空を見上げる。
青と白のコントラストが眩しく、シカマルは目を細めた。
蝉が鳴き急ぎ、太陽がその熱を焼き付ける。
見事なまでに――――夏だった。


青白のアスター


「あれ、シカマル?」
後ろから聞こえてきた声に振り向けば、山中いのが驚いたような表情で立っていた。
手にしたジョウロに、山中花店の店先だということを加味すれば、家の手伝いをしている事は考えるまでも無い。
長い髪を綺麗に結い、エプロンをしているチームメイトの姿を見て、シカマルはふと、いのは花屋の看板娘としてもけっこう人気が高いらしい
―――という話を思い出した。忍として、技も心も女も磨いてきたいのだ。中忍となり、まあ色々と成長もしている。
女の魅力など殆ど解らないシカマルでさえ、いのは美人の部類だろうと思う程だ。
とは言え、シカマルにとっては女である以上に親しい仲間だ。意識する必要も無ければ、気負う事も無い。
「珍しいわね、あんたが買い物?」
「おう」
いのが驚いたのは、シカマルがスーパーの袋を提げている事に対してだったらしい。
そんなに珍しいか? と思いながら、シカマルは野菜やら魚肉やらの詰まった袋をちょっと持ち直した。
確かに今思えば、買い物のお使いに出された事はあまり無かったかもしれない。
そう言えば昔、少し遠いところにある店で安い特売品を買ってくるよう言われたのに、面倒臭くて近場で済ませ、母に酷く叱られた…なんて事があった。
恐らく、それで母は買い物を頼まなくなったのだろう。
だがこれは、母のお使いではない。
「今日、シノが帰ってくんだ。だからちょっと、晩飯の用意」
一週間と数日、任務で里を離れていたシノから『今晩帰る』と蟲の報せが届いたのは、事務仕事をしている時だった。
積まれた書類に辟易している所へ飛んで来た、シノの蟲。
思わず顔が綻んでしまったのは、不覚ではあったが仕方ない。素直に、嬉しいと思ったのだ。
いのはシカマルの返答を聞くと、ああ、と納得したように言った。
すると何を思い付いたか、突然にぃっと口の端を上げる。
「な…何だよ…」
「良い事思い付いたわ。ちょっと待ってて」
にんまり顔をにこにこ顔に変え、いのが軽やかに店の中へ戻って行く。
明らかに、何事か企んでいる。
そう直感したシカマルは、逃げるなら今と踵を返そうとした。が。
「シカマル。逃げたら『シカマルに無理矢理キスされた』って、パパとシノに泣き付いてやるからね」
行動を読まれていたらしく、背後からブスリと釘を刺されてしまった。それも、極めて質の悪い釘だ。
ビタッ、と動きを止め、恐る恐るいのを振り向けば、にこやかな笑顔がシカマルを見据えていた。
シカマルは、溜め息と共に肩を落とした。
シカマルの諦めを見取ったいのが、「じゃ、待ってなさいよ」とも一度釘を打ち付けてから、店の中へと姿を消す。
一体何を企んでいるのか。
そんな不安が過ぎると共に、それにしてもさっきの釘は、現実味が無いようで有りすぎて怖かったなと、シカマルは改めて鳥肌が立つのを感じた。
『花屋の人気看板娘』情報をシカマルに与えたのはシノであり、その情報源はいのの父、いのいちだ。
いのいちの子煩悩ぶりは、それはそれは凄まじい。溺愛とは正にこの事だ! という可愛がり様であり、
彼氏の一人や二人簡単に作れるであろういのに男の影が無いのは、多分いのいちの所為だろうとシカマルは思っている。
シノにしても、特別な感情は無いにせよ、いのの事は好きらしい。
いのが美人だと言ったのはシノで、シカマルがそう思うようになったのも元はシノの影響だし、シノはあれで案外フェミニストなのだ。
表立っては表さないが、一種の女性崇拝的な所があると、シカマルは踏んでいる。
しかし本人は全く自覚していないものだから、女性に対する美辞麗句や気遣いを、無意識に天然で発動させたりするのだ。
「……まあ逆を言えば、意識的にできねぇんだろうな」
シカマルはそう呟いて、以前いのがシノの事を「通り魔だ」と言っていたことを思い起こす。
何もなければ素通りか、ただ怪しくて気味が悪いで終わるが、天然の、裏腹の無い優しさに当たった女は否応なく落ちる。そんな様な事を言っていた。
シカマルは、それはいのの偏見だと思ったし、今でも思う。
そんな事を言ったら、四六時中シノと一緒にいるヒナタは、もう何度もその優しさに当たっているはずで、シノの事を好きになっているはずだ。
まあ、好きにはなっているだろうが……落ちてはいないだろう。そもそもいの自身、そういうシノを知っていながら落ちていないのだ。
それに、シノの通り魔的な女性に対する敬愛は、優しさとは違う気がしてならない。
シノの中には、多分「女性にはこうすべき」というのがあって、時と場合によってそれが出てくるだけなのだと思う。
優しさというより、もっと義務的なものではないだろうか。そして多分、義務だからこそ確固としているのだ。
『シカマル…。いのに無理矢理キスをしたというのは本当か。事実ならば、俺はお前を軽蔑する。何故なら、それはしてはいけない事だからだ』
いのの味方に付いたシノが、想像の中で言い放つ。
ただの想像。しかもキスが事実でない事は解っているのに、そうきっぱり言われてしまうと……。
「ヘコむ」
はあ、と溜め息を吐いて頭を押さえる。スーパーの袋が、重みを増した気がした。
「何、どうしたの?」
「あ~……否…何でもねぇ」
店の中から出てきたいのが不思議そうに声を掛けてきたので、シカマルは気を取り戻すように首を振って頭を上げる。
視界に戻ってきたいのは、白い花を手にしていた。
キクに似ているようだが、少し違う。
「………それは?」
訝しげな顔をして問えば、いのは
「アスターよ」
と答えた。
「アスター?」
「いいから、持ってきなさい! シノが見れば解るから!」
いのはそう言ってシカマルにその花を持たせると、シカマルの両肩を掴んだ。
そしてグイッと方向転換させ、バンッと背中を叩く。
「うおっ!」
その勢いに、シカマルは思わず前のめりになって蹌踉けた。
「……っ、カネは?」
「いいわよ。今日は奢ってあげる」
睨むような目つきで振り向けば、いのは満面の笑みを浮かべている。
………怪しい。
シカマルはそう思って、持たされた花を見た。白い、やはりキクのような花だ。
「おい、これの花言葉は?」
変な花言葉の花を持たせてシノを怒らせる算段なのでは…と疑って、シカマルが問うと、いのはその考えを見透かしたらしく声を上げて笑った。
「大丈夫よっ! そんな変なのじゃないから!! それにシノは、花言葉で怒ったりしないでしょ!」
いのの言葉に、それはそうだと、シカマルも思う。
シノは意外と花言葉を知っているが、それはそれ。知識として知っているだけで、何という花言葉だからと言ってどうと言う奴ではない。
この炎天下で、そろそろ袋の中の野菜も心配だ。
シカマルは花を見て、笑顔のいのをもう一度見てから、一つ、溜め息を落とす。
落とした視線の先には、自身の真っ黒な影が、くっきりと映し出されていた。


              *


コトコトと煮立ってきた鍋の火を止めて、小皿に取り出し味を見る。
料理は、上手くもなければ拙くもなく。取り敢えず食えれば良い、というのがシカマルの信条であり、それはシノも同じだった。
仕事優先、家事は臨機応変に…というスタンスでシノと同棲を始めて久しく。
シノは、普段からしっかりしていながらも、家事はあまりやらない事が分かった。
と言うか、することはするが、必要最低限の事しかしないのである。
昔から細々と忙しなく家事をこなす母親の姿を見てきたシカマルにとっては、それがどうも物足りなく感じてしまい、結局自分がやってしまって、
今ではシカマルが家事担当のようになってしまっている。
シノがサボっていると言うより、シカマルがやり過ぎているのだ。
「シカマルって、そう言うところお母さん似だよね」
その話をした時の、チョウジの感想である。
信じたくはないが、臨機応変の結果こうなった以上、母の世話焼き性を受け継いでしまった事は、残念ながらまず間違いないだろう。
味見を終えて皿を置き、シュウシュウと音を立て始めた薬缶の火を止める。
不意に羽音が聞こえたような気がして台所の小窓に目を遣れば、網戸の外はもう真っ暗で、
明かりに寄ってきた虫が数匹、網に引っ付いているのがシカマルの目に入った。
その時。
玄関の方で、戸の開く音がした。

「よお、お帰り」

「ただいま」の声も無く、玄関に腰を下ろして靴を脱いでいるその背中に声を掛ければ、サングラスと高い襟に隠れた顔が振り返る。
そして、「ああ」という、懐かしい声が返ってきた。
「『お帰り』っつったら、『ただいま』だろ」
「………ただいま」
シカマルの注意に促され、シノが漸くちゃんとした返事を返す。
靴を脱いで立ち上がったシノは、多少薄汚れてはいるものの異常は見当たらず、容姿も、態度も、相変わらずだ。
そんな事は当然で、一週間かそこらで変わるはずも無いのだが、その事が何故か酷く嬉しくて、安堵する。
「……何だ」
思わず零れた笑みに、シノが訝しげに眉間の皺を深めた。
「ああ、否。何でもねぇ」
そんな仕草に、やっぱりシノだと、シカマルは笑みを深める。
しかしすぐに収めると、
「今飯作ってるから、先に風呂入ってこいよ。もう沸いてる」
と親指で風呂場の方を指し示した。
うむと頷くシノ。だがその前にと、シカマルの腕を取った。
「ん?」
「生きているな」
「見りゃ判るだろ」
「俺の居ぬ間に、戦闘を伴う任務はあったか」
「ああ、ちょっと」
「怪我は」
「してねぇ」
「……浮気は?」
「するわけねーだろ」
シカマルは苦笑を浮かべた。
死ぬな。怪我するな。浮気するな。
出掛けにシノが刺していった釘は、今でもちゃんと刺さっている。
「無事に出迎えたんだ。褒美、くれよな」
苦笑をニヤリとした不敵な笑みに変えて見せれば、シノはシカマルの腕を解放した。
「後でな」
何事も無かったかのようにそう言って、指示された通り風呂場へ向かおうとするシノに、「っと、その前に」と、今度はシカマルがシノを引き留めた。
「お前の方こそ、怪我してねぇだろうな」
「していない」
「そうか。じゃ、良い」
それだけ聞くとシカマルはシノを放したが、すぐには行かせない。
「洗濯物は洗濯機に入れないで、ちゃんと籠に入れろよ。白いのと色物は分けること。泥とか汚れてんのは袋だぞ。別に洗うから」
「ああ」
「寝間着は俺が用意しとくから、寝室にその格好で入んなよ。布団とか汚れたらメンドクセェ」
「解っている」
「それから、久々の風呂なんだから、最低10分は出てくんな。入浴は体に良いっていのが言ってた。
時間の無駄とか言ってカップラーメンもできねぇ内に出てきたら、飯食わせねぇからな」
シノはこの忠告にはすぐに返事をせず、少し黙ってから、徐に口を開いた。
「………6分ではダメか」
何気に時間をまけさせようとしてきたシノに、シカマルはキッパリと言った。
「カップ麺2個分でもダメ」


              *


数分後。
晩御飯の用意をほぼ終えたシカマルは、適当な花瓶を出してきて、バケツの水に浸けていたアスターの花を移しに掛かった。
夜を感知したのか花弁を閉じてしまっているが、道中、夏の暑さに無くした元気は、多少取り戻せたようだ。
明日の朝には、元気に花咲いてくれることだろう。
アスターを花瓶に挿すと、シカマルはそれをテーブルの真ん中に置いた。
食卓の真ん中に花なんて置いても邪魔なだけだ、と昔は思っていたのだが、今は何も無いと少し寂しい。
なので、偶にいのに押し付けられたり買わせられたりした花は、こうして飾る事にしていた。
これで残るは、シノと、ご飯が炊き上がるのを待つばかりだ。
そう思い、炊飯器の様子を見に台所へ戻り表示を見れば、あと1分と出ている。
シノが風呂場に行った時は、あと15分と表示されていた。
風呂場に時計など無いが、シノには時間が分かるらしいので、衣類の脱着などに掛かる時間を合わせてみても、そろそろ出てくる頃だろう。
どうして正確な時間が分かるのか、訊いた事は無いが、蟲は体内時計にもなるのだろうとシカマルは勝手に納得していた。
表示が0になり、炊飯器が鳴って、ご飯が炊けたと報せてくる。
それとほぼ同時に戸が開き、シノが入ってきた。
「ジャスト、カップ麺5個分だな」
「………長かった」
シカマルがからかうように言えば、シノはボソリと感想を漏らした。
慣れない長風呂に少しのぼせたのか、肌がいつもより赤みを帯びているように見える。
「……大丈夫か?」
「少し熱いが、問題無い」
シカマルがちょっと心配になって訊けば、シノはそう言いながらテーブルに置かれた水のグラスを手に取り、飲み干した。
そして、ソファーに腰掛けると、シカマルが置いていた中忍服を枕にして横になる。
「おい、ホントに大丈夫か?」
シノの様子に、シカマルは茶碗に炊きたてのご飯を盛るのを止めた。
「のぼせたか?」
「……………」
覗き込んで声を掛けるが、返事がない。
表情を読み取ろうにも、目を覆うサングラスが邪魔をしてよく判らない。
シカマルは取り敢えず、熱を測るのと撫でるのを兼ねてシノの額に手を置き、垂れてきていた前髪を上げてやった。
「多分、のぼせたんだろ。今なんか冷やすの持ってくっから、ちょっと待って…」
「……シカマル」
離そうとしたシカマルの手を、シノが突然掴んだ。
「ん?」
シノは、シカマルの手を支えにしてゆっくりと上体を起こすと、覗き込むシカマルの顔をじっと見つめた。
「な…何だよ…」
見つめられたシカマルの顔が、仄かに熱くなる。
久しぶりに間近で見るシノは、やっぱりどこか作り物じみていながらも、微かに差した赤みのせいか、いつもより生々しく感じられる。
風呂上がりの熱と、汗ばんだ躰。石鹸の良い匂いが、うっすらと薫った。
高まる鼓動を何とか静めながら、しかしこれは誘っているのだろうと解釈して、シカマルはシノを見つめ返しながらできるだけ冷静を装いつつ、口付けようとした。
が。
どうやらシノにその気は無く、シカマルの勘違いだったらしい。
キスをしようとしたシカマルの前に、シノがまるで盾の如く突き付けてきたのは、枕代わりにしていたシカマルの中忍服だった。
「シカマル…これは何だ」
地を這うような低い声で、シノが問う。
「…何って……。これ…俺の……中忍服、だろ?」
キスし損ねた格好悪さに加え、どうも怒っているらしいシノの雰囲気を感じたシカマルは、眉を潜めながら答える。
態度こそ変えないが、足下から這い上がってくる、底冷えするような嫌な予感に、シカマルの体は本能的に身構え逃げる体勢に入っていた。
先程まで汗ばんでいるのはシノの手の方だったはずが、今ではシカマルの手の方が発汗している。
シカマルは、キバのように動物的直感力に優れているわけではないが、かと言って鈍いわけでもなく、どちらかと言えば勘は良い方だと言える。
その勘が、これはマズイと危険信号を発していた。
何がマズイのかは分からない。だが、逃げた方が良いと。逃げなければ身に危険が及ぶ―――と、本能が感じ取っていた。
「そうではない。コレだ」
シノの静かで、低い、押し殺した声が、じわじわと恐怖を浸透させてくる。
コレ、とシノが示してきたのは、中忍服の後ろ。肩甲骨辺りに付いた、赤い、塗料のようなものだった。
点々と3,4箇所に付いたそれは、絵の具のような、クレヨンのような………。
「口紅のように、俺には見えるが…?」
「………………」
シカマルは、唖然とするしか無かった。
勿論、そんなものが付いた覚えも無ければ、付くような環境にいた覚えもない。
と、すれば。
頭に浮かんだのは、昔馴染みの、人気看板娘の不敵な笑顔だった。
あの時、いのは確かに肩を掴み、背中を叩いた…。
「ち…違―――っ!」
弁解しようとしたのも束の間。途端に電気がチカチカと点滅しだしたかと思えば、フッと消える。
暗順応が追い付かず、一瞬闇に包まれたが、その中においても異様な気配はすぐに感じ取れた。
闇の中をガサゴソと這い、蠢き、周囲を取り囲んでいく生き物。
シノの手を振り解き、シカマルは飛びすさった。
テーブルに背が当たり、ガチャンと皿のぶつかる音がする。
見えない恐怖と見える恐怖。どちらが怖ろしいか判断が付かぬ間に、カーテンの隙間から差し込む僅かな月明かりが、目をだんだんと慣らしていく。
陰影に浮かび上がったのは、サングラスを外し、その瞳をひたと向けてくるシノだった。
その顔からは赤みが消え、どこか作り物じみた顔は、暗闇の中、まるで蝋人形のように白んでいる。
シカマルは再び「違う」と否定するため口を開けかけたが、見えてしまった光景に言葉を失い、息を呑んだ。
部屋中を埋め尽くす、蟲蟲蟲…。
ザワリと全身が総毛立ち、戦慄した。
シカマルはシノの事が好きで、シノの蟲も好きだ。
しかし矢張り、蟲は蟲。
ヒトではないモノであり、何百何万と群れて蠢く様は異様で――――おぞましい。
それが味方ならいざ知らず、相対するモノとなれば尚更だ。
テーブルに突いていた手に蟲が這い上がってきた感触がして、シカマルは反射的に振り払った。
「シ――――」
シノ、と呼ぼうとしたその先で。
シノが、シカマルに片手を向けていた。
救いの手ではない。ヒトならざりしモノ達に指令を出す手だ。
いつでも攻撃できると。
お前に地獄を見せる準備は整っている…という、無言の脅迫。
今の段階でも十分地獄だと思いながら、シカマルは両手を上げた。
「シノ…。まず、落ち着けって……」
とにかく宥めようと無理矢理笑ってみたものの、強張った顔では引き吊った笑みしか作れなかった。
いつもの癖でチラリと足下の影に目を遣ってしまったが、影があるからと言って術を使うわけにもいかない。
ここは冷静に、穏便に、濡れ衣であることを訴えて、信じてもらわなければ。
「シノ。あのな、それはいのの悪戯だ。イタズラ。俺が浮気なんてメンドクセェ事、するわけねぇだろ?」
「…………」
シカマルの訴えにも、無言でじっと見据えてくるシノの瞳は揺るがない。
動いているのは、シカマルの周囲、そしてシノの背後で蠢いている蟲達だけだ。
ゴソゴソ、ギチギチ。ザワザワと動く気配は静かな内に騒々しく、神経を尖らせる。
まるで一つの生物のようにうねる蟲の群は、しかしよく見れば小さな蟲の集合体で、それぞれに動いているのが分かって余計に気味が悪くなった。
そしてその嫌悪感に、罪悪感を覚える。
シノの蟲だ。そんな風に思いたいわけは無い。
「おい、シノ。いい加減にしろ。俺がそんなに信じられねぇのかよ」
シカマルは眉間に皺を寄せ、シノの瞳を見据え返した。
「だったらその痕、よく見てみろ。どう見たってキスマークなんかじゃねーし、指で付けた痕だって、お前なら判るだろ」
シカマルの言葉に、シノがふと、床に落ちている中忍服に視線を落とした。
疑いが晴れますようにと願いながら、シカマルがシノの様子をじっと窺う。
するとシノは暫く中忍服を見つめていたが、シカマルに視線を戻すと、何かに気付いたように僅かに動揺を見せた。
――――否。
シノが見ているのは自分ではない。
シカマルははっとして、後ろを振り返った。
テーブルの真ん中に飾った花。いのが、シノが見れば解ると言っていた…。
「……アスター、か」
シノの呟くような声が聞こえて、振り返る。
シノは怒りを静めたらしく、先程までの怖ろしい空気は一瞬の内に無くなっていた。
蟲たちが、主の命に従って帰っていく。
パッと電気も点いて、明るさを取り戻した。
「おい」
「疲れた。寝る」
「シノ」
「飯は明日食う」
「ちょっと待て!」
蟲を収めさっさと部屋を出て行こうとするシノに、シカマルがとうとう怒鳴った。
シノは戸を開けた所で足を止め、サングラスを掛け直した顔をゆっくりと、シカマルに向けた。
「心配するな。蟲は、飯には触れていない」
「そういうことじゃなくて…」
「シカマル」
シノがシカマルの声を遮った。
そして、少し間を空けてから、静かに、静かに言った。
「………悪かった」
シノの表情は読み取れない。
しかし、何故かそれ以上問い質すことは躊躇われて、シカマルはシノが黙って出ていくのを、ただ見送るしかなかった。
「……………」
残された、晩御飯と疲労感。
シカマルは大きな溜め息を吐くと、テーブルの椅子に腰掛けた。
「一体何なんだ…」
文句とも愚痴ともつかないぼやきを零し、シノが空けたのとは別のグラスを手に取る。
しかし水を飲もうと傾けた、その時。シカマルは水の表面で藻掻く、黒い物体に気が付いた。
「………何やってんだ、お前…」
呆れた声を上げて、覗き込む。
それは、先程まで自分を戦かせていたモノのひとつであり、シカマルが好きなヒトの、蟲だった。


              *


ベッドに身を沈め、目を閉じる。
自分は何をしているのだろう――と、自分で思う。
シカマルが悪くない事ぐらい、解っていたはずだ。
シカマルがそんな事をするはずがないと、自分が一番知っているはずなのに。

ただ―――嬉しかったのだ。

玄関で久しぶりに見た、シカマルの顔を思い出す。
シカマルが自分を無事に出迎えてくれた。自分を、待っていてくれた。
その事がとても嬉しくて。
中忍服に付いた、あの、緑の生地に付着した、あの赤い色に、上っていた血が一気に引いた。


怖かった。
失いたくない。
誰かに取られるくらいなら―――。


幼稚で、自分勝手で、過剰な専有意識。


『もっと信じてやんなさいよ』
任務に出る前、いのに言われた言葉が頭に浮かぶ。
シカマルを頼むと言ったシノに、いのは「アスターの花みたい」と言った。

『アンタ達って、アスターの花みたいね。青がシノで、白がシカマル』
『アスター…エゾギクか。それが、何故俺達なんだ』
シノが尋ねると、いのはフフフと笑って答えた。
『花言葉よ。青は、「信頼。あなたを信じているけど心配」。そして白いのは、「私を信じてください」』
押し黙ったシノに、いのは笑って言った。
『もっと信じてやんなさいよ。シカマルは、アンタを裏切るなんて面倒な事、しやしないんだから!』


戸が開く気配がして、シノは目を開けた。
入ってきたシカマルは、シノが寝ているベッドに腰掛けると、
「ほら、忘れモンだぜ」
と言って手を差し出す。シカマルの手の平には、蟲が一匹縮こまっていた。
「コイツ、コップの中に入ってたぞ? ホントに飯に入ってねぇだろうな」
「………」
よたよたしながらも翅を広げて飛び上がった蟲を、シノが伸ばした手に迎え入れる。
蟲が体内に戻った事を確認すると、シノは言った。
「……コイツは、お前が振り払ったからコップに落ちたのだ」
「あ?……ぁあ…アレか」
手に這い上がってきたヤツだったのか。とシカマルは納得し、そして、そうかそうかと、ぎこちない間を埋めるように頷いてみせた。
しかし結局会話は続かず、二人の間には沈黙が訪れる。
「……………」
「……………」
「……………」
「……………」
「……………」
「……………俺は…」
シカマルは、そっぽを向きながら、蟲が帰っていったシノの手に触れた。
「……浮気なんかしてねーからな」
そう言って、触れた手を強く握る。
もう、大丈夫だ。
もう怖くなどない。シノも、蟲も。
そう、自分に言い聞かすように、ぎゅっと握り締める。


「………私を信じてください…」

「………え?」
唐突なシノの科白に、シカマルが振り返る。
するとシノは起き上がって、そんなシカマルをサングラス越しに見つめながら言った。
「白いアスターの花言葉だ」
「それって…」
「いののイタズラ、なのだろう? お前の服に口紅を付けたのも、その無実を訴える花を渡したのも。全ては、俺達をからかうためだ」
「はあああああ?!」
シカマルが、気の抜けた声を上げる。
口紅のみならず、花までイタズラの一部だったとは思わなかったのだ。
そんなシカマルの様子に、シノは僅かに表情を緩めた。
「シカマル」
青いアスターは、白いアスターを信じているのだ。
けれど不安で、心配で―――。
シノはサングラスを外すと、そっと、シカマルの頬に手を添えた。シカマルが、驚いたように目を見開く。
その顔を瞳に映したシノは、ほんのりと微笑って、囁いた。


「褒美だ。心して受け取れ」


心配だから、どうか―――。

白いアスターの唇に、口付けて願う。

どうかその花びらが、いつまでも白く、信じてほしいと訴えてくれますように。
どうか青いアスターを、いつまでも、信じさせてくれますように……。



                 *

 

片づけられたテーブルの上。
いずれやってくる朝に花は目覚め、再びその花弁を開かせるだろう。
真っ白で、とても美しい、その花びらを――――。





――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

あとがき
プレイルームの、シノの釘打ちから発展したシカシノでした!
いののイタズラのせいで地獄を見るシカマルとか、シノの御褒美を書きたいなぁ…と思っていたら、予想以上に長くなってしまいまして。。
そうしたらその勢いで、具体的な御褒美(裏)にまで進展してしまいました…。
というわけで、裏に続きもアップしてあります。
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(09/8/14)