」
「へっ…?!」
突然サクラに指名されたナルトが、目を丸くする。
だがナルトは、サクラがサスケと同じ班になるのはもっと嫌だったらしい。
「や…ヤダってばよ! サクラちゃんをサスケと同じ班にするなんて! ぜってーヤダッ!!」
「いいから、寄越しなさい! ナルトおおぉぉぉ!!!」
くじを握り締めて逃げ出したナルトの後を、サクラが鬼の形相で追いかけ始める。
「…………」
「…………」
「…………」
「………」
何も言わず、元気づけるように、シカマルがポン、とシノの肩に手を置いた。
また、その一方では。
サクラから逃げ回るナルトの姿を、陰から、人知れず見つめていた日向ヒナタが、同じ番号の書かれた紙をぎゅっと握り締めていた。
それから数分後。
班ごとに集められ、移動した先は森林の中だった。
食材や道具が用意され、木の長机が置いてある。
しかしこれを作れという指示は無く、あるもので作れる物を作れというのが、与えられた課題だった。
「で、どうすんだってばよ」
材料置き場にしゃがみ込み、タマネギの髭を摘み上げながら、ナルトが班員を振り仰ぐ。
抜き打ち野外調理実習第5班のメンバーは、サスケ、いの、シノ、ヒナタ、そしてナルトの計5名。
ナルトは、サクラからくじを死守することができたようだ。
「この材料で作れるものといったら――」
「お好み焼きならできるよ、サスケくん!」
サスケの言葉に、いのが続いた。
キャベツにネギ、豚肉、小麦粉、卵、山芋、かつお節など、材料は大体揃っているらしい。
それではといのの指揮の下、水で道具や材料を洗って、たきぎを集めて火の用意をする。
「ナルト、あんたはタマネギ切る係ね。微塵切りよ、みじん切り!」
さあ次は下ごしらえだとなった時、いのがナルトに向かって言った。
「え~~~っ! タマネギ入れんのかよ! てゆーか俺、野菜食いたくねぇ!!」
「バッカじゃないの?! 野菜入れなかったらお好み焼きなんて作れるわけないでしょ?! タマネギはあるから入れんのよ!
ヒナタ、青ネギお願い。サスケくんは、わたしとキャベツ切りましょ! で、シノ!」
非難の声を上げるも、包丁を持ったいのに睨まれたナルトは、しぶしぶといった感じでタマネギを手に取った。
その横でもじもじとしていたヒナタには、青ネギを切る仕事が与えられる。
そしていのは、サスケと共同作業をするという御都合主義な宣言をしてから、シノを呼んだ。
シノは、誰と同じ班でも気にしないが、いのと同じ班になったのは良かったなと思った。
いのはクラスの中で、シノに何かさせようとする唯一の人物だった。
分け隔て無いというか、遠慮が無いというか。
取り敢えずいのがいれば、存在を忘れられたように何も指示されず、ただボケッとするしかない…という状況にはならない。
ただいのは、他の者のように陰でこそこそと悪口を言ったりひそひそ噂話をしたりせず、シノに直接、
「アンタ、何考えてるかわかんない」とか「睨んでんの? 困ってんの? はっきりさせなさいよその顔」とか
「そんなトコにぼさっと突っ立ってたら、キモイわよ」とか、ズバッと言ってくるだけで、決して優しくフレンドリーというわけではない。
いのにしてみれば親しみを込めているのかもしれないし、陰口に不快な思いをするより余程マシだとシノも思うが、
それでも単刀直入ないのの言葉はシノの胸に軽く突き刺さる。
無口で無愛想。
近付き難い存在であるシノにそんな風に口を利けるいのは、クラス……特に女子の間では勇者であり、
さしずめシノは、洞窟の中でひっそりと暮らしていただけなのに村人に恐れられ、勇者を差し向けられたドラゴンのようなものだった。
その勇者は、ありがたいことに退治しようとはして来なかったが、しかめっ面のドラゴンに対して信じられないほど気兼ねがなかった。
シノは、そんな勇者…もとい、いののことは好きだった。
だが、その気兼ねの無さが少し苦手でもあった。
そんなわけで、いのに呼ばれたシノは心なしか身構えた。
何を言われるのかと内心で思い、何を言われても動じないよう心を固くする。
そしてそんな心構えは、シノに眉間の皺を深めさせた。
「シノ、あんたは山芋おろして。あと、かつおだし取るから、火の番お願い」
しかし案外普通だったので、僅かに安堵する。が。
「ちょっと、聞いてる?! 聞こえたんなら、返事くらいしなさいよ! 前にも言ったでしょ、無反応はダメだって! だからあんたキモイのよ!」
「……………。……ああ…聞こえている…」
結局、いつものとおり言われてしまった。
「わあ! サスケくん上手!」
シノが山芋の皮を剥こうと、生まれて初めて包丁を握り締めた時。
上がったいのの声に振り向いて見れば、サスケに皆の視線が集まっていた。
長机の片側にいのとサスケ、その反対側にナルトとヒナタが並び立ち、シノはサスケから少し離れた横に居る。
上手いと言うのはサスケの包丁さばきだったようで、いのが頻りに褒めていた。
シノは、上手い下手はよくわからなかったが、手慣れているのだろうと思う。
サスケは独り暮らしだから、普段から料理をしているのだろう。
「おい、くっつくな」
いのにベタベタに褒められ、僅かに頬を赤らめたサスケが視線を逸らす。
いのを避けるように逸らされた視線は、いのの反対側に居たシノとかち合い、サスケは気まずそうに視線をはずした。
「…………」
シノにとって、サスケは一方的な友だちの一人だった。
因縁は深いが個人的な関わりは深くもなく浅くもなく。
実力も認めているし、何よりいのが好きな人だから、シノも好きだった。
サスケも、いののことを嫌ってはいないのだろう。
「へんっ! そのぐらい、俺にもできるってばよ!」
サスケに張り合い、ナルトが声を張り上げる。そしてタマネギをぶった切ろうとしたのか、包丁を振り上げた。
「ちょっとナルト! 包丁振り回さないでよ、危ないでしょ!?」
「うっせー!」
「あ…あの…」
「みじん切りにすりゃーいいんだろ?!」
「あの、な…ナルトくん!」
ナルトといのの言い合いに、珍しくヒナタが割り込んだ。
何だよとヒナタを見たナルトに、ヒナタの顔が真っ赤に染まる。
「ぁ……あの…あの…」
「だから何だよ! はっきり言えってば!」
「あ…ぁあぁぁあの! カワ…皮剥かないと…」
「ぁあ??」
「タマネギのね…皮を……」
どんどん尻窄みしていくヒナタの声は、しかし確かにそう言った。
ナルトの手元を見てみれば、タマネギが茶色い皮を付けたまま置かれていて、どうやらナルトは皮ごとみじん切りにするつもりだったらしい。
こちらも独り暮らしのはずだが、普段料理はしていないようだ。
「――――っ!」
ナルトが顔を引き吊らせ、いのが爆笑する。
ヒナタはおろおろとナルトといのを交互に見遣り、サスケはフッと小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
おそらく、最後のそれが引き金となったのだろう。
「てめ、笑ったな!」
「ちょっとバカ! やめなさいよ!」
「ナ…ナルトくん…」
頭に血を上らせたナルトが包丁片手に机の上に飛び乗り、サスケに食って掛かった。
サスケが眉を顰める。
いのとヒナタが制止するが、ナルトが聞く耳を持つはずがない……と、思っていると。
「もう! シノ!」
突然名を呼ばれ、シノは少し驚いた。
一体何だと思えば、いのが言い放った。
「山芋はいいから、ここ来てキャベツ切りなさい!」
「…………」
こうしてシノの初料理は、山芋おろしではなく、キャベツのみじん切りに急遽変更させられたのであった。
シノがいのと交代させられ、ナルトの正面に置かれたのは、要するにナルトを牽制しサスケとの間の壁になれということだった。
いのの機転によりシノが輪に入った途端、先程までの騒ぎが水を打ったように静かになる。
ナルトがシノを苦手としていることは、以前からナルト自身が「俺はお前が苦手だ!」と大々的に告白していたため、周知の事実だったのだ。
自分の弱みを公表などするからだと、シノは思いながら黙々とサスケの横でキャベツを切っていた。
包丁は使い慣れないが、さほど扱いに困難な器具ではない。シノは至って普通に使用していた。
しかし、多少は不自然さがあったのだろう。目敏くそのことに気付いたナルトが、沈黙に耐えきれなくなったのか、それとも逆襲のつもりなのか、
いつもの調子を奮い起こして口を開いた。
「なあなあシノ! お前も料理初めてだろ! なんか切り方がぎこちねぇってばよ!」
「…………」
「つーかさあ、お前包丁持つと恐ぇよ! 見た目が! なんかどっかの極道みてぇ!」
「…………」
「なあ、ヒナタ!」
「えっ…?! えと…あの……え…と……」
何を言っても無言を貫くシノにしびれを切らしたらしく、突然ナルトがヒナタに振った。
ヒナタはナルトに指名されたことに驚き、喜び、そして動揺する。
ナルトのために同意したいが、シノの手前そういうわけにもいかない。
ヒナタは忙しなくナルトとシノを交互に見て、狼狽えた。
「…………ナルト…」
ヒナタのためというわけではないが、仕方がないとシノが漸くを口を開く。
そして、ナルト曰く極道のようなスタイル―――包丁片手にサングラスの奥で睨みを利かせて、低い声を地に這わせた。
「口を動かす暇があるなら手を動かせ。なぜなら、口で野菜は切れないからだ」
シノの静かな剣幕に、ナルトが顔を引き吊らせて僅かに身を引く。
ナルトを押し黙らせるのは、ある意味シノの得意技と言えよう。
だが、身を引いたのはナルトだけではなく、実際には周囲にいたサスケやヒナタもそうであった。
ナルトに向けた視線をふとヒナタに向けてみれば、気付いたヒナタがビクリとして、目を逸らす。
「…………」
シノはヒナタと、親しくなかった。
会話らしい会話もしたことが無く、シノがヒナタに対して持っているものと言えば、『日向一族』であることと、大人しい性格だという、既成事実の認識だけだ。
そしてヒナタは、多分、シノのことを恐れていた。
これはシノの推測だが、間違ってはいないだろう。
誰に対しても畏れを抱きおどおどとしているヒナタだが、威圧的な者に対しては特に怯える傾向がある。
そして、シノはまさに『威圧的な者』だった。
有無を言わさぬ口調と尊大な態度。時に教師でさえ怯ませるその威勢は、他を圧していた。
シノ個人としてはそれ程気負っているつもりもなく、ただ淡々と、間違いを指摘したり自分の思う正論を述べているだけなのだが、
それが周りから見ると威圧的に見えるらしい。
いの曰く、『口調と態度と見た目と雰囲気のせい』らしいが、それらを直すには別人になる他無いだろう。
しかもそれが近付き難い原因であると言うのだから、どうしようもない。
恐がられる、気味悪がられる、嘲笑われる、嫌煙される…。
それは決して心地の良いものではないが、しかしシノは、それで良いと思っていた。
人とお近付きになりたいわけではない。
親しくなっても、相手に親しみを感じさせることができない。
受け取る親切に、返すものが無い。
だから、シノは近付き難くて良いと……近付いて来なくて良いと、思っていた。
故に、気兼ねなく近寄ってくるいのは苦手だった。
その点ではナルトも同類で、ナルトはシノを苦手と言いながらも決して恐れず、臆せず、対等に「お前は苦手だ」と宣告してくる。
いのと違ってシノがナルトを苦手としないのは、ナルトがシノを苦手としてくれているからだ。
「ま、こんなモンでしょ」
野菜を刻み終わり、いのの方も山芋と卵とだし汁を混ぜ終えて、後はそれらを混ぜ合わせて焼くだけとなった頃。
「いって~~~~!!!」
木の根元にしゃがみ込んでいたナルトが、突然声を上げた。
「ナ…ナルトくん?!」
「ちょっと、どーしたのよ!」
ヒナタといのが驚いて声をかけると、ナルトが何故か号泣しながら振り返った。
「なんかわかんねーけど、さっきから目が痛くて、涙が止まんねーんだってばよ…」
何だよこれぇ…と情け無い声を出しながら、ナルトが鼻をすする。
その様子に、ええっと驚いたヒナタに対して、いのはバッカねぇと笑い出した。
「あんたそれ、タマネギ切ったからでしょ! 今頃目に染みてくるなんて、どんだけ鈍いのよ!」
「た…タマネギって……切ったら目ぇ痛くたんのか?!」
「あったりまえでしょ~! そんなことも知らなかったの?!」
いのの言葉に、ナルトがううと呻く。どうやら知らなかったらしい。
シノは知識としては知っていたが、タマネギのせいで涙を流す人を見たのは初めてだった。
呆れたように溜め息を吐いたサスケが、ボウルに入れた材料を掻き混ぜ始める。
ヒナタはポケットから取り出したティッシュをナルトに渡そうとしているらしかったが、なかなか決心がつかず一進一退している間に、
いのに先を越されてしまった。
「きったないわねぇ。ほら、これで拭きなさいよ。ってゆうかナルト、あんた大袈裟過ぎ。そんなに泣くほど、痛いわけないでしょ!」
「ん…んなことねぇってばよ! マジで痛ぇって!」
受け取ったティッシュでナルトがズビーっと鼻を噛む。
ヒナタは渡し損ねたティッシュを握り締め、残念そうに肩を落としていた。
それを見たシノは、なんとなく。
本当になんとなく、手を貸してやろうという気になった。
「…………ヒナタ」
名を呼ぶと、ヒナタはビクッとして振り向いた。
恐がられるのはかまわないが、ここまで怯えられると些か悪い気がする。
なのでシノはできるだけ優しく聞こえるように言って、空のバケツを差し出した。
「水を汲んできてくれ。顔でも洗えば少しは落ち着くだろう」
ヒナタはビックリしたように目を見開いてシノを見たが、考えた末、言葉からは見事に省かれた『ナルトのために』というシノの意図を汲み取れたらしい。
「あ…あの、はい…!」
と、緊張しながらもバケツを受け取り、川に向かって駆けていった。
「あれ、ヒナタどこ行ったの?」
「……水汲みだ」
いのが尋ねてきたので答えると、いのは「あ、そう」と言って、「じゃあシノは使い終わった道具洗ってきて」とボウルやら包丁やらをごっそりシノに渡してきた。
「…………」
「……返事は?」
「………ああ…」
よし、といのが笑って言った。
河原では、他の班の人間もぱらぱらと見受けられた。
シノは一人で全部洗うつもりでいたのだが、水を汲みに来ていたヒナタが手伝うと申し出てきたので頼むことにした。
一瞬断りそうにもなったが、勇気を振り絞って声を掛けてきたようなヒナタの親切を、無碍にできなかったのだ。
とは言え、場を盛り上げるような才覚はゼロ以下のシノである。
親睦どころか会話も無く、二人はただ黙々と道具洗いに専念するだけだった。
それでも一人より二人、作業も早く終わり二人が一緒に戻ると、居たのはサスケといのだけで、生地は出来たらしく肉の用意をしていた。
「…………ナルトは…」
「トイレよ。まったく、ほんとデリカシー無いんだから!」
シノが問うと、不機嫌そうにいのが答える。
きっと、「ションベン行ってくる!」とか何とか、大声で宣言して行ったのだろう。
シノはナルトがいないことで水の置き場に困っていたヒナタに、その辺に置いておけと言った。
涙は止まったのかもしれないが、用を足しにいったのならどのみち水は要るだろう。
「おい、焼くぞ」
サスケがフライパンに油を引きながら言った。
うん! と、いのが急に態度を変える。
何だかんだでサスケが一番働いているなと、シノはフライパンで肉を焼くサスケと、生地の入ったボウルを取りに行ったいのを見守りながら思った。
と、その時。
ギャアアアアア! という叫び声が、突然聞こえてきた。
それを聞いた、シノを含め5班の面々が顔を見合わせる。皆の感じた嫌な予感は、おそらく同じだっただろう。
そしてその予感は見事に的中し、ナルトが咳き込み、駆け戻ってきた。
「うわわわ!!!」
「ちょっとナルト、いったい何―――」
いのが眉を顰めて文句を言おうとしたが、途中で言葉を失った。
ナルトの後ろから、ナルトを追いかけてきたのは、鷲に似た、巨大な鳥獣だったのである。
バサバサと5メートルはあろうかという羽を羽ばたかせ、ギエエエと奇っ怪な鳴き声を響かせる。
「伏せろ!」
「きゃっ! ナ…ナルトくん!」
「お前…なに連れて来てんだっ!」
「うっせー!! コイツが勝手について来たんだってばよ!!」
「アンタのこと、餌だと思ってんじゃないの!?」
ナルトが机の下に駆け込むと同時に、大きな鳥がその上を滑空していく。
ヒナタもサスケもいのもシノも、各々身を伏せ、それぞれの文句を口走っていた。
鳥の巨大な羽に煽られた風が火を煽り、たきぎを解体して、肉もろともフライパンを吹き飛ばす。
「サスケくん!」
「ちっ!」
煽られた火がサスケの方に伸びて、サスケが舌打ちをした。
強い風に、火は消えるどころか強くなったようだ。
万が一火の粉が草木に引火すれば火事になりかねない。
そう思ったシノは、鳥が上空を旋回しているのを確かめると、ヒナタが置いたバケツに目を走らせた。
一気にやれば、取って来ることもできなくはないが…。
ギエエエ! と再び不気味な鳴き声を轟かせた鳥獣に、皆が空を仰ぐ。
降下体勢に入っていた鳥獣が、ナルトの隠れている机目掛けて急降下してきた。
「ナルトくん!」
ヒナタが叫ぶ。
「うぉわ?!」
鳥の巨大なクチバシが机を貫く寸でのところで、一番近くにいたいのがナルトを引きずり出した。
机が真っ二つに割れ、地面がえぐれる。
机の上に置いてあった、生地の入ったボウルが、巻き添えを食って空に弾き出された。
「あっ!」
そのボウルを追って、いのに助けられたばかりのナルトが飛び出す。
「ちょっとナルト!」
「ちっ、バカ…!」
鳥獣が再びナルトに狙いを定める。
確かにバカだとシノも思った。明らかに鳥の狙いはナルトなのに、わざわざその身を晒すなんて。
そう思いながらシノはどさくさに紛れてバケツを取りに行き、消火した。
同時に、ナルトがボウルをスライディングキャッチする。
「ナルトくん!」
ナルトの背後から襲いかかった鳥獣に、ヒナタが叫び、サスケがクナイを放った。
首にクナイが刺さり、深手では無かったようだが驚いたのだろう。
例の鳴き声を上げて身を翻し、怪鳥は空へと舞い上がる。
「良かった…」
「………否。また来る」
ヒナタの安堵の声に、シノは空を見つめながら言った。
シノの読み通り、一度上空に上がった鳥は、しかしすぐに舞い戻ってきた。
サスケがかまえる。と、いのがそれを制した。
「大丈夫。わたしに任せて!」
そう言って、変わった形の印を組む。そして、「心転身の術!」と叫んだ。
途端、鳥がピタリと動きを止め、いのの体が崩れ落ちる。
「いの!」
サスケが、いのの体を受け止めた。
鳥獣はバサバサと空中で羽ばたいていたが、不意に上昇し、何事もなかったかのように去っていく。
それとほぼ同時にいのが気が付くと、ふっと微笑んで、Vサインをした。
いのの術によって鳥獣は追い払えたが、被害はけっこうなものだった。
机は壊れ、肉は全滅。余っていた食材も吹き飛ばされて、無事に回収できたのは小麦粉と油のみ。生地が無事だったのは、奇跡的だった。
「デヘヘヘヘ。オレが守ったんだってばよ!」
「はいはい。わかったから、それ持ってきなさいよ」
取り敢えず課題をやらなければならないのと空腹とで、5班は拾い集めた食器や道具を洗って火を熾した。
ソースも無ければ青のりも無いが、ナルトが守ったと主張する生地は、焼けば食える物にはなるのだ。
いのがボウルを抱えているナルトを火の方へ呼び寄せると、ナルトは意気揚々とやってくる。
ようやくご飯が食べられると、皆が安堵の溜め息を吐いた―――その時。
「おわっ!!」
ナルトが、シノが火を消した後そのままにしていたバケツに、足を突っ込んだ。
前のめりにつんのめったナルトの手から、ボウルが離れる。
「!?」
「ナルトくん!」
「バ―――っ!」
「…………」
無情にも。あっけなく。
お好み焼きの生地は、焼かれる前に地に落ちた。
「うそ……」
お約束すぎるお約束。
シノは、『アイツがいると、できるもんもできねぇ…』というシカマルの言葉を思い出した。
見事にこけ、唖然とするナルトの前に、もう我慢出来ないとサスケといのが仁王立つ。
二人の背後に燃え盛った怒りのチャクラに、ナルトが引き吊らせた顔を更に凍らせた。
そして―――。
「「ナルトおおぉぉぉぉ!!!!」」
サスケといのの怒声が森林を奮わせ、小鳥たちが一斉に飛び上がっていった。
*
ねりきりで菊の花の造形を終えたシノは、それを小皿の上に置いた。
上下左右から眺め、初めての時よりは上手にできたと、思わず満足する。
何故…ねりきりを作っているのかとシビに尋ねられた時は、どう答えれば良いの判らず実に曖昧な返事をしてしまったが、要はリベンジだった。
『案外、下手くそだな』
初めて作った時に言われた一言。
それはどうしても、シノの中で承服しかねる言葉だったのだ。
そんなわけで行った2度目のチャレンジは、まずまず成功と言ったところだろう。
本当ならば、「下手くそ」と言った張本人に「どうだ」と突き付けたいところではあるが―――。
そこまで考え、シノは、生まれた満足感が一気に無くなっていくのを感じた。
それを言ったのは、シノを陵辱し、犯した人だ。
頭に浮かんだその人物の姿に、シノは眉を寄せた。
非道いことは………された。
しかし、嫌いになったわけではない。
あの人は、オレが嫌って良い人じゃない。
そう頭で思いながらも、強張り、動悸の激しくなる身体を、シノは恨めしく思った。
あの人は………。
シノは、考えるのを止めた。
無理矢理頭を切り換えて、このねりきりをどうするか考える。
自分で食べるか、それともキバやヒナタにあげるか。
後者はダメだなとシノは思った。ねりきりは一つしか無いのだ。シノには、キバとヒナタ、どちらか一方を選ぶことができない。
とは言え、自分で食べる気にもならなかった。
ではどうするかと考えて―――。
浮かんだのは、「作業が終わったら部屋に来なさい」と言い残していった、シビだった。
「親父…」
シビの部屋を訪れたシノは、無言で卓上にねりきりを乗せた小皿を置いた。
小首を傾げるシビに、「やる」と一言告げる。
シビは少し驚いたようだったが、わかった、ありがとうの意を込めて頷いた。
「………で」
用件は何かと問えば、シビは明日から特別任務に出ることをシノに伝えた。
「……シノ」
わかったとシノが了解し部屋を出て行こうとすると、シビはシノを引き留め、
「何か、話したい事は無いか」
と言った。
シノは、息を呑んだ。
シビに勘付かれている―――そう、思えた。
実際は、シビはただシノが何かしらの不安を抱えていて、そのために普段しないお菓子作りなどしたのではないか―――
と心配して訊いてみただけだったのだが、シノには、秘密がバレたのではないかという恐怖にも似た感覚が迫り上がって来たのだ。
再び激しくなる鼓動に、だが表面にはおくびにも出さない。
知られたのだろうか。しかし、それは有り得ない。
シノは迷った末、
「……何も」
と答え、その場を辞した。
シビが納得したかどうか判らなかったが、とにかく違和感がない程度の早足で自室に向かい、入るなり戸を閉めた。
部屋に着いてもなお、心拍は上がったままだ。
落ち着こうと、深呼吸を静かに繰り返すシノ。
しかし、最後にはあ…と息を吐くと、落ち着くどころか脱力感やら罪悪感やら虚無感やらが押し寄せて来た。
少しでも気を緩めていたら、泣き付いてしまっていたかもしれない。
シビの立場や、あの人の立場。そして何より、あの人に関係している、シノにとっても大切な人々を傷付けてしまったかもしれない。
そう思うと、怖くなった。
しかし――――。
それは、ダメだ。
震える拳を、握り締める。
シビに迷惑をかけてはいけない。
大切な人たちを、悲しませてはならない。
そのために。
自分は泣いてはいけない、傷付いてはいけない、極力、人の大切な人になってはいけない……。
自分だけが我慢していれば、良いのだ。
恐怖を押し込め、不安を押し遣り、息を吸う。
感情を静めると、シノは何事も無かったように前を向いた。
窓辺には、虫籠のふたを開けて挿した枝に、しっかとくっついている蛹がいる。
読み終えた本が床に積み上がり、未読の本が散らばって、雪崩れているのは読みかけの本だ。
ゴチャゴチャして足の踏み場も無い状態の部屋の中、シノは一箇所だけ、仏壇のようにキレイな棚に歩み寄ると、一つの石を手に取った。
昔、シカマルがキャンプに行った土産に拾ってきてくれた物だ。
当時は手にとてもよく馴染んだが、今は少し小さい気がする。
石を置いていた横には、チロルチョコときなこ棒の買い置きが置いてある。
きなこ棒はコンビニからは姿を消してしまったが、今はチョウジに教えてもらった駄菓子屋で入手していた。
そんな物の奥には、忍術書や論文集の中に紛れて、アルバムが挟み込まれている。
シノは、開かなくとも、そのアルバムに閉じ込めた写真を覚えていた。
紅、キバ、赤丸、ヒナタ、そして自分の写った、第8班の集合写真。
キバやヒナタは写真立てに入れて飾っているようだが、シノはアルバムにしまったままにしていた。
その他にはアカデミーの頃の写真があり、調理実習の時の写真も入っている。
実習を終えた後で撮られた写真は、喧嘩腰になったナルトとサスケの間にいのが割って入り、二人の頭を撫でている光景が写っていて、
その後ろにヒナタと自分も写っていたはずだ。
全ては大切な思い出で、
大切な―――宝物。
『……つながった糸は、時を経るに従い、太く強くなっていく…』
イルカのせりふを、思い出す。
三代目火影の葬儀の際、ナルトとイルカの会話を、シノはナルトの横で聞いていた。
人は人のために命を懸ける。
夢や希望を持ちながら、しかしそれと同じくらい大切な、人たちのために。
イルカは、理屈では無いと言っていた。
糸を持ってしまった奴はそうしてしまうんだ、と。
きっとこれが、その糸なんだろう……と思う。
しかしシノは、理屈で無いものは苦手だった。
駆け引きでも損得勘定でもなく、ただ、大切だという想いに起因する行動。
わからないわけではない。
しかし、解りたくないという思いがある。
自分の存在価値は、忍であることだ。
自分の存在意義は、火影の命に従い任務を遂行することだ。
守れと言われれば守る。
救えと言われれば救う。
戦えと言われれば戦い、
殺せと言われれば殺す。
守りたいという想いはあって然るべきだが、それが火影の命令を上回ることは無い。
木ノ葉の忍である以上、
火影の命は絶対であり、
命を賭し、死して遵守すべきは唯一つだ。
『オレは、火影様のために生きて、死ぬ覚悟はとうにできている』
そう言ったのは、ようやくアカデミーにまともに通えるようになった頃だった。
アカデミーの帰り道、たまたま出会した三代目火影に、幼いながらそう断言した。
イルカから状況を聞いていたのか、「アカデミーへ行けるようになって良かったな」と言われ、「しかし子どもらしさに欠けるようじゃな」と笑われた。
だからシノは言ったのだ。
「子どもらしさなどいらない」
と。
オレは忍だ。なぜなら、そのために生まれてきたからだ。
まだ力も知識も経験も証もないが、それでもオレは、
火影様のために生きて、死ぬ覚悟はとうにできている。
野望どころか、夢も、希望さえ持っていなかった。
一生懸命握り締めていたのは、木ノ葉の里と火影に忠誠を尽くし、忍として生き、忍として死ぬという、与えられた運命だけだった。
その運命を捨てる権利は、自分には無いと思っていたし、今も思っている。
ナルトのように、逆らったりしない。
ヒナタのように、抗ったりしない。
ネジのように、断ち切ったりしない。
してはいけない―――。
イルカはシノのことを、優秀だと言った。
しかしシノは、自分が優秀だとは思わなかった。
それは普通のことであり、普通のことでなければならないことだった。
『シノ……』
シノのせりふを聞いた三代目火影の、言葉と表情が忘れられない。
火影は――里と同義であり、絶対である主人が――まだ忍になってもいない、義務も果たしていない油女の子どもに、すまない、と。
そう………言ったのだ。
すまない、と、そう、謝罪の言葉を口にして、そして、酷く悲しそうな顔をして笑った。
その時シノは、火影がなぜそんな顔をするのかわからなかった。
自分は悲しませるようなことを言っただろうかと、不思議だった。
しかし今ならば―――。
少し、わかるような気がした。
きっと三代目は、逆らい、抗い、断ち切ってほしかったのだろう。
もっと自由に、もっと自分のために。
生きてほしかったのだろう。
申し訳無いと、シノは思った。
しかし、それが自分の道なのだ。
フタの開いたカゴの中で生きることを選んだのは――自由の下に不自由を選んだのは――自分だ。
たとえ火影が代わろうと。
たとえ、自分を犠牲にしようとも。
それが忍だ――――。
三代目火影は、その後、そっとシノを抱き締めてくれた。
猿飛という姓を持つ火影は、とても、とても………温かかった。
なのに。
気が付くと、生暖かい滴が一筋、頬を伝っていた。
酷く悲しくて、苦しかった。
同じ猿飛の姓を持つあの人は、どうしてあんなに………。
「シノ、入るぞ」
突如入口から聞こえたシビの声に、シノは驚いた。
慌ててこぼれ落ちた涙を拭い、平静になったが、戸を開けて入ってきたシビはシノの顔を見て一瞬動きを止めた。
「シノ…」
「用件は」
シビの声を遮るように、シノは言った。
シビは暫しシノの顔をじっと見ていたが、ふと佇まいを正すと、端的に用件を告げた。
「菓子、美味かった。それから……明日の任務、お前も来るか」
「…………オレも…?」
シノは、意外な質問にまた少し驚いた。
シビと一緒に任務に就いたことは、まだ無かった。
初体験か、とシノは思い、任務となると菓子作りのように『初めてだから上手くできない』ではダメだなと思う。
「嫌なら良い。無理にとは…」
「否…そうではない。………一緒に、行く」
任務と聞いて、シノはほっとし、安堵していた。
任務なら、余計なことは要らない。
命ぜられた事を、忠実に遂行すれば良い。
もし妨げる者がいるならば、全力で排除するだけだ。
「………そうか」
シビはそう言うと、そっとシノの頭に手を伸ばしてきた。
撫でる前に一度空に留まったが、シノが逃げないと判ると、髪の毛先からゆっくり、腫れ物に触るように優しく触れて、撫でる。
「では明日、正午に出発する。それまでに、チームメイトたちに報せておきなさい」
シノが頷くと、シビは手を放して踵を返した。
シノの中が、静かに熱くなってくる。
蟲が、騒いだ。
任務だ。
任務、なのだ。
水を得た魚のようなものだった。
「オレは………」
手にしていたシカマルの土産の石を、チロルチョコときなこ棒の横にそっと戻す。
大切な思い出と、宝物。
大切だから、守りたいもの。
しかし、
でも
「オレは、忍だ」
今はまだ…。
自身を絆した虫の蛹が、鼓動のように、小さく震えた。
*
ぐうぅぅ……。
ナルトが一頻り怒られた後。お腹を鳴らしたのは、ヒナタだった。
皆の視線に、ヒナタが真っ赤になってお腹を押さえる。
そんなヒナタを見て、ナルトも溜め息混じりに言った。
「オレも腹減ったってばよ……」
「アンタが台無しにしたんでしょーが!」
いのの鋭い指摘に、ナルトが黙る。
「それに、このままじゃ確実に実習の成績はゼロだぜ」
サスケが、苛々したように呟いた。
それ程成績に執着心は無いだろうが、ナルトのせいで…というのが気に入らないのだろう。
皆の会話を軽く聞き流しながら、シノは一人はずれて火の番をしていた。
最初、いのに頼まれたのが山芋と火の番だったせいか、非常に気になって仕方がないのだ。
出番を失い火から下ろされたフライパンは、残った食材・道具らと一緒に置かれている。
その時、ふと、シノはポケットの中に入れっぱなしにしていた野草の存在を思い出した。
野草を入れた袋を取り出すと、蒸発した水分が水滴となって、袋の内側を曇らせている。
「…………残った物で、作れる物が無いわけではない…」
シノが唐突に言うと、皆が一斉に振り返った。
シノも、僅かに首を傾げて、皆の方を見た。
今ある材料は、小麦粉と油と川の水。そして、シノの手の中にある野草と、周辺に生えている野草やキノコや木の実だ。
生で食っては調理実習にならないが。
「…………天ぷらぐらいなら、できるだろう」
ぐうぅぅぅと、誰のかわからない腹が鳴った。
調理実習の惨劇は、確かに散々ではあったけれど。
シノにとっては、非常に面白く、大切な思い出となったのだった。
了
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あとがき
アスシノを取り扱っていらっしゃる素敵サイト、『空の天空の穹』様のお話の中に、
『ナルト、いの、サスケ、シノ、ヒナタの班で行われた調理実習』という一文がございまして。
これは面白い!
是非この話を書かせて欲しい!
と頼んだところ、快諾してくださったので遠慮無く書かせていただきました!
管理人、森林様方の設定・世界観・流れをベースにさせていただきましたので、
そちらのお話を読まれていない方には、ちょっと分かりづらい内容だったかと思います。
シノの考え方なども参考に…というか、できる限り同じになるように書いたつもりではありますが、
やはり私の書いた似せ物ですので、その点は御了承ください。
森林様! 素敵なシチュエーション、並びに書くことをお許し下さり、ありがとうございました!
そして、好き勝手やりたい放題、本当に遠慮無くやってしまって、すみませんでした…!!(T T)