獏
「なあ、この薬効って確か―――」
白紙の巻物に書簡の一部を書き写していたシカマルは、ふと手を止めた。
筆の細い毛先から白い紙の繊維が黒い墨の汁を吸い、じわりと滲む。
だが、シカマルは静止したまま身動がない。
向けた視線の先で、静かに静かに、シノが―――
「……寝てンのか?」
凝視しながら、シカマルは呟いた。
フードを被り、外套で口元まで隠し、サングラスで目を覆ったシノは、傍目からでは起きているのか寝ているのか判別ができない。
壁にもたれて座る姿勢も全く崩れていないので、余計に判らない。
ただ、シカマルの呼びかけに全く反応を示さない。
だから、多分。
シカマルはそっと筆を置いた。
墨汁が、まるで黒い花のように白い用紙に浸みている。
だがそんなものには目も呉れず、シカマルは這うようにしてそろそろとシノに近寄った。
間近に迫っても尚、シノは身動ぎ一つしない。
起きているとは思えないが、眠っていても不自然だ。
「おい…、シノ……?」
触れるほど顔を寄せ、フードの下、外套の中、サングラスの奥を覗き込む。
それで漸く。
やはり――どうやら――眠っているらしいことが判った。
静かに、静かに、眠りに就いているのだ。
そんな眠れるシノを、シカマルはじっと見つめた。
それで、何というか………羊の皮を被った狼の気分になった。
外面で相手を油断させ、その内では…。
「おい」
シカマルは、真顔のまま囁いた。
「起きねーと、喰っちまうぞ」
「………」
「………」
「………」
だが、やはりシノからの反応は無い。
暫しじっとして考えた末、結局シカマルはいそいそと引き返して薄手のタオルケットを持って来るに至った。
狼には成り損ねてしまったようだ。
所詮は、羊の皮を被った狼の気分になった鹿である。
シカマルは、ちょっと情け無くなった。
そんなに俺って、安全そうに見えるんだろうか…。
安心してもらえるのはありがたいが、こうまで無防備・無警戒というのもちょっと切ない。
そんな複雑な心境を抱きつつ、シカマルはそうっとタオルケットをシノにかけてやった。
普段あれ程感知能力に長けているというのに、起きる気配は全くない。
本当に、熟睡しているようだ。
自分の眠りを妨げる者などこの場所にはいないとでも思っているかのように、ぐっすりと眠っている。
信頼―――されてるってことなんだろうが。
シカマルは気に入らなかった。
そんな約束はしていないし、期待に応えてやる義理もない。
シカマルは思い切ってもう一度、ほとんど隠れてしまっているシノの顔に己の顔を寄せた。
悪いが裏切らせてもらうぜ、と心の中で呟いて。
口を覆い隠す襟に手を掛け―――
……やっぱ…止めた…。
ふ、と一瞬、シカマルは寂しげな表情を浮かべて、手を離した。
やはり気持ち良く寝ているところを起こしてしまうのは悪い。
それに羊の皮を被った、と言うならば……。
どちらかと言えば、今目の前ですやすやと無防備に眠っている、シノの方なのでは……と、思い付いてしまった。
無防備無警戒な寝顔で相手を油断させる反面、その実、完全防備・厳重警戒態勢を布いているに違いない。
きっと自分が狼に成って襲ったら、目覚めたシノは羊の皮を破って――――
―――――蟲だ…。
考えるだけで怖ろしい。狼如きが歯向かえる相手でない。
このまま羊の皮を被らせておくのが得策だろう。
『触らぬシノに祟り無し』だ。
シカマルは、狼に成れなくて良かったと思った。思って、マジ情けねぇ…と自分の不甲斐無さを痛感して項垂れた。
そんな時。
人生とは不思議なもので、起こそうとしても起きない者が、起きないようにした途端起きる、などという事が起こるのである。
それまで微動だにしなかったシノが動いたものだから、シカマルは心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。
「…………」
濃いサングラスの奥で開かれた目が、間近で合う。
シノは驚いて見開かれたシカマルの目を暫し見つめた後、それがシカマルである事に気付いたのか安心したように目を閉じて、小さく息を吐いた。
そして徐にシカマルの服の裾を掴むと、胸元に寄り掛かってくる。
「シ…シノ……?」
「厭な夢を見た」
「へ、へぇ…?」
そんな風には全然見えなかったけどな、とシカマルは思った。
厭な夢を見たなら、うなされるだとかそれなりの寝言を言ったりするだとか有りそうなものだが、そんなものは一切無かった。
どちらかと言えばすやすやと眠っていたように見えたが…。
まあ、本人がそう言っているのだからそうなのだろう。
シノはシカマルの胸の中に頭を埋めて、心地良さそうにしている。
「あ~。……まだ眠ぃなら、寝てもいいぜ?」
「………む………そうか…」
既に微睡んでいたのか反応鈍くそう言うと、もぞもぞと動き出すシノ。
シカマルも位置をズラして、シノがしていたように壁に背を預けて座り、シノが寝やすいようにしてやる。
結局膝枕の体勢に落ち着き、シノは再び動かなくなった。
判り難いが、多分眠ったのだろう。
タオルケットを掛け直し、今度は良い夢見ろよ、と思いながらシノの頭をフード越しに撫でてやる。
狼にはなれずとも。
せめて悪夢を喰う獏ぐらいにはなれるだろうか―――と、シカマルは思いながら、そっと、羊の皮を被った蟲使いに口付けた。
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『曲がったハナメガネ』のスガメネ様方へ、相互御礼として贈らせていただいた物。
リクエストは、「シカシノで切甘」……でしたが、ほろ切ほろ甘になってしまいましたね…(スミマセン)。。
しかし、ヘタレなシカマルを気に入っていただけたようで良かったですv
相互リンク、ありがとうございました!