ヒナタノハナ
冷たい風の中、不意に一筋の温かな風を感じ、シノは足を止めた。
見上げれば、桃の花が幾つか開きかけている。
春も近いなと無表情の下で感慨深げに思ってから、ふと気が付いた。
そう言えば、今日は桃の節句。
雛祭りだ。
これから向かう家の娘二人を思い浮かべ、シノは再び開きかけの花を見上げた。
「シノ!」
そんな時に、背に掛けられた声。
振り向くと、淡い色のポニーテールを揺らすはつらつとした少女が、いつもの如く、怠そうなのと食欲の塊を引き連れている。
「あんたもこれからヒナタんち行くんでしょ。なら、一緒に行きましょ」
シノに追いついたいのが幾分か背の高いシノの顔を見上げ、濃いサングラスの奥を覗き込むようにして言った。
しかしシノは、覗き込んでもいのには見えなかった目を一度二度瞬かせ、なぜ自分がヒナタの家へ向かっている途中であることがわかったのか、
そしてなぜいのたちがヒナタの家へ行くのか、わけがわからず、僅かに首を傾げた。
日向家の厳かな門戸では、ヒナタ、ハナビ、サクラ、テンテンが集まっていた。
そしてその脇にはナルトとネジが突っ立っている。
「ご‥ごめんね。キバくん、お家の手伝いがあるって。シノくんとは、連絡つかなくて‥」
申し訳なさそうにするヒナタに、テンテンとサクラが笑顔で言った。
「いいのいいの! 私だってネジを現地調達しただけだし」
「わたしだって、ナルトしか連れて来れなかったしね」
会話の内容は、詰まるところ雛祭りの手伝い要員である。
リーはガイと共に任務に出ており、サスケはにべも無く断られたのだ。
テンテンの台詞に現地調達されたネジが眉をひそめ、サスケくんを連れてきたかったのにな~とぼやくサクラに、ナルトが「そりゃねえってばよ!」云々喚いた。
次の瞬間には、サクラの拳骨によってできた大きなコブを抱えて悶絶することになるが。
「それにしても、いのの奴おっそいわね~」
「シカマルくん口説くのに苦労してるんじゃない?」
まだ来ていないのはいのだけだ。サクラが門の外を見やりながら言うと、テンテンが笑った。
確かに。面倒くさがって渋っている様子が目に浮かぶ。
「ただ待ってても時間の無駄だし。準備始めちゃおっか」
「それも、そうね」
テンテンの提案にサクラは頷き、ヒナタとハナビも一度顔を見合わせてから同時に頷いた。
「というわけで。じゃ、お願いね」
「ナルト君、ネジ兄さん、お願いします‥‥」
「お願いします」
日向家の広い敷地内でも数少ない、優美で洗練された庭を一望出来る「橘の間」へと場所を移した女の子達。
その後に続いたナルトとネジは、その場での雛壇の用意が課せられた。
テンテンはにっこりあっさりお願いという風呂敷に包まれた命令を残し、ヒナタとハナビは一礼を残して去っていく。
そしてサクラは「ナルト!壊したら弁償だからね!!」とピンポイントに釘を刺してから部屋を後にした。
広い部屋にぽつんと残されたナルトとネジは、暫し少女達の出て行った障子戸を見つめたまま立ち尽くしたが、ふと我に返りゆっくりと振り返った。
「‥‥これ、全部雛人形?」
「‥‥そうだ」
日向家が所有する雛壇は豪華だ。
豪華故に、膨大だ。
「俺達二人だけで飾んのか?」
「いのがシカマルやチョウジを連れてくるまではな」
頬をひくつかせながらやりたくないオーラを醸し出すナルトに、冷静ではあるがやはりどこかげんなりした様子のネジが答える。
どちらからともなく、溜め息が漏れた。
ナルトとネジが大量の雛人形の箱に囲まれて途方に暮れている間、女の子達は台所で蛤の吸い物や巻き寿司等の準備を始めていた。
折角なので雛あられも手作りしようと決め、本と睨み合っているのはサクラ。
テンテンは巻き寿司の具を切り出し、ヒナタとハナビは母に漬けておいてもらった浅漬けを取り出している。
ちなみに菱餅と甘酒(ノンアルコール)だけは市販のものを買ってきた。
「でも、ヒナタちゃんの家でやれて良かったよね~」
かんぴょうを用意しながらテンテンが言うと、サクラもヒナタ、ハナビも顔を上げた。
この、雛祭りを企画したのはサクラといの。
どうせならみんなでわいわいやりたいと盛り上がっていたところへヒナタが通りかかり、三人で話をしたところ
立派な雛壇もあることだし日向家でやるのはどうかという話になったのだ。
後から誘われたテンテンは、厳格な日向と楽しい雛祭りがどうにも合致せず、はじめ冗談かと思ったが。
「うちは二人とも娘だから、雛祭りだけは毎年ちゃんとやってるの」
「はい。それに、昔から、子供の成長を祝い願う行事はきっちりやっていたと聞きます」
ね、ハナビ?とヒナタが恥ずかしそうに言いハナビを見ると、ハナビは頷きしっかりした口調で応えた。
「そっか。だから立派な雛壇があるんだ」
サクラがいいな~とこぼす。
「私もちゃんとしたのが欲しかったわ。ウチにあるの、全部揃ってるけどちっちゃいの」
「え~いいじゃない。ウチなんかお雛様とお内裏様だけよ!」
「「‥‥‥‥‥‥ま、だけど‥」」
サクラとテンテンがそれぞれの家の雛壇に文句を言い合った後、少し間を空けて言葉が重なる。
びっくりしたようにお互い顔を見合わせ、くすりと笑った。
「それはそれで、愛着あるのよね」
「そうそう。ちっちゃいころ汚した顔なんか見ると、ね」
くすくす笑い合う二人を微笑みながら見つめるのはヒナタ。
ああ、今年の雛祭りはみんなで過ごせて良かったな、と心の底から嬉しく思い、自然と気持ちが春のように和む。
だが、「そう言えば」と振り返ったテンテンにやんわりとした微笑みをはっと崩した。
「ナルトに、褒めてもらえるといいわね」
にやりと、テンテンの不敵に笑みに、ヒナタは一瞬何のことか分からなかったがすぐに思い当たり、ぱっと顔を赤らめる。
「姉上?」
ハナビがそんなヒナタを不思議そうに見上げたので、ヒナタは慌てて頭を振った。
「な、なんでもないの! なんでも!! ほ、ほ、ほら、ハナビ。お皿、用意しよ!」
「??」
あわあわと挙動不審になるヒナタと、益々不思議そうなハナビ。
そんな姉妹を、特にヒナタの慌てっぷりを、今度はサクラとテンテンが微笑ましげに見守っていたが、ヒナタに気付く由もなかった。
しばらく経っていの達が到着した時、雛壇の飾り付け作業があまり進んでいなかったのは、いた仕方あるまい。
「やっと来た!! 遅いってばよ! 二人で大変だったんだぞ!?」
「うるせーな。大変になるほど進んでねーじゃねーか」
いのに連れてこられたシカマルとチョウジにナルトが文句を言うと、それに対してシカマルは容赦なく言い放ち、
チョウジはすっかり雛祭りの料理に意識が向いているようで周りの一切が耳に入っていない。
どうやら、いのに食べ物でつられた模様。
そしてネジは、いのの隣に佇むシノを認めて少し驚いた風な表情を浮かべた。
「……シノ。なぜお前が居る? 確か、ヒナタ様は連絡が取れなかったと言っていたが…」
ネジの言葉に、シカマルに絡んでいたナルトもシノの存在にやっと気付く。と、いのが「ああ」と笑った。
「途中で会ったから誘ったの。ま、もともとここに来る途中だったみたいだけど」
いのの答えに更に口を開きかけたネジだったが、「そんなことより!」という声に阻まれた。
「雛壇の飾り付け、全然進んで無いじゃない! ナルト!! いい? 昼までには終わらせてよね!」
「な、なんで俺だけ‥!」
ひでぇ!と非難するナルトの声を無視し、言うだけ言うと、いのはさっさと行ってしまう。
「仕方ねぇ。さっさと片付けちまおうぜ」
不満を露わにするナルトの肩をぽんぽん叩きながらシカマルは言い、チョウジも食うために「やるぞ~!」と気合いを入れた。
シノもスタスタと箱の山に近寄り、その後にしぶしぶナルトも続く。
皆の流れが雛壇に向きタイミングを失ったネジは開きかけた口を閉じ、シノが何の用事でここに向かっていたのかという謎を飲み込んだ。
そして未だ開けていない箱の山を改めて見上げ、深く、息を吐いた。
*
太陽が昇り切り、傾き始めた頃。
思いの外皆真面目に取り組んだので作業はほぼ終わっていた。
そんな時、しげしげと完成間近の雛壇を見上げて、ナルトが不敵な笑みを浮かべた。
「なあなあ」
「あ? なんだよ」
にししと笑いながら、ナルトは振り向いたシカマルに雛壇を指しながら言った。
「これ、俺等当てはめたら、誰がどれになると思う?」
「はあ?」
「やっぱ、ヒナって言うから、雛人形はヒナタだよな!」
シカマルは一瞬意味が分からなかったが、ナルトの科白を聞くと、何を言わんとしているのかすぐ理解した。
「お前…よくんなくだらねーこと思いつくよな」
「なんだと!」
「え~。でも、おもしろそうじゃない?」
話を聞いていたチョウジが、のんびりと会話に加わってくる。
「そうなると、お内裏様はナルトかネジだよね?」
「まあ‥そうなるか。ネジの方が見栄え良いけどな」
「「‥‥俺?」」
名指しされた二人が、同時にきょとんとする。
「三人官女は残りの女子として‥‥五人囃子は俺らか」
きょとんとする二人を無視し、意外に乗り気で話を進めるシカマル。
「シカマルと僕と、シノとキバと、サスケ」
「内裏をナルトにすりゃ、右大臣と左大臣はリーとネジだな」
「ちょ、ちょっと待て!」
淡々と話に決着が付きそうになった時、漸くネジが声を上げた。
「どう考えても、左大臣はお前だろう。シカマル!」
左大臣‥つまり爺さんである。
「そうだよな! 爺さん役はシカマル以外にいないってばよ!」
「ぁあ!?」
「そうなると、右大臣はぼく? 五人囃子はキバ、シノ、ネジ、リー、サスケ。か、ネジをお内裏様にしてキバ、シノ、ナルト、サスケ、リーになるね」
等々。話はどんどん膨れていく。
右大臣左大臣にキバとシノを置いてみたり、お雛様をサクラやいのやテンテンにした場合など様々な案が出た。
そんな話で盛り上がる面々を眺めながら、シノは少し別のことを思案していた。
大体の組合せを出し尽くし話に区切りが付きそうになった頃、シノはよくやく口を開いた。
「一つ、聞きたいことがあるのだが」
「ん?」
と、四人が同時にシノを見る。
「五段目の仕丁にカカシ先生、アスマ先生、ガイ先生を当てはめるとして。紅先生は?」
「‥‥‥‥」
瞬間。
誰もが動きをとめた。
暫しの、沈黙。
四段目までしか考えていなかったため、一人あぶれることに誰も気付いていなかったのだ。
しんと静まり返った部屋の中でその立派さと豪華さにより大いに存在感を放つ雛人形達が、
さあどうするどうする、とせっついてくる様に感じられる。
ガタッ!
微妙な沈黙の中、障子戸が勢いよく開かれた。
わけもなくビクッとして振り返ったシカマル、チョウジ、ナルト、ネジ。
「ん? どしたの?」
こちらもビックリ顔でいのが目を瞬かせた。
「な、なんでもねぇ‥」
シカマルが引きつった表情で応えると、そう?と訝しげな顔をしたが、すぐにぱっと輝かせ、
「そんなことより!!どお!?」と言って、モデルのように身を翻す。
その時になって、男子達ははじめていのが綺麗な着物に着替えていることに気が付いた。
否、いのだけではない。その後ろにはサクラもテンテンもヒナタもハナビもいて、皆が皆着替えていた。
いのの着物は、橙に黄色のマリーゴールドが描かれているもの。
サクラのは、名前に合わせたのであろう、赤地に桜が舞っている。
ヒナタのは、黄色にスミレ模様。ハナビは桃色に白の水玉。
そしてテンテンのは、薄紫地にジャスミンの白い花が描かれている。
色取り取りで艶やか華やか。一瞬にして花園と化した眼前に、男達はただただ目を奪われた。
「ちょっと、黙ってないでなんとかいいなさいよ!」
「そうよ。女の子が着飾ってるのに、似合ってるの一言もないわけ?」
いつまで経っても呆然と突っ立っているだけの男子達に、いのが頬を膨らまし、テンテンが腰に手を当てて文句を言う。
その声にはっと我に戻り、慌てて褒めたのは、ネジとナルトだ。
「に、似合ってる‥‥!」
「す、すっげー可愛いってばよ!!」
それに遅れて、チョウジがにっこりと微笑んで言い、シノも頷く。
「うん。みんなすごく綺麗」
「うむ」
「……まあ。一部馬子にも衣装だけど…」
最後に余計な事を言ったシカマルは、いのとサクラに拳固を喰らった。
それからナルトがサクラを褒めちぎったり、ナルトに可愛いと言われてヒナタが気を失いそうになったり、色々あったが。
雛祭りの形は整い、チョウジが待ちに待った雛祭り特性の膳も用意され、甘酒も振る舞われて、賑やかな宴が始まったのであった。
宴もたけなわになり、チョウジ以外は食事も終わりそれぞれ会話を始めたり雛壇を眺めたりし始めた頃、一人席を立ったのはシノ。
障子戸を僅かに開けてすっとすり抜け部屋を出て行く。
外に出ると、面した庭の見事さに改めて目を留めた。
一見すると自然のままのようだが、手入れは行き届いているし、ごちゃごちゃしておらずかといって殺風景でもない。
岩の配置も完璧で、正に空間の美だ。
植物については今はまだ寒さが残っているので咲き始めて間もない桜の花だけが唯一だが、時期が経てば四季折々に変幻していくことだろう。
この庭を手掛けた庭師は、随分な腕と美的センスの持ち主のようだ。
「シノくん? どうしたの?」
庭師の力量に感心していると、ふと横から声を掛けられる。
僅かに顔を向けると、先程チョウジのおかわりを持ってくるために部屋を出たヒナタとハナビが、佇むシノに不思議そうな視線を送っていた。
「ヒナタ。今、ヒアシ様がどこにいらっしゃるかわかるか?」
「父上‥‥?」
体ごと二人に向き直り、シノが唐突に尋ねたものだから、ハナビは勿論ヒナタもきょとんとする。
そんな二人にこくんと頷きそうだと無言の内に告げると、シノはポケットに手を突っ込んだいつもの体勢で沈黙した。
その沈黙が、答えを待っているのだと気付いたのはおよそ10秒後。
はっとしたヒナタが慌ててハナビを振り返り知ってる?と問うと、その声にハナビもはっとして答えた。
「ち…父上なら、椿の間にいると思いますが」
「椿の間……?」
「あ。こ、ここの突き当たりを左に行って、廊下の二つ目の角を曲がったところにある大きな部屋‥なんだけど‥‥わかる、かな‥」
「‥‥‥ああ。わかった。ありがとう」
シノはそう言うと、ハナビとヒナタに軽く頭を下げ、宴が催されている部屋の戸に手を掛けて開けた。
しかし、シノは動かない。
入らないのかな、とヒナタが思っていると、微かに向けられた視線を感じ、お盆で両手が塞がった自分達のために開けてくれたのだと漸く気付いた。
「あ! ありがとう」
慌ててハナビを促して部屋へとおかわりを運び込む。
二人が部屋に入り無事料理が置かれると、戸は再び音もなく閉められた。
その向こうでシノの気配がしなくなったことに気付き、ヒナタとハナビは顔を見合わせ、父上に何の用だろう、と首を傾げる。
そんなやりとりを聞いていたのは、戸のすぐ傍に座していたネジだけだった。
聞かぬフリをしていたが、しっかりと聞いていた。
いの特製蛤のお吸物を音も立てず行儀良く食道に送り、その熱にほうっと息を吐いてから、ちらりと後ろの障子戸の方を見やる。
何事もなかったかの様に閉ざされた戸の向こうを見据え、僅かに、眉をひそめた。
*
部屋の戸を閉めると、シノは真っ直ぐ椿の間へと向かった。
シノが日向家へ向かっていたのは、もともと、雛祭りのためでもヒナタに用があったわけでもなく、日向家当主、日向ヒアシに用事があったからだ。
シノ個人の用事ではなく、父親に用事を頼まれただけだが。
ヒナタの案内通りに廊下を進み辿り着いたそこは、障子ではなく襖で仕切られていた。
襖に椿の絵が描かれているためここだろうと思いながらも少々自信がなかったが、中に居る人の気配に間違いない、と一人納得する。
気配を消すどころか逆に存在を誇示するかの如く放っているのは、用のない者を近付かせないためであり、用のある者に知らせるためであろう。
父親から預かってきた物をポケットの中で確かめて、シノは襖の前で膝を付き頭を下げた。
「油女シノです。頼まれていた物を預かって参りました」
「…入れ」
「失礼致します」
唐突な訪問ではあったが、あちらもあちらで当然シノの気配に気付いていたので、一間置いたがすぐに許可された。
襖を静かに引き開け、シノが中に入って戸のすぐ傍に正座すると、ヒアシは徐に本から顔を上げた。
その前には盤が置かれ白と黒の碁石が並んでいる。どうやら、囲碁の再演中だったらしい。本も、おそらくそれ関係だろう。
「……油女の当主はまた遠征任務か」
「はい。なので代わりに渡してくるよう、頼まれました」
「そうか。御苦労」
ヒアシが頷くのを合図に、シノは一度立ち上がり間合いを詰めて膝を折る。
ポケットから掌サイズの桐の箱を取り出し、ヒアシの手の届く位置に置くとすっとヒアシの方へ押し出した。
「それから、これは親父からです」
そう言って、その横に手紙を添え、すぐに元の位置に引っ込む。
ヒアシはその手紙を手に取り、広げて一瞥すると、ぴくりと眉を動かした。
シノが内心で何だと思っていると、ヒアシはふと目を閉じ、手紙を折り畳んで元の位置へ。
「…………相変わらず食えん奴だ……」
ぼそりと、零された呟き。
一体親父は何を書いたんだ。と心の中で思いつつも、表面は相変わらずの無表情を貫きシノはヒアシの様子を真っ直ぐ見据えていた。
何か言われるかと思ったが、その予想は外れ、ヒアシは手紙の件に触れることなく話題を変えてきた。
「そう言えば、お前は囲碁をやるのだったな」
「……はい。多少」
「彼奴はやり方も知らないからな。今度、どうだ」
彼奴というのは、シノの父親のことだろう。
仲が良いという話は聞いたことがないが、趣味の話を多少交わす程度の仲ではあるらしい。
「ヒアシ様の都合が良ろしければ、是非」
シノは背筋を伸ばしヒアシを見据えたまま、小さく頷き答えた。
日向の当主と囲碁を打つなど考えたことも無かったが、相手が望むなら断る理由はない。
「うむ。では、御苦労だった。そちらの当主に宜しく伝えてくれ」
「はい」
再び、今度はより深く頷く。それから両の手を畳に付いて頭を下げた。
「失礼致しました」
シノは、部屋を後にし宴会の場へ戻る途中、ぼんやりと思った。
矢張り、変わった、と。
正直なところ、シノのヒアシに対しての印象は良くなかった。
なにせ、チームメイトのヒナタに対する態度があれだ。良い印象を持つはずがない。
日向家の事情は耳にしていたし、日向という、うちはに次ぐ名門で血系限界を受け継ぐ家の当主ともなれば
その辛労は察して余りあるということも知っていた。
それでも矢張り、気に入らないものは気に入らない。
他家の自分がとやかく言えることではないが、虫の特性を生かすことから派生した、個々の特性を尊ぶべしとする油女の考え
と意を異にする、一己の人格を全否定する様な仕打ちは許し難かった。
それでも。
最近は随分穏やかになったと思う。
宗家と分家のいざこざも修復傾向にあるようだし、ヒナタに対しても、以前程辛く当たらなくなったようだ。少しだが。
どんなに突っ張っても矢張り父親。娘の努力を、誰よりも見ているはずだ。
修行相手の自分やキバ、そしてそれを見守る紅とも、違った目で見ているのだろう。
日向ネジに対しても‥‥。
その名に思い至った丁度その時。計ったようにその名の主が現れた。
庭に面した廊下を曲がったところ、シノがしていたように庭を眺め、腕を組んで佇んでいる。
シノはヒナタが「どうしたの?」と問うた訳が分かった気がしたが、自らは問わなかった。
逆に、正面を向いたままのネジに問われる。
「ヒアシ様に、何の用だったんだ?」
「……親父に頼まれた物を渡しただけだ」
シノが答えると、ネジはシノの方に顔を向けた。
「何を……?」
「中身は俺も知らん。だが、どうやらヒアシ様が親父に頼んでいた物らしい」
「ヒアシ様が?」
「油女一族は遠征任務が多いからな。ヒアシ様に限らず、色々頼まれることが多い」
「そうなのか」
「ああ」
そこでネジはそうか…と呟いて再び庭に目を向ける。つられてシノも庭を見、暫くの沈黙が舞い降りた。
さわさわと風が吹き、草木が揺れ、敷き詰められた白砂がさらりと波打つ。
「この庭…良いと思うか」
不意に、ネジが口を開いた。視線を移すことなく、シノは答える。
「ああ、良い庭だ」
「どこが良い?」
「…………画一的でなく、変わるところだ」
再び会話が途切れたが、一間置いて今度はシノから問うた。
「お前は、どう思う」
その問いにネジは暫く黙ったままだったが、小鳥が一羽、庭の陽当たりの良いところにやってきたのを機に徐に口を開いた。
「昔……。庭師に、この庭の名を聞いた」
「………」
ネジが名を言おうとした時、当にその時、二人は騒がしい気配がこちらに向かって来ることに気が付いた。
消し去ることもできるはずなのにわざわざ音を立ててやって来るその気配の正体に心当たりがあり、ネジは思わず眉間に皺を寄せる。
「よっす! シノ!」
「キバ」
シノの後ろから走り込んできたキバは、シノの姿を捕らえると、遠慮無く思い切りシノに抱き付いた。
「キバ。お前、家の手伝いは…?」
「思ったより早く終わった。んだから、すっ飛んできた」
眉間に皺を刻んだままネジが聞くと、キバはシノの後ろからひょっこり顔を覗かせてにっと爽やかな笑顔で答えた。
ネジがその答えに密かに溜め息を吐く間に、キバはシノの手を引っ張り「甘酒甘酒!」と言って喜々として宴の席へ乱入していく。
キバに引っ張られるまま後に続いたシノだったが、一瞬敷居のところで踏み止まりネジを振り返った。
「それで、名は‥‥?」
唐突に戻された話に、返答が僅か遅れた。それでも、自分で好きな名だけあって、ネジは反射的に告げられた。
「そうか」
満足そうに頷くシノ。そして、口元を綻ばせる。
傍目からではその微笑は高い襟に隠れて見えなかったが、雰囲気が和んだことはネジにもわかった。
「良い名だ」
そう告げると、キバにぐいと引かれ、シノは「はいはい…」とでも言うように部屋の奥へと戻っていった。
一人、縁側に残ったネジは、少し火照った顔を庭に向けて未だ冷たい風に晒す。
組んだ腕をわけもなく組み替え、思わず日向ぼっこしたくなる様な光に満ちた庭とそこで戯れる小鳥を見つめた。
「ちょっと、ネジ! あなたも部屋入りなさいよ!」
「つーか、戸閉めたいんだけど。さみーから」
呼ばれて振り返ると、キバとシノが入った後開けっ放しだったらしい戸口にテンテンが立ち、
その後ろでシカマルが座ったまま少し体を傾けこちらを向いているのが目に入る。
「あ、ああ‥」
自分を見ている二人。
聞こえてくる賑やかな声。
今日は楽しい雛祭り。
自然と気持ちが和み、穏やかになる。
「ああ。今行く」
そよそよと戦ぐ風に後ろ髪を引かれながら、ネジは方向転換をし、庭に背を向けた。
皆が居る部屋に入り、後ろ手に障子戸をぱたんと閉める。
その音と同時に、戯れていた小鳥が、太陽目掛けて飛び上がった。
変わらぬ様で、風も砂も、草も木も、影も光も、刻々と変化する。
「良い名」と褒められたその名は、『日向の華』という―――。
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あとがき
雛祭り企画です。
あれこれ詰め込んだ結果、随分長くなりました。
ネジシノ気味なキバシノで。
ネジは、シカマルの次にシノと気が合いそうですね。
それから、何だかんだ言ってネジとヒナタは似た雰囲気があると思います。
シノとヒアシ様は、囲碁つながりで。
節分企画の続きと見てもらってもかまいません。
でも実は、「テンテンに現地調達されたネジ」を書きたかっただけだったり…(笑)
紅先生に次いで、テンテン、強いです。
では。良い雛祭り日和になりますように。
(07/3/3)