※バレンタインの続きです。




「これ、ありがとう」
とシノが差し出されたのは、縦約15センチ、横約10センチ、そして厚さは1センチ程の本だった。
空五倍子(うつぶし)色のブックカバーがしてあるため表紙などは見えないが、中身が何かは知っている。
先日シノがサイに貸した、恋愛小説である。
厳密に言えばシノが山中いのいちに借り、許可を得てサイに貸したものでシノの所有物ではない。
この事は念のため、強調しておこう。
「それからこれも…」
シノに本を返したサイはそう言って、更にもう一つ、本とほぼ変わらぬ大きさのノートを取り出すとシノに差し出してきた。
これは、シノが書くように奨めた「読書感想文」をしたためたノートだ。
ただ読むだけではなく、どんな場面でどんな事を思ったか、どんな事を感じたかなどを書き出す事によって注意深くそして思慮深く読めるようになる。
初めは感想など浮かばないかもしれないが、書かなければと意識し捻り出していけば、感受性も育まれていくはずだ。
と、シノが言ったら、
じゃあ書いたら君が読んでくれるの?
ということになった。
シノは個人的な日記のつもりで書いてみるよう奨めただけだったが、他人に見せる方が書く甲斐もあり張り合いも生まれるだろう…と承諾した。
ただし、ただ読むだけ。
基本的に添削したり感想文の感想を述べたりはしない。
交換日記ならぬ、交換感想をするつもりは無かった。
が、その代わり時間があったら意見交換をしようと言えば、サイはにこやかに了承した。
その笑顔が愛想笑いだったのか何なのかシノには判らなかったが、そんなわけで、シノがサイに本を貸し、それを読んだサイが
本とその感想文を持ってきてシノと意見を交換し、またシノが本を貸す…という、一風変わったサイクルの交友関係は始まったのである。
そしてその関係上、必然的にサイはシノの家を訪ねるようになり、シノもサイを家に上がらせるようになっていた。



Kind Youngster~親切青年~



「…………」
「…………」
部屋に流れる沈黙。
シノが感想文に目を通す間、サイも黙って待っている。
部屋の中心で男が二人、座布団に座って向かい合いながら互いに押し黙るという奇妙な瞬間。
シノの部屋は閑散としていて無駄な物が一切無いため、より一層の緊張感が生まれるも、そんな空間において当の本人達に緊張は無い。
ただどちらも無表情というだけだ。
そんな、物音一つしない中、感想文を読むシノをじっと見つめるサイ。
シノは家の中においてもその厚手の上着をしっかりと着用し、黒眼鏡も装着している。
しかしフードは下ろされていて額当てもしていないため、いつもよりは顔を窺うことができた。
とは言え感想文と言っても小さいノートの数行だ。
じっくり見る間もなくシノは早々に読み終えると、ノートを閉じてサイに返してきた。
「……で」
「ああ、えっと、今日はちょっと…相談したいことがあるんだ」
読み終えた後、「で、どうする。時間はあるのか」と決まった質問をしてくるシノ。
最近ではもう、「で」の一言に収縮されたその問いかけに、サイははたとして、ちょっとはにかみながら切り出した。
「何だ」
「明日は…その…ホワイトデー、だろう?」
「ああ」
サイの言う通り、明日はバレンタインデーと対をなすホワイトデー。
バレンタイン程浮き足立つ日ではないが、男達、そして男女間において地味に気色ばむイベントである。
「それで、サクラに何を返したらいいのか、ちょっと分からなくて…」
似顔絵とかも考えたんだけど…と言うサイに、肖像画はやめた方が良いと言うシノ。
「もっと普通に考えたらどうだ」
「前、普通に犬の絵をナルトにあげたら、どうしてかすごく怒られたんだ…」
サイが困ったようにそう言ったため、シノが言い直す。
「…そうではなく。普通にクッキーでも作って渡したらどうかと言っている」
「クッキーを……ボクが?」
「そうだ。市販の物を買っても良いが、手作りの方が…良いのだろう?」
シノの疑問系の言葉に、サイはふむと口に手を当ててから、うんと頷いた。
「できれば。でもお菓子なんて作ったことないし…。本を読めば作れないこともないと思うけど…」
「なら…」
躊躇するサイに、シノが言う。
「ウチで作って行けば良い」
道具も材料も、教本も揃っていると言うシノに、サイは目を見開いた。
「いいのかい?」
「ああ。問題無い。もともと俺もヒナタに作るつもりだったしな。まあ、お前にその時間があればだが…」
そうして始めの質問に帰ったシノが、どうだと言うように小首を傾げてサイの様子を窺ってくる。
(ああ、あの後ヒナタから無事にチョコもらえたんだ…)
そんなことを思いつつ、サイは思案するように少し視線を逸らしてから……微笑って答えた。
「じゃあ、お言葉に甘えて…お願いしようかな」


では台所の使用許可を取ってくる、と言って席を立ったシノを、一人部屋に残って待つ。
小さな本棚には虫と忍術の本が数冊並び、空いた場所には筆立てやメモ用紙が置かれていて、あとはその横に文机があるだけで生活感もほとんど無い。
本当に閑散としているその中で、静寂に包まれながらサイは部屋の様子を目に映し、シノから聞いた話を思い出していた。
布団や衣類は全て押入に収まっているそうで、本や忍具などは別に保管部屋があるらしい。
虫の標本くらいはあるかと思った…と言えば、そういう物も専用の別室にまとめて保管してあるのだそうだ。
ここは自分の部屋と言っても寝泊まりしたり一人で休息したい時に使うだけで、大抵は別の場所にある研究施設や書庫、あるいは屋外で過ごすのだと、シノは言った。
どうやら油女一族は、共同体としての在り方を尊重しているらしい。
個人で所有するより一個の物を皆で共有する。
そして個人の物を一所に集めて、管理する。
やっぱりちょっと変わった一族だな、とその話を聞いたサイは思ったものだ。
共有と言えば聞こえは良いが、要は無駄な重複を避けるためだろうし、個人的な所有を制限するシステムでもある。
皆の物は自分の物だが、自分の物も皆の物だ。
それに本や忍具など、本来なら個人で管理するものをわざわざまとめている所も厭らしい。
これは明らかに裏切り行為を規制せんがためのものだ。
しかしその事をサイがシノに告げると、シノはさらりと「ああ、そうだ」と言った。
そして「だがやましい所が無ければ何の支障も無い」と断言したのである。
「自分だけで占有し秘匿すれば邪な考えが浮かばないとも限らない。ならば人に見られ、知られても恥じることのないように
常に気を付けなければならない環境の方がマシだろう。

潔白ならば。

管理されようと監視されようと、何も厭う事は無い」
と。
そう言い切ったシノに、なるほどとサイは思った。
シノの堂々とした態度の所以は家庭環境にあったわけだ。
けれど…。
もしも人に言えない秘密を持ったとしても。
彼はきっと、堂々と、隠し通すに違いない。
「………サイ」
台所の使用許可を取り戻ってきたシノに、サイはにこやかな笑みを浮かべた顔を向けた。


「………サイ…」
そして台所に入り、丸椅子に腰掛けて本を覗きつつ分量の相談をすること数分。
シノは少し、呆れたような、困ったような声で言った。
「お前は一体いくつ作るつもりだ…?」
「え…? 30個だけど?」
その声にきょとんとしたサイが答えると、シノが微かに眉を顰める。
「サクラ以外にももらったのか」
「サクラだけだよ」
「それで何故30個だ」
「え…だってチョコレート10個貰ったから…。ホワイトデーはバレンタインの3倍返しが通例だって、ヤマト隊長に教えて貰ったんだけど」
違うのかい? と首を傾げるサイに、シノは否…と言いながらも息を吐いて告げた。
「確かにそういう俗説はある。だが何もそこまで律儀に3倍にしなくても良い。気持ちの問題だ」
「はぁ…気持ちの…」
そうは言うもののサイはいまいち解っていないようだ。
「気持ちを3倍にして返す…って、どうすれば良いんだい?」
「…………」
そうくると思った、とシノは眼鏡の内で目を瞑った。
そしてどうにかこうにか返答を捻り出す。
「……気持ちを数値として明確に示すことはできない。故にここで言う場合の気持ちの問題というのは、
相手から受け取った想いに対し、こちらからはそれ相当以上のお返しをしようという、心意気を示す…ということになる」
「……ココロイキ…」
その未知なる響きの言葉に、サイは心なしか目を輝かせたようだった。
「…そうだ。だから数も大事だが、それは気持ちあってこその数でなければならない。ただ数を3倍にしたり、値段を3倍にすれば良いというものでは無い」
いいな、と確認すれば解ったと頷くサイ。
若干。
サイを騙しているような心持ちになったシノだったが、何も嘘偽りを言っているわけではない。
そう割り切って、では、とシノは仕切り直し、クッキー作りの準備を再開したのだった。
ちなみにいのやテンテンなど他に義理チョコをくれそうなガールズは任務で居なかったため、もらっていない。
せっかくだからあげようかという案も出たには出たが、もらってもいないのに渡すのはかえって妙だと言うことで、結局二人は
形や焼き加減の失敗も考慮して、シノはヒナタに、サイはサクラにそれぞれ10~20個渡せるようにとおよそ40個作る算段を立ててクッキー作りに着手した。
サイは初めて、シノとて年に1,2度、必要になった時にちょっとやるぐらいで特別菓子作りを得意としているわけではなかったが、
どちらも器用で大抵の事はやればそこそこできるタイプだ。
よって本に記された通りの手順と方法でクッキー作りは淡々と順調に進められ、クッキーの生地は無事オーブンの中で焼かれる運びとなる。
円形に型取った生地をきっちり半分の20枚敷き詰めて、予熱しておいたオーブンに入れ焼き始めると、焼き上がるまで少し休憩…
と二人はオーブンの前に椅子を置き腰を下ろした。
「……うまく焼けるかな…」
「本に書かれている通りにやって、そうそう失敗はしない」
普通はな…という言葉は思うだけに留める。
本の通りにやっても上手くいかない人間が居るという事を、シノは知っていたからだ。
ナルトとか、ナルトとか、ナルトとかナルトとかナルトとか…。
アカデミー時代、本に書かれた通りにさえやれば誰にでもできるような術を、しかしナルトは結局授業中に成功させることができなかった。
何が原因か知らないが、恐らく菓子作りにおいてもナルトは失敗を繰り返すだろう。
だいぶ失礼ではあるが、素でそんな気がした。
そして「ナルト」で思い出し、シノはオーブンを覗き込んでいるサイに言う。
「サイ。一つ忠告しておく。これはナルトにはバレないように渡せ」
「え…?」
驚いたようにサイはシノを振り返った。
「何故なら、好きな相手がほかの男から物を貰って喜べば、嫉妬や反感を買うことになるからだ。今回貸した小説にも、そういう場面があっただろう」
「ああ…うん、そう言えば」 「ナルトがあれほど嫉妬深いとも思えないが、サクラの中でお前の株が上がるのを見て、いい気はしないはずだ。仲間内の隠し事は良くないが配慮は必要だろう」
「気持ちの問題…だね」
そう言ってにこりと笑ったサイは、しかしふと真顔に戻り、
「あ、でも…」
と言葉を濁らせる。
「……? 何だ」
「いや…それが…」
サイが告白したのは、依然、ナルトには内緒で、という任務があったのにその直前ナルトに出会し、誤魔化し切れずバレてましった…という話だった。
三尾事件の応援任務だよと言えば、関わっていたシノはすぐにああ、と得心する。
「本で『人は嘘を吐くとき目を逸らす』って読んだから、逆にまっすぐナルトの目を見て言ったんだけど…どうして上手くいかなかったのかな」
悩むように口元に手を当てたサイを見つめながら、シノもふむと考え、
「……どんな風にやったのだ」
と尋ねた。
「え…どんな風って?」
「どんな風に目を逸らさないようにした」
「ああ…えっと、こんな風に…」
サイはナルトにしたのと同じようにカッと目を見開き、ぐっと身を乗り出す。
しかしシノはナルトのようには身を引かないため、危うく顔がぶつかりそうになったところでサイは寸止めた。
そしてその至近距離のまま、話を続行する。
「…こうやって、『別に新しい任務なんか入っていない』って言ったんだ」
「…………そうか」
くっつきそうな程近づいたサイの顔に、こちらもこちらで怯むことなく顔を突き合わせたまま応えるシノ。
「…確かにこれは、お前には向かない方法だ」
「僕には…向かない…?」
「ああ…普段はしない、不自然なことをすれば怪しまれる。それは当然だ。そしてこの誤魔化し方法はお前には不自然。
それにそもそもこのやり方は『ウソを吐いて誤魔化す』と言うより、『相手にそれ以上の追求を許さない』と言う牽制に使う手だ」
「けんせい…」
「そうだ。もしこの手を使うなら、相手に怪しむ隙も与えず押し切れ。それが無理なら…」
「無理なら…?」
ごくりとサイのノドが鳴る。そしてその真剣な目を映した黒眼鏡の奥の目で、こちらも極めて真剣な眼差しをサイにひたと向けて、
「笑って誤魔化せ」
シノは言った。
「笑って…?」
「そうだ。いつものように笑って、何でも無いと言う顔をしろ。何故なら笑顔にも色々と種類があり、相手に対し自分は何も隠していない、何の問題も無いと示す手段にもなるからだ」
「……なるほど、笑って誤魔化すか…」
サイはようやくシノから離れると感心したように呟き、両手を頬に添えてムニムニと揉みだした。
「その方が、お前には自然だろう」
「…うん、確かにそうかもな」
シノの言葉に、手を離してにこりと微笑むサイ。
「でもそれじゃあシノは、どっちかと言うと牽制タイプなんだね」
「ん…? ああ…俺が笑っても不自然だからな。逆に怪しまれるだけだろう」
「と言うか、君、笑うことあるの?」
「…それはあ…………」
シノが不自然に言葉を切る。
ブゥン、という微かな羽音がしたかと思うと、シノは椅子から立ち上がった。
「すまないが来客だ」
「ああ、うん」
そう言ってシノが台所から出て行くと、残されたサイは押し黙り、室内にはオーブンの稼動音だけが心持ち大きくなって流れ続ける。
そして焼き終えたのか、チンッと鳴った。
シノはまだ戻って来ない。
サイは取り出して良いのか判らず、ちょっと台所から外を覗いてみた。
台所の場所は玄関からさほど遠くはないので、様子を見に行ってみるかと向かうサイ。
だがふと笑い声が聞こえてきて、足を止めた。
任務でもないのに気配を殺して柱の陰から様子を窺えば、玄関で立ち話をしているシノと、もう一人。
ブロンドの長い髪を後ろで束ねた、見知っているようないないような、中年男性。
記憶を手繰(たぐ)れば、個人的な面識は無かったが情報だけは持っていた。
山中一族、山中いのの父親、いのいち。
会話の内容からどうやらシノに本を持って来たらしい。
恋愛小説に詳しい知人と言うのはこの人だったのか、と思ったサイだったが、次にいのいちが差し出した物を見て思考が一時停止した。
バレンタインに――ありがとう――一日早いけど――明日から仕事で―――。
聞こえてくる言葉から察するに、どうやらバレンタインのお返しらしい。
デレデレと言っても過言ではない嬉しそうな笑みを満面に浮かべてシノの頭を撫でるいのいちに、シノは少々困ったような表情を浮かべながらも満更ではなさそうだ。

「  」

サイは、何故か急に息苦しくなったことに、僅か動揺した。
原因不明の呼吸障害。更には脈拍上昇。
その場に居たくない衝動に駆られて、急いで台所へと取って返す。
そしてその数分後にシノが戻ってきた時、サイはぼんやりとオーブンの窓に映り込んだ自分の影を見つめていた。
「…どうした」
シノの声にはたとして、一瞬驚いたように目を瞠ったサイは、けれどすぐにシノの方を向くとニコリと笑みを浮かべて言った。
「…何でもないよ」


そうこうして第二段も無事焼き上がり、包装も終えたのはもう陽も暮れる頃。
シノが用意してくれた紙袋にサイがクッキーの箱を丁寧に入れていると、シノはもう一つ、差し出してきた。
「次の本だ」
一瞬ドキリとしたサイだったが、それは、先ほど山中いのいちから受け取っていた本ではなかった。
そうと知ってほっとしたサイは、だがはたと不思議に思う。
いったい自分は何にドキリとして、何にほっとしたのだろう…?
「……どうした」
「あ…ああ、いや。ありがとう」
訝しげなシノの声に、にこっと笑って本を受け取る。
なるほど笑顔は誤魔化すのに便利なようだ。
「……今回のは画家が主人公だから、お前ももう少し楽しめるのではないか」
まだ少し訝しげではあるがシノは深く追及せず、そう言って空五倍子(うつぶし)色のブックカバーも渡してくる。
本にカバーをかけろと言うのはシノからの指示で、何故かと問えばできるだけお前との関係は内密にしたい…のだそうだ。
こそこそする必要は無いが無闇に皆にバラすなとサイは言い聞かせられ、重ねて何故かと尋ねたら、「いいから約束しろ」と脅され約束させられた。
今思えば、あれがサイの失敗した誤魔化し方法の成功例だったのだろう。しかしそうなると、シノは一体何を誤魔化そうとしたのだろうか…
とサイは思ったが、想像力不足のせいか解らなかった。
「へぇ…画家か」
そんなことを思いながらカバーに包む前の表紙絵を眺める。
キャンバスをイメージしてなのか、水彩的な淡い色合いの黄色や桃色、青や緑などの長方形がそれぞれ絶妙なバランスで配置されていて、その中に主人公と思われる人影が描かれている。
数冊、恋愛に関する物語を読んだサイの感想は『多彩』。
恐らくシノの采配(さいはい)だろうが、淡い初恋物語からドロドロの愛憎劇まで、貸される物は偏らず今のところ同じようなものが無い。
人が変われば恋愛事情も変わり、事情が変われば人生も変わる。
面白いかはさておき、興味深いとは思う。
色々…とはよく言ったもの。本当に話によって様々な色が見えてくるようで、小説というのは文章なのに絵に近いのだな、と思うようになった。
そしてその特色をどの本の表紙絵もよく表している、とも。
「お前は、色は使わないのか」
表紙絵を眺めていたサイに、シノが唐突に言った。
「え?」
「墨以外で絵は描かないのか」
「ああ…」
そう言うことかとサイは息を吐き本にブックカバーを付けると、シノに向かって答える。
「たまには、描くよ。風景とか…抽象画とか」
「……そうか…」
「何か?」
「…いや、俺は虫や植物のスケッチくらいしかしないから芸術はよく解らないが、絵を描くならば感受性はあるのではないかと」
「僕に?」
「ああ。無意識に、ありそうだ」
ただの勘だが…とシノは言ったが、それだけでもサイは何だかくすぐったい気持ちになりはにかんだ。
多分、これは嬉しいという感情なのだろう――と思う。
確かに最近、喜びや悲しみ、怒りや楽しい……といった感情と思しき感覚がちょっとずつ分かるようになってきた。
それは温かかったり冷たかったり、苦しかったり高揚(こうよう)したり。
浮き沈みや揺れ動きを繰り返して煮え切らなくなる事もある。
きっと、良い事ばかりではないのだろう。
けれど。

「ありがとう」

悪い事ではない気がする。

「そうだシノ」
犬でも似顔絵でもダメならば。
「寄壊虫、描いてあげるよ」
「……寄壊虫を…?」
突然の申し出にシノは驚いたようだ。
最近シノの感情がなんとなく分かるようになってきたのも、ちょっとした進歩だろうか。
そう思ったサイだったが、不意にあ…と思い至る。
寄壊虫と言えば油女一族が誇る秘伝中の秘伝だ。
それを、絵を描くためとはいえ他人―しかも元暗部―に観察させるというのは如何なものなのだろうか。
少し心配になれたサイは、しかしブゥンと聞こえてきた羽音に目を瞠った。
「…………どこに留める」

(…………良いんだ…)

意外と乗り気なシノを見て、呆気に取られるサイ。
けれどその嬉しそうな空気に、思わず笑みが零れる。
ならばとシノの部屋に場所を移して蟲を文机に留めてもらえば、蟲はシノの命令に従い全く動かなくなった。
「虫眼鏡は要るか」
「ああ…うん」
口調も態度も普段と変わらず静かで尊大だが、どうやら本当に嬉しいらしい。
見た目や表情ではなく。
気配が。
窓辺に腰を下し沈黙したシノをサイは目で追い、くすりと笑った。
この感覚は、多分、面白い――のだろう。
サイは微笑みながら筆を取り、墨汁を取り出して。
義理堅く感謝の心を込めて、シノの蟲を描き始めた。
本当に心などというものが込められるのか知らないが。
それは気持ちの問題。
心意気、である。
楽しい――と思う。
蟲は本当に微塵も身じろがず、サイがどんなに覗き込もうが観察しようがじっとしていてまるで作り物のようだ。
感情も無く。
ただ忠実に、命令に従い任務を遂行しようとしている。
――ように見えるが。
「………………シノ…」
原寸大では小さすぎるので大きく、巻物の用紙に蟲の絵をピタリと収めると、サイは再びシノに目を向けた。
シノは変わらぬ姿勢でこちらを見つめていたようだが、名を呼ばれると僅かに首を動かしてサイと視線を合わせる。
「この蟲、僕のことどう思ってるのかな」
蟲が思う事などあるのか知らない。
けれど、油女一族が蟲と対話すると言うのなら。
「  」
シノが口を開いたのが分かった。

「カッコよくて、好みのオトコだと」

サイはその返答に、目を丸くした。

「この蟲、メスなんだ…」



               *



油女シビが帰宅すると、玄関先で見知らぬ青年と出会わした。
髪や瞳の黒とは対照的に肌の白さが目立つ、シノと同年代と思われる青年。
「あ…どうも」
頭を下げて挨拶されたためシビも無言のまま微かに頭を下げて返す。
態度や物腰は柔らかく人当たりの良さそうな感じだが、シビはその中にそこはかとない違和感を覚えた。
どうやらただの若者ではないらしい。
が、曲者であることは感じ取ったもののそのまま擦れ違い、何事も無かったように敷居を跨いで中に入る。
忍の里にタダ者でない者は普通に居るし、家から出て来たということは家人の―年頃から察するに恐らくシノの―知り合いなのだろう。
蟲の餌食にならず家から無事出てきた時点で問題は無い、と思っての事だったのだが、戸を閉めたと同時に聞こえてきた何かが暴れるような物音にシビは瞬時に動いていた。
先ほど出て行った青年を蟲に追わせると共に物音のした部屋へと直行する。
「…どうした」
シノの部屋の襖を開け厳しいながらも焦りの無い声をかけたシビは、しかしその光景を見て再び一瞬の内に警戒を解く。
そして高い襟の中で音もなく一息吐き、眉の顰め方を微妙に変えて、息子に尋ねた。
「…………新しい友だちか」
「………ああ…」
実体化したサイの墨絵巨大寄壊虫に懐かれ、押し倒され、じゃれつかれていたシノが、眉間の皺を目一杯に深めて答える。

「……悪い奴では無い、のだがな…」



「シノ、喜んでくれたかな」



シビの命でサイを追った蟲は、純粋な笑顔を浮かべるその姿を目に焼き付けて、主の下へと帰還したのであった。






――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

あとがき
サイシノ、続バレンタインのホワイトデー噺でした!
またまたアニメネタを使ってしまって申し訳ない。
でも原作(特に2部)はほとんど読んでいないので、サイについてはアニメで学んでおりまして…。
それで以前やっていた「自分の画をナルトにプレゼント」したオマケから、サイの画力で寄壊虫を描いてもらいたいな~って。
でもって実体化したらシノにベッタベタに懐くんだvvv

サイシノは、どうやらサイ→シノで無意識無自覚に嫉妬したりする傾向にあるようで。
一風変わった面白い組み合わせではありますが、奇妙に馴染む二人組。
シカとシノとか、ネジとシノとか、空気の近い人達ともまたちょっと違った感じで、やっぱり面白いですね(笑)
裏絵を描いたりしてみたからかな。
このところ、サイシノも徐々に発展できるような気がしてきました。
が、暫くはこういった感じの地味な友好を書けたらいいですw

ちなみに余談ですが、『小説というのは文章なのに絵に近いのだな…』と
サイには思ってもらいましたが、私的には絵よりも音楽に近い気がして書いております。
句読点(くとうてん)や間でリズム(調子)を調節して。言葉遊びも好きなので韻を踏んでみたり。そして語感(言葉の響き)は音程
…って言いながら、長年のピアノ教室も空しく、おたまじゃくしよく分からないのですが(笑)
また空五倍子(うつぶし)色というのは大体このページ背景の色合いで、
虫こぶ[空洞の五倍子(ふし)]のタンニンと褐色の液体[鉄漿(かね)]で布や糸を染めるとできる色……だ、そうです。喪服や、お歯黒に用いられた色。
虫という字に惹かれ、またシノの色(鶯色)とサイの色(墨色)を掛け合わせたような色だなと思ったので取り入れてみました。。

色は地味で暗いですが、どうか皆様は明るく、ハッピーなホワイトデーとなりますように!!












(10/3/14)