君が髪を掻き上げる。風呂上がりの体に衣を纏い、その肢体を隠していく。
その一挙一動を、キバは黙って見続けていた。
オ メ デ ト ウ
「なあ…ちょと、早いんじゃねぇ?」
キバが漸く声を掛けたのは、シノがすっかり着衣を身に付け、後はサングラスだけという姿になってからだった。
早々と準備万端整ってしまいそうなシノに、キバはシノのサングラスを玩びながら不服そうに言う。
「集合時間は7時なんだろ? まだ6時前じゃねぇか。集合場所にはウチからなら10分もあれば着くんだし、もうちょっとゆっくりしてったって…」
「一度帰宅し、用意しなければならないものがある」
「それだって30分もかからねぇ」
「時間には余裕を持って行動すべきだ」
「だから、余裕持ちすぎだっつってんだろ」
キバの座るソファーへ戻ってきてサングラスを取り返そうとするシノに、キバはひょいとその黒い宝物を遠ざけ、子どものように抵抗した。
「おい、返せ」
「やなこった」
んべ、と舌を出す様は、本当に子供のようだ。
「だってお前、今日は一緒に居られるって言ってたじゃねぇか」
「だから……急な任務を命じられたのだ。何度も説明した」
「説明っつったって、『任務だ』しか聞いてねぇよ。それで『はいそうですか』じゃ、浮気し放題だろうが」
「…………」
シノはキバの駄々と屁理屈に、ちょっと困ったような、呆れたような、そんな顔をして眉を寄せた。
いつもは任務と言えばそうかと了解するキバが、今日はやたらと食い下がり、浮気話まで持ち出してくる始末。
今日がいつもと違って特別な日かといえば……まあ、特別な日では、あるのだが。
「約束を守れない事に関しては、すまないと思っている」
シノはそう言いながら、ふて腐れたキバの横に腰を下ろした。
明日は1月23日。自分の誕生日だ。だから、今夜は絶対に一緒に居ろと、キバに何度も約束させられていた。
シノとてその約束を破りたかったわけではないし、できれば一緒に居たいと思っている。
しかし、任務は何よりも優先すべきことだ。それは、キバも重々解っているはずなのに…。
「………誕生日ってよ…」
暫く押し黙っていたキバが、やはりシノのサングラスを弄りながら口を開いた。シノの方は向かずに、まるでサングラスに話し掛けるように語り出す。
「すっげー特別な日だと思うんだよ」
「………」
「3日前、実家で小犬が生まれてよ、立ち合ったんだ。犬の出産なんて、ガキの頃から何度も見てるのに、
何度見ても、やっぱすげぇって思う。生まれるって、すげぇことなんだ」
「………ああ」
それは、シノもよく知っている。
虫の産卵は、数匹、あるいはたった一つの生命体を誕生させるのに命懸けの犬や人などとは違う。
表情のない虫に産みの苦しみは見て取れないし、産卵だってあっと言う間に済んでしまう。しかし、それでも、
厳選された産卵場所や、生命を守るため環境に適応した様々な卵の形態。そしてその卵に凝縮された生命を
育むための驚くべき機能からは、虫達にとって卵が如何に大事な物であるかが判る。
そして、食物連鎖の中、下位に当たる虫達が生き抜く事は、犬や人などより遥かに難しいのだ。
生まれる事も、そして生きることも、それだけで偉業であると言って過言ではない。
「………偶に、障害もって生まれてくる奴も居て、生まれて、すぐ死んじまう奴もいる。
でも、すぐに死にそうだった奴が、がんばって、一歳になって、二歳になって」
サングラスを弄るキバの手が止まる。
日没の時刻が大分遅くなってきたとはいえ、6時を過ぎた外は既に暗く、夜となっていた。
「だから……誕生日におめでとうって言うのは、きっと、死ななかった、偉ぇぞ、凄ぇぞ、良かったなって、
喜ぶからなんだろうって思う。誕生日プレゼントは、がんばって生きてきたことへのご褒美だ」
だから……とキバは一度言葉を切ると、サングラスを握る指先に、きゅっと力を込めた。
「だから、今夜は丹精込めて祝ってやろうと思ってたのに……」
再びキバの口調が不満そうな色合いを帯びたのを感じ、シノもきゅっと眉間の皺を深めた。
だが、むすっと唇を突き出してサングラスを睨み付けているキバを見て、自分がサングラスを取り返そうとしていたことを思い出してしまう。
そして、時間のことも。
シノが時計を見ると、時刻は既に6時20分。
「キバ。お前の話に付き合ってやりたいのはやまやまだが、どうやら時間切れだ。俺は行く。眼鏡を寄越せ」
ぱっと立ち上がるとそう捲し立ててきたシノに、キバは顔を上げて目を丸くした。
何か言う間もなく手の中の黒い宝物は奪われ、隣に座っていた祝う相手はそれを身に付けると身を翻し、部屋から出ていこうとする。
「ちょ…っ、待て!」
「キバ、悪いが…」
キバの制止を振り解こうとするシノの手を、キバは掴むと、そのまま強引に引き寄せ何か言おうとするシノの口を塞いだ。
声を奪われたシノが、大人しくなる。
キバがそっと離れても、シノは大人しくしていた。
任務前、清めの儀式のように風呂に入っていくシノからは、生まれたてのような温かさと匂いがする。
掴んだ手は柔らかく、キバは、生まれたての小犬の感触を思い出した。
「帰ってきたら、ちゃんとしたご褒美やるから。絶対……帰って来いよ」
「…………ああ」
「ちゃんと俺に、お前の誕生日祝わせろよ」
「……ああ」
「オメデトウって、言わせろよ」
「ああ」
「約束だからな」
「ああ」
その返事にキバは掴んでいたシノの手もそっと離し、そして、ニカッと明るい笑顔を任務へ向かうシノに手向けた。
お前が生きていることを 誰よりも俺が喜んでやるから
だから 誰よりも 心を込めて言ってやる
シノ、オメデトウ。 って
(09/1/23)