Chocolate piece
「あ~、チョコ食いてぇ~」
畳に寝転がったまま、キバは呻いた。
そして頭を反らし、逆さまにこの部屋の主を見て、再び言った。
「なぁ~、チョコ…!」
逆さになった部屋の主は、キバの視線の先で胡座を掻いたまま微動だにしない。
向けられた背中の向こうで、ただ、ペラ、と書物のページが捲られただけだ。
それでも諦めずに、キバはもう幾度目になるかもわからない催促を続けた。
「なあ、シノ、チョコ…」
「チョコチョコうるさい」
と、漸く、キバのアプローチに、部屋の主であるシノが反応を示した。
仰向けになったキバを振り返り、反り返ったキバの顔を迷惑そうな顔で見下ろす。
「そんなにヴァレンタインのチョコが欲しければ、家に帰ったらどうだ。お前に好意を抱いた者が、お前に渡すために訪ねているかもしれないぞ」
「だから、そういうんじゃねぇんだって……」
「そうでなければ何なのだ。俺の部屋にいる限りチョコレートはもらえない。なぜなら、用意する者がいないからだ。お前の言動は矛盾している」
「わかってねぇなぁ……」
ホント、全然わかってねぇよ、とキバは訝しむシノを見つめる。
キバの非難の眼差しに、シノが眉を寄せた。
キバは、今日がバレンタインだからこそわざわざシノを訪ねてきたのだ。その目的は、勿論シノのチョコをもらうこと。
もう、義理ですらなくても良いから、とにかくキバはシノからチョコをもらいたかった。
もし誰かに呼び出されていたり、或いは一緒に過ごす相手がいるかもしれないという不吉な考えが頭を過ぎりはしたが、
そんなことがありませんようにと切に願いながら来てみれば、シノは家に居た。それも、バレンタインがどこ吹く風、チョコがどうした、といった感じで。
シノが一人で居てくれたことは嬉しかったが、茶菓子にでもチョコが出てきたりはしないかという期待は裏切られ、がっかりした。
出された和菓子は文句なく美味かったのだが、それでもやっぱりキバはチョコが欲しかったのだ。
そこで、キバはプライドをかなぐり捨てて「チョコが食いたい」と言った。だがしかし、シノの返答は「茶にチョコは合わない」という、よくわからない信念だった。
「俺が、何をわかっていないと言うんだ」
不機嫌な声。キバの視線の先ではシノが眉間に皺を寄せ、不服そうにキバを睨んでいた。
キバは、そんなシノを睨み返した。
何で、コイツなんだろう、とキバは思う。
特に好き、というわけではない。だた、コイツは――シノは――自分と一緒にいるべきだと思うし、シノにとっての特別は自分だけでいいんだと思う。
シノが他の誰かにチョコをもらったりあげたりするのは気に食わない。
だから、一度はキバ自身がシノにチョコを渡してやろうかとも考えたのだ。俺にとってお前が特別なんだと知らしめるだめに。
でも。
「……何にも、だよ」
でも、それでこの気持ちを悟られて、困らせたくはなかった。更に、気まずくなって顔を合わせ難くなるのも厭だった。
しかし気付いても欲しい。気付いて、他の誰かに目を向けにくくしてやりたい。
嫌われても、自分の存在がどこまでもシノにつきまとうなら、それでもいいと思えてしまう。
そんな自分が嫌になって、キバは目を閉じて溜め息を吐いた。
「なあ、シノ。お前さ、バレンタインにチョコもらったことあるか?」
俺と同じ気持ちをお前に向けた、巫山戯た奴はいるのか?
「コイツからチョコもらいたいとか……」
お前にこんな気持ちを抱かせる憎い奴は?
「お前の……」
お前の特別はいったい――――誰だ?
もしいるなら――――。
この俺が引き裂いてやる。
シノの動く気配がした。ベタっと寝そべった畳を伝って、足を擦る音が伝わってくる。
そして不意に匂いがした。甘い、焦がれるほど魅惑的な香り……。
目を開けると、シノが覗き込んでいた。そして香の元は、鼻の先にあった。
手作りチョコの元となるであろう、板チョコレート。
「非常食用だ。これをやるから、大人しくしていろ」
シノが言った。キバは、シノが何か誤魔化そうとしているように感じた。
非常食ということは、さっきのキバの言動が非常事態だとでも言うのだろうか。
シノにとって、バレンタインチョコの私的な話は、聞かれたくないことだったのだろうか。
もしそうなら―――俺は。
「お前は」
「ん?」
「あるのか。誰かから、チョコをもらいたいと思ったことが」
キバが鼻先に吊された餌に食い付かないでいると、シノが訊いてきた。
なんで――。
キバは動揺した。
何でそんなこと訊くんだよ。気に…なるのか? 気にして…くれんのかな。
――いや。いや、そんなはずは…ない。ない。きっと、ただ、何となくだろう。
期待すんな、バカ。
キバは泣きたくなりそうなのを堪えて、シノを見つめ、鼻先にある板チョコにそっと手を伸ばした。
「ああ…あるよ」
「どうしても欲しくて、そいつの家に押し掛けて、」
「チョコ食いてぇって駄々捏ねて」
「そしたら―――しかたなく、くれて」
板チョコの赤い包装紙の向こうに覗く、シノを見つめる。
シノは、表情を変えなかった。
なんでだよ。
気付いただろ? お前なら。
わかっただろ? お前のことだって。
なのになんで……?
「そうか…。良かったな」
そう言うと、離れていってしまう。
キバは、空中でチョコを受け取った姿勢のまま、固まっていた。
なんだか酷く虚しくて。
虚しくて。
不意に、怒りが込み上げた。
パキッと音がした。チョコを握った手に力が入りすぎて、せっかくの板チョコが割れてしまったようだ。
包み紙が破れ、割れ目を無視して不規則に割れたチョコレートの破片がぼろぼろと降ってきた。
その欠片が一つ、唇に落ちる。口を少し開け、中に入れればとろりととろけた。
チョコレートのカケラは、慰めるように、キバの心に溶けていった。
(09/2/14)