※初邂逅のお話です。




月下美人


月影の支配下におかれた世界。
水のせせらぎと風のそよめきが静寂に還り、影絵のような木々がざわりと畦る。
対岸の乾いた土壌に根を下ろす月下美人が、今宵花開いた様で、月を仰ぐ白い頭と風に乗ってやって来る強い芳香が彩りを添えている。
「誰…?」
背後に気配を感じて、僅かに首を回したサイは、ひらりと眼前に現れた青白いものに目を瞠った。
蝶…とも思えたが、違う。蛾だ。それも、10センチ近い巨大な蛾。
月下にその大きな翅を広げて優雅にひらひらと舞う姿は、蛾といえど見惚れるほど優美である。
「………アテナだ」
一瞬その蛾に目を奪われていたサイは、不意にかけられた低く静かな声に、再び振り返る。
そこには、フードを目深に被り夜にも関わらずサングラスを付けている如何にも怪しい風体の人物が立っていて、眉を顰めた。
闇夜といえど、月明かりに互いの姿ははっきりと浮かび上がっている。
サイは河の浅瀬にある大きな岩に腰掛けており、河原に立つその人物とは5メートルほどの距離があるのだが、警戒を怠ることなくこっそりと筆を手にした。
その反面、顔には愛想笑いを浮かべて、気さくな調子で話しかける。
「ごめん。聞こえなかったな。何だって?」
「………アテナだ……」
「…………?」
だが、相手の云わんとする事がいまいちよく解らず、笑顔のまま小首を傾げた。
その様子から察したのか、再びその謎の人物が言う。
「…………誰、と…」
「ああ…名前……」
サイは、漸く、相手が自分の「誰」という問い掛けに答えていたのだと気が付いた。
「こんなところへ、何しに来たんだい?」
「………散歩だ。寒くなってきたからな」
「…………」
寒くなってきたから散歩をする…というのは、些か奇妙な話である。
涼しくなってきたならまだ解るが、現に今は涼しいというより初秋の肌寒い気候だ。
家庭では衣替えや暖房器具の発掘が行われて外出は控える様になる時期だと、事典に書いてあったのを、サイは覚えていた。
「寒いのに、散歩を?」
「ああ」
疑念を抱きながらも軽い調子で探りを入れるサイだったが、相手に惑う様子は一切なく、頷いて見せるだけ。
どうも話が噛み合わない相手だと察して、サイは切り込み方を変える事にした。
「あれ、蛾だよね。君、知ってるかい?」
そう、いまだに月下を飛び回っている大きな蛾を指差しながら問うと、その人物は何故か不思議そうに首を傾げたが、きちんとサイの質問に答えを返してきた。
「オオミズアオだ。ヤママユガ科。別名月の女神。今は月明かりで青白く見えるが、実際は薄翠色をしている。人畜無害で、性格は人懐こい。」
「…………もしかして、君のペット…?」
あまりの詳しさに、サイは言った。だが、その人物は首をゆっくりと横に振って、静かに訂正する。
「ペットではない。同居虫だ」
「……………」
どこまでも話が平行線のような気がして、サイはもういいかと肩から力を抜いた。どうも、調子が狂う。
いつもは自分の方が相手の調子を狂わせるそうで(自分としては、調子を合わせているつもりなのだが)、狂わせられるのは初めてかもしれない。
『お前といると調子が狂うってばよ』と言っていた人の気持ちが、今なんとなく解った気がした。
「………絵を、描いているのか」
音もなく石を渡ってサイの腰掛ける岩の、左隣にある平たい石までやってくると、今度はその人物がサイに問いかけた。
サイの座る岩とは違い、その人物の足下の石はぎりぎり両足を置ける程度の面積なので、 その人物は直立不動の姿勢で両手を上着のポケットに突っ込んだまま立っているのである。
しかし、視線の高さは頭二つ分程サイの方が高い。
「………まあね……」
敵意は窺えないが、言動や見た目は矢張り怪しいため、サイは気を配りながらも幾分砕けて答えた。
「今は、描くよりも題名を付ける練習をしているんだけど」
「………題名…?」
「僕は、題名を付けるのが苦手でね」
そう言いながら、サイが微笑ってみせると、その人物は暫くしげしげとサイを眺めてから、意外な返答を返してきた。
「奇妙な事を言う奴だな」
と。
「君に言われたくないな」
そう、にこにことしながらサイが即答したのも、無理はなかった。
蛾を同居虫などと称す輩に、奇妙などとは言われたくない。
更に、何を思ったか突然「手を出してみろ」と催促するのだから、奇妙なことこの上無い。
「…………」
一瞬、どうするか躊躇ったサイであったが、ここで問答しても結局は同じことになりそうなので、黙って手を空に伸ばしてみた。
すると、今まで河川の上を遊泳していた美しい蛾が、ひらひらと誘われるかの如くサイの手の方へとやって来て、 人懐こい性格というのは本当らしい。ふわっとサイの手の甲に留まった。
「………其奴の…」
不意に口を開いた人物に、目を向ける。
「アテナと言う名は、親父が付けた。俺も名を付けるような事は得意ではないが、親父曰く、大切なのは愛情だそうだ」
「………愛情…?」
愛想笑いの欠片も無い人物が語るにしては、随分色違いな言葉である。
そして、自分にとっても縁遠い言葉だ。
「はは、愛情か…。それは、大事だろうけど。ぼくには、よく解らないからなぁ……」
サイは微笑って言ってから、ふと口を噤んだ。
いつの間にかペースに乗せられて、こんな得体の知れない輩に余計な事まで口を滑らせてしまったと、少し反省する。
しかし、次の思いがけない応答に、反省など吹き飛んでしまった。
「では、これから解っていけば良い」
そう、言ったのだ。

これから……。

なんと簡単なことだろう。
しかし、サイには驚くべき言葉だった。

これから……。



それまで大人しかった蛾が突然ふわりと羽ばたいて、その人物の方へと飛んでいく。
見れば、サイの元に居た時とは全く違う翅の動きで、何かを強請る様に人物の周りを浮遊していた。
「…………」
そんな蛾の意思を汲んだかのように人物は一つ頷くと、サイを見遣って告げた。
「すまないが、俺は失礼する」
そう簡潔に告げた人物は、来た時と同じように音もなく河原へと戻り、単調な足取りで去っていく。
あまりに潔くあっさりとした別れであった。


「…………」
はたと我に返ったサイは、全てが夢幻だったかのような心持ちに瞬きをし頭を掻いて、きっとこれが狐に抓まれた様というのだろうと、自身の状況を解釈した。
そしてふと、そう言えばアテナって蛾の名前だったのかと今更気が付く。
「誰」と問うたのだから、当然人の名前…即ち彼の名だと思い込んでいたのだが、勘違いだったらしい。
では、彼は一体何者だったのか。


月夜に現れた奇妙な人物。
月の女神の名を持つ蛾を連れて。


そんな時。
そよいだ風に、立ち込めていた芳香が揺らぎ、白い頭が銀色に光った。
「月下美人……」
そうだ、彼のあだ名…。
よしこれだと、着想を得たサイが勇んでスケッチブックのページを捲る。
真っ新な白紙が、月影に光を帯びた。




夜の散歩を終え家に帰りついたシノは、しんと静まり返った庭に、オオミズアオのアテナを放した。
「…………楽しかったか…?」
冬になれば寿命が訪れる儚い命。
そろそろ身動きも取れなくなるからと、最後の思い出作りのために出掛けた散歩だった。
ひらひらと森の闇へと溶けていく後ろ姿を見送りながら、それにしても、とシノは思う。
出会した彼の人は、何故アテナを指して「知っているか」等と訊いてきたのか。
自分はきちんとアテナの名を最初に告げていたのに。
「…………奇妙な奴だったな……」
仰いだ空には、厳粛に輝きを放つ月が、ぽっかりと浮かんでいた。





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あとがき
はい! の秋企画第6弾は…なんとサイシノ! というか、サイとシノ!
時期的には、ナルト達と知り合ってから8班と顔を合わせる前です。
……で。なぜ唐突にサイが出てきたかと言いますと、
要は今回のテーマ『芸術の秋』を考えた時に出てきたのが、サイと暁の芸術コンビだったんです。
しかしいくら何でもデイダラやサソリと絡めるのは至難の業なので(笑)まだ幾分絡めやすいサイとなったワケです。
なのですが……。
サイはいまいちまだよくキャラが掴めておりませんで……。別人でもお許し下さいっ(;;)
サイとシノは、感情表現乏しいあたり似ているので、独特のテンポと距離感で付き合いそうだなと(友人として)

原作では対面シーンとか、サイと8班の絡み少ないみたいなので、アニメに期待しております。
8班メンバーには、なんてあだ名付けるんだろうなぁ……。あまり変なのじゃなきゃいいけど…。

ちなみに蛇足として。
オオミズアオという蛾は実在致します。
インターネットで軽く調べただけなのですが、ヤママユガ科で月の女神という別名があるのは多分事実かと…。
同種にはオナガミズアオというのも居るらしく、写真などを見たところ、本当に美しいです!
でも、デカイようです。幼虫も、成虫も。掌サイズ…。
月下美人も大きい花で、とても綺麗な様です。花言葉は儚い美、儚い恋、繊細、快楽。
全てはネット検索の賜物。とても有り難い世の中になりました…。。












(07/12/11)