こんこん。
と後ろで小さく叩く音がして、シノは振り返った。


ガラス越しのキス



ここは病院の待合室で、シノが座っていたのは子ども用に設けられたスペースの一角だった。本棚やおもちゃ置き場の陰にあたり、
何故か足下に窓がある場所。大人にとっての足下なので、子どものシノにとっては一面がガラス張りだった。
その場所は少し寒いが、外の景色を眺めるのには絶好のポジションで、そこに居座り続けているシノの特等席となっていた。
とは言え他の子どもたちは外の景色になど興味がないようで、誰も目も呉れていないため、シノにとってだけの特等席である。
窓から見える閑散とした病院の裏手は特に面白い物もなく、子どもの興味を引くようなものもない。他の子どもたちがそっちのけなの
も当然で、シノがそこを陣取っていることの方が余程気になるようだ。
「なあ、おまえ、なに見てんの?」
この手の質問は、6度目である。不思議そうに覗き込まれるのは幾度もあった。
その内わざわざ尋ねてくるのは決まって好奇心の強そうな子どもで、そして決まって、我の強そうな奴。
今度もそうかと見てみれば、案の定、ツンツン頭に意思の強そうな目をした子どもだった。頬にある赤い逆三角のペイントがシノの目についた。
「なあ、なに見てんだよ」
何も応えないシノに早くもしびれを切らしたのか、少し不機嫌そうな声を上げ、無遠慮にシノの頭をどかして窓の外を覗き込んでくる。
どうやら、今までの中で一番短気で行動的、そしてワガママな奴らしいと、シノはどかされながら眉を寄せた。シノの、一番嫌いなタイプだ。
「なんだよ、なんもねーじゃん!」
そう言って、その子どもは唇を尖らせてシノを非難するように言った。
それでもシノは何も応えない。そうしていれば、すぐに厭きてどこかへ行くだろうと思ったからだ。
実際前の5回は、何を質問しても応えないシノに為す術無く、離れていった。
だから今回もそうなると思っていたのだが…。
その子どもは何も言わないシノをまん丸くした目でまじまじと見つめると、
「なあ、おまえもちゅーしゃしにきたのか?」
と突然訊いてきた。
ちゅーしゃ、とは、注射のことだ。
今日は10日ある予防接種週間の初日であり、ア行の生徒はこの日に受けるようアカデミーで言われていた。
そのため病院内は子どもで溢れており、こうして待合室に子供用のスペースが特設されているのである。
この子どももご多分に漏れず、ア行のアカデミー生なのだろうとシノは思いながら、それでもやっぱり口は利かなかった。
しかし、その子どもはシノの応えなどどうでもいいらしく、勝手にどんどん話しを進めていった。
「オレはもうやった! ぜんっぜん痛くなかったし、泣かなかった!」
スゲェだろっ! と全力で自慢するその子どもに、シノはそんなのは当然だと思う。
忍を目指すアカデミー生が予防接種の注射ぐらいで泣くなどあってはならないし、もしそれくらいで泣くなら自主退学した方が良い。
そんなことを素で思いつつも、やはり何も言わずにいると、その子どもは同意と受け取ったのか、「な! オレってスゲェよな!」と破顔して、
「おまえも、心配ねーよ! ぜんぜん痛くねーから!」とシノの頭を、撫でているのか叩いているのか判らない力加減でぐりぐりと撫で回してきた。
どうやら、注射がこわくて緊張しているのだと思っているらしい。
勘違いも甚だしく、さすがに心外で、シノは訂正すべく口を開きかけた。
シノも既に予防接種は終えていて、父親が迎えに来るのを待っていただけなのだ。
注射に関しては当然泣かなかったし、怖くもなかった。
そのことははっきり言っておかなければと思い、口を開こうとした。…のだが。
「んで、おまえ、なに見てたんだよ?」
と、突然話が元に戻されたため、今度は言わないのではなくて、何も言えなくなってしまった。
あまりの脈絡の無さにシノが呆然としている間にも、その子どもは止まらない。

「外さみぃよな!」
「でもオレはへっちゃらだぜ!」
「雪ふんねぇかなぁ」
「雪合戦好きか? オレ強えーんだ!」
「あ、なんかアイス食いたくなった」
「かき氷!」
「この窓冷てっ」
「おい見ろよ! 息で白くなった!」
あっちこっちあっちこっち、話が飛ぶ飛ぶ。
まるで雪の中を喜々として駆け回る犬のように、全く規則性が無い。
そしてついには「あ! そうだ!」と言って脱兎の如く駆け出して行ってしまった。
「……………」
残されたシノは、その犬か兎か、あるいは台風のようなその子どもを、黙って見送るしかできなかった。

―――――――いったい、何だったんだろう…。
呆然と、その子どもが去っていった方向を見つめながら、シノは思った。
「ったくも~、ここにいろっつったのに! あのバカは!」
そんな時、一つの怒声が聞こえてきて、思わずそちらを向く。
そこには黒髪を束ねた10歳くらいの女子がいて、眉を吊り上げていた。
その頬にはあの逆三角のペイントがあり、さっきの子どもの姉か、親族だろうと察しがついた。
その女子生徒は「キバ! どこ行った!!」と怒鳴りながらきょろきょろとしている。


そんな時だった。

こんこん。

と後ろで小さく叩く音がして、シノは振り返った。


そこには、さっきの子どもがいて、窓の向こうできょろきょろとしていた。
シノが振り向いたことに気が付くと落ち着きなく上下左右を見回していた首を止め、にぱっと破顔する。
やはり、何をしたいのかよくわからない。
わからないが、その子ども――キバと呼ばれていた――が窓を指し示すのを見て、シノは取り敢えず窓ガラスに近寄ってみた。
するとその子は左手を開いて窓ガラスに張り付け、右手でそれを指し示す。
「?」
よく―――わからなかったが、シノは小首を傾げながら、こうしろということかと、徐に、少しおっかなびっくり、
自分の右手を同じようにして張り付けてみた。
シノの右手が、窓の向こうの子どもの左手に、ガラス一枚を隔てて重なる。
そうするとその子は肩をすくめて面白そうに笑った。
シノは、何だか自分がバカにされたように感じて眉を寄せ、少し意地になって今度は自分から左手を窓に張り付けてやった。
その子はそれに気が付くと、やはり面白そうに笑って自分の右手を重ねてくる。
どうやら、シノを笑ったのではなくて、ただ楽しんでいるだけらしかった。
窓の向こうで、くすくすと笑う子ども。
シノはちょっと、不思議な気持ちになった。
ガラス越しに合わさった手と手。
自分の頬には目につく逆三角のペイントなど無いし、その子は自分のように黒い眼鏡などつけていない。
その子の目はとてもはつらつとしていて、満面の笑みを浮かべているのだ。自分とは、似ても似つかない。
けれど――――。
なぜだか、鏡を見ている気分になった。
その子も不思議に思ったのか、笑うのをやめてしげしげとこちらを見つめてくる。そして不意に、目を閉じて顔をガラスにくっつけてきた。
何をしたいのか―――そんなことを考える暇もなく、シノは、鏡ならば自分もそうしなければならないと咄嗟に、思わず、同じようにしていた。


冷たい窓ガラスに唇が触れる。

ガラス越しに、二つの唇が合わさる。


顔を離すとその子も離していて、ちょっと不思議そうな顔をしていたが、シノと視線が合うとあの笑顔を向けてきた。
そして、何やら口を動かす。
しかし窓に遮られて聞こえなかった。
聞こえない事がわかったのか、その子は再びきょろきょろと周りを見回してから、こしこしと手と袖で窓ガラスを拭くと、
は~っと息を吐きつけてガラスを白く曇らせた。
そして、そこに文字を書く。
文字は二文字。


キ  ス

いや、とシノは思った。
左の『キ』の字も右の『ス』の字も、どとらも左右が反転している。これは……。
「!」
その時、突然その子が弾かれたように立ち上がって、思わずビクリとした。
そして慌てたように駆けていってしまうその子に驚いて、気付くとシノも駆け出していた。
病院の裏手に回り込み、その子がいた場所へ行ってみたが、そこにはもうその子はいなかった。
吐き出す息が白くなる。
きょろきょろと周りを見渡しても、人っ子一人いない。
先程の姉に見つかったのかもしれないと、そう思った。
そして、はあ、と一息ついて自分を落ち着かせた。
見れば、窓ガラスにはまだ文字がくっきりと残されていて、そこに書かれていたのは、

『スキ』の二文字。

シノは、さっきの子どもの口の動きを思い出した。
『おまえ、すき!』
たぶん、そう言っていたのだ。
窓ガラスに近寄ってみると、手の跡もまだ残っている。
シノは、その手の痕跡にそっと触れてみた。
指先を合わせ、重ねる。
硬く冷たい、ガラスの感触。
曇ったガラスの中を覗き込めば、子どもたちが遊んでいるのがうっすらと見えたが、こちらを見ている子は一人もいない。
シノは、その二文字の上、さっきの子どもが口付けたであろうその場所に、自分の口を当ててみた。
冷たい、滴が唇を濡らした。

雪のように冷たくて、触れた瞬間に溶けて消えてしまったガラス越しのキスは、
けれどどこか温かくて――― 忘れられない出来事だった。





――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
このお話は、油女シノの誕生日に『タバコヤビルディング』のリョウヘイ様が開催した、お絵かきチャット内で、
『空毬』のみかみ様が描かれた絵をヒントに書かせて頂きました。
「ガラス越しのキス」なんて、私の頭では到底思いつかないシチュエーションですよ!
みかみ様の絵を見た瞬間に「あ、これ一本書ける」と思いました。それぐらいドラマティックで、物語のワンシーンのような絵で
………そのドラマティック性を表現できたかどうかは怪しいですが…。
突発的な思い付きで書いた結果、こんな感じになりました。
元絵が可愛らしいため、当サイト目ではありえない程可愛らしいシノとキバになった気がします(笑)
やっぱりこのシチュエーションがなぁ…素敵すぎるんですよ…!純情無垢!
薄いガラス一枚が厚い壁となって二人を分かち、触れることも言葉を交わすことも叶わない。
しかし、そんな障壁があってもなお互いを求めて止まない二人は、できるかぎり近くに、傍にいたいとガラス越しに寄り添って、
心を通わせ合うのです―――!なんて純愛!
………え…そんな展開がどこにあるって?

…………………。

…ぃ……いやだなぁ、それはそれ、これはこれですよっ!
シノとキバの純愛なんて………、そ、そんな、それは、さ、さすがに、ねぇ…無理というか無謀というか(狼狽)
ああ、でも、みかみ様の絵はそんな純愛を表しておりますよ!
以下がその絵でございます!みかみ様とリョウヘイ様の温情に甘えて頂いてしまいましたv
もちろん、転写転載は厳禁です!


mikami


みかみ様。この度は素敵なワンシーンを、ありがとうございます!
また、そこから勝手に妄想した話を書くことを快くお許しくださり、誠に、ありがとうございました!