雨傘讃歌


曇天の空。
灰色と言うには濃く、黒と言うには薄い、曖昧で踏ん切りのつかない空模様である。
シカマルは眉間に皺を寄せて口の中で小さく「めんどくせぇ」と呟いた。視線を下ろせば、眼下に広がるのは荘厳な城。
石造りの堀と城壁、それに囲まれている本殿は実に堅牢な城と言える。
見張り台のやぐらのみならず、入口という入口が全て固められ監視されている。
鼠一匹通さない、といった感じだ。
「蟻なら楽に通れんだろーがなぁ…」
シカマルは口角を上げて巫山戯た調子で言った。
だが頭を過ぎったのは蟻ではなく、木ノ葉のある一族にしか扱えない、奇っ怪な蟲だった。そしてその蟲を携えた、一人の男。
こんな時、奴なら余計な事など一切考えたりしないんだろう。目の前の任務を完遂するまで。
ジジッという短い雑音の後、配置についたと報告が入る。
「さて、と―――――」
面倒臭いが、仕方がない。
俺も任務に集中するかと、無いやる気を絞り出し、シカマルは作戦開始を告げた。


シノは、今にも降り出しそうな空を見つめていた。
昨日、余所の国での長逗留の任務を終えて帰還し、しっかりと睡眠を取って起きたのが3時間程前。
そして、その3時間前に今の姿勢を取ったきり動いていない。
何もしていない。
寝間着のまま、窓の縁に肘を乗せ頬杖をついて座りずっと空模様を眺めている。
最初から降り出しそうだった空は未だくすぶっていて、まだギリギリのところでその重い身を保っている。
内包した水分は相当だろう。恐らく、降り出したら大雨だ。
腕を掠める空気は肌寒く、ずっと晒している腕や頬は冷たくなっている。
それでも動かないの理由は、怠い――という言葉がぴったりだろうか。
やる気が起きない。高い湿度の所為かもしれない。
シノは微睡んだ。
さっきから、浅い眠りと目覚めを繰り返している。
空を見上げた格好はそのままに、シノは幾度目かの眠りに就いた。
しとしとと、雨の音がする。
ふっと意識を取り戻した時、シノはまずそう思った。
窓の外を見れば確かに、漸く雨が降り出している。
屋根のお陰で窓を開けていても雨が入ってくる事はないが、腕や顔は僅かに濡れていた。
―――――これは流石にマズイか。
ぼうっとしていて風邪をひいたなんてことになったら、面目も何も立たなくなる。
ふと、馬鹿にしたようなキバの顔が浮かんだ。
馬鹿に馬鹿にされるのだけは、御免だ。
そうして、漸くシノは動いた。
何時間も同じ体勢だったため、なかなか思うように動かなかったが、徐々に解して立ち上がる。
しかし上がってはみたものの、特にする事もなく、さてどうしようかとシノは部屋を見回した。
整理整頓された部屋の角に書棚がある。
本を読むか?
それとも――と視線を移せばヒナタに借りたCDと、キバに借りたCDプレイヤーがある。
ヒナタが聴いているのを聴いて、良い曲だと言ったら貸してくれたのだ。
だが、シノは生憎曲を聴くための機械を持っていなかったため、キバにプレイヤーを借りたのである。
何もする気が起きないため本を読む気にもなれず、シノは取り敢えず曲をかけてみることにした。
平たく円い機体のフタを開け、ケースから取りだした円盤をセットする。
カチッとフタを閉め、再生ボタンを押そうとした、丁度その時。
来客の知らせが届いた。


玄関に出迎えると、目つきの悪い、不景気そうな顔があった。
生来のところもあるだろうが、雨に濡れている所為だろう。
上から、髪と、顔と、肩と手と……全身を水滴が滴り、服などは水分を吸収して色がくすみ、全体に灰色っぽくなっている。
濡れ鼠だ。
「シカも濡れれば鼠になるのだな」
「ぁあ?」
どこか感心したようなシノの科白に、その濡れ鼠――シカマルが悪い目つきを更に悪くした。
「何言ってンだ?」
「何でもない。それより、どうした」
そんなにびしょ濡れで……と、シノが視線だけでシカマルに問う。
「どうしたも何も……雨だ、雨。帰ってくる途中で降り出しやがった」
「否。そうではなく」
水滴が垂れてきたのかごしごしと額を、これまた濡れた裾で拭うシカマルを見つめながらシノは言った。
「それ程濡れて、何故ウチに来たのかと訊いている。家に帰り、着替えるなり湯に浸かるなりすればいいだろう。
どうしてわざわざ……此処は、お前の家より遠い」
それで漸くシノの意図を解したシカマルは、ああ…と投げ遣りに応えた。
「帰ったら、知らせるっつってるだろ」
「………」
確かに、そういう約束ではあった。
だからシノも、帰還次第シカマルに報告している。
だが普段、長期任務の多いシノは専ら報告する側で、シカマルから帰還の報告を受けたのは――いつ以来だろうか。
「………そうか…」
シノは暫し間を空けた後、一つ頷き、
「御苦労」
と言った。
「ああ…。ホントに苦労だぜ」
シカマルが眉間を寄せると、髪から垂れてきた滴が頬を一気に伝い、顎に一時止まって、落ちた。


その後、濡れ鼠のままでは風邪をひくとシノはシカマルを風呂に入れた。
シカマルは、あまりシノの家に泊まる事がない。
何故かは知らないが、いつも呼び出されるのはシノの方で、だからいつもシノがシカマルの家に泊まることになる。
そのため、シカマルの部屋にはシノの着替えがあるのだが、シノの部屋にはシカマルの着替えがなかった。
仕方ないので、自分の服を用意した。
そうしてシカマルが風呂から上がるまで、シノはついさっきまで全く読む気にならなかった本を読んで待った。
どういう訳か、やる気が戻ってきている。
怠いところに更に怠い奴が現れると、自分がしっかりしなければと思うのかもしれない。
微かに戸が滑る音を聞き、顔を上げる。こざっぱりはしたが、相変わらず冴えない顔があった。
矢張り、生来のものだったらしい。
その生来の不景気顔を携えたシカマルは、シノの服を着ている。
黒のハイネックのTシャツに、アイボリーのズボン。
もともとシノとシカマルの服の好みは近いから違和感は無いが、ただ、少しサイズが大きいようでズボンの裾を折っている。
タオルでぞんざいに髪を拭きながら入ってきたシカマルに、シノは本を置いた。
「髪を乾かさなかったのか?」
「あ~……ドライヤーどこかわかんなかった」
「戸棚の中だったか……持ってこよう」
「別にいいよ。メンドクセーし」
立ち上がろうとするシノに、シカマルが言う。遠慮というより、本当に面倒臭いのだろう。
だがシノは構うことなく立ち上がった。
「否。ちゃんと乾かすべきだ。水気を含んだまま放置しておくと髪の繊維が痛む」
「女じゃあるまいし。んなこと気にしねーよ」
「髪質に男女の差はない。だが――そうだな――男の場合、気を付けないと……」
シノは一間置いてから、言った。
「早く禿げるぞ」


ブオオォォォと、熱風が頭の天辺に当たる。
シカマルはシノの説教を聞いた後も暫くめんどくさいと駄々を捏ねたが、結局シノが乾かす方向で落ち着いてしまった。
なんだか幼児みたいだったとちょっと後悔したが、気持ちが良いのでまあいいかと、シカマルは思っている。
「伸びたな」
ドライヤーを止め、髪をとかし出してシノが言った。
絡まっているのか、時折つっかえながら髪の筋を櫛の歯が通っていく。
「そうか…?」
「ああ」
「よくわかんねーな」
「毎日見ているからだろう。まあ、毎日見ているからと言ってキバのように、あれだけ顕著な赤丸の変化に気付かない……というのはどうかと思うが」
シノの科白に、シカマルは大型犬程の大きさに成長した赤丸の姿を思い浮かべた。
中忍になって久しく、周りの連中も随分成長してはいるが、多分一番著しいのは赤丸である。
あの急速な成長ぶりに気付かない奴は馬鹿だ。だから、キバは馬鹿だ。
「あの馬鹿、ホントに気付いてねーのか?」
「………いや。恐らく、成長自体には気付いているんだろう。赤丸の体調を管理する上で気付かないはずがない。だが―――そうだな、
矢張り毎日一緒にいるから、奴にとっては急激な変化ではないのだろう。だから、実感が湧かない。昔も今も、赤丸は赤丸だと」
「そうかぁ…?ただ鈍いだけなんじゃねーの?」
「…………それも有り得るか」
シノがドライヤーのスイッチを再び入れた。
風の音が遮って互いの声が聞こえ難くなるため、二人は沈黙した。
ただ、温かな風の中で頭にシノの手の感触を感じる。
こんな風に頭を撫でられるのは、いつ以来だろうか、とシカマルは漠然と思った。
このところ、毎日は疎か一週間に一度、逢えれば良い方だ。
それにしたって互いの出立や帰還を知らせるだけである。
きっと毎日逢っていれば、今みたいに時間を共有できていれば、シノだって些細な髪の長さになど気付かなかったはずだ。
―――否。
シカマルは、ちらりとシノを盗み見た。
此奴の事だ。毎日逢っていたって気付いたのだろう。
小さな蟲の小さな変化に気付かなければいけない一族だから、どんな些細な事だって――それこそミリ単位で――見抜いてしまう。
ほら。
ちょっと目線を向けてただけだってのに、こっちに気付いた。
「何だ」
ドライヤーの音が止んで、シノの声が聞こえた。
「何でもねぇ」
シカマルは、そう応えて正面を向いた。
シノの手は暫しシカマルの髪を撫でつけていたが、整ったのか髪を束ね始めた。
「お前、このまま伸ばすのか?」
シノの指がシカマルの髪をまとめ上げていく。
「さあ」
シカマルはそうとだけ応えた。考えてなかったからだ。
そもそも、伸びた事に気付いていなかったのだから、シノや他の誰かに指摘されなければ気付かぬまま伸ばしていただろう。
シノが、髪を束ねていく。
髪留めで括られると、いつもと変わらない髪型であるはずなのに何だか新鮮な感じがした。
ドライヤーで頭が温まったせいか、櫛でとかされたせいか、それともシノが髪を結んだからか。
鏡を覗いてみると、矢張りいつもと変わりはなかったが、確かに伸びていたようで結んだ先っぽがへにゃりと少し垂れていた。
「イルカ先生のようにするか」
シノがドライヤーを置いて鏡を覗き込んでいたシカマルに言った。
「このまま放置しときゃあ、いずれそうなるな」
シカマルはへにゃりと垂れた部分をちょっと触り、シノの方を振り返った。
「お前が、長い方が良いってんならそうすっけど」
シカマル自身は、どうでもよかった。
「そうだな―――」
シノはいやに真剣そうに眉を寄せ、考える仕草をしてから答えた。
「俺は、切った方が良いと思うぞ」
「あ? 何で」
別に何でもいいのだが、シカマルはつい訊いてしまった。
するとシノは無情なほど淡々と、
「何故なら、枝毛があったからだ」
と答えた。
訊かなければ良かったと、シカマルは後悔した。


玄関先。
シノに見送られ帰るシカマルが戸を開けると、本降りの雨が更に強さを増していた。ザアザアと音も大きい。
「これを使え。返すのはいつでもいい」
シノがシカマルに傘を差し出す。古風な、紙張りの傘だ。
その柄は「し」の字のように曲がることもないただの棒で布が巻いてあり、
ボロではないが、一箇所だけ継ぎがされている。透かすと、虫に喰われたような跡があった。
「虫に喰われたのではない」
シカマルの透かす所作を見て察したのか、シノが言った。
「鼠だ」
鼠――――。
「なら、ちょうどいいや」
敵にとっての鼠で、濡れ鼠でもあった自分にはピッタリだ。
「じゃ、近いうちに返しにくっから」
「ああ。こちらも、服が乾いたら届けに行く」
シカマルの濡れた服は、シノが洗濯すると言って預かっていた。
雨の中に出ると、バタバタと傘に当たる雨音に支配される。
視界も傘に切り取られて実に狭い。
それでも、振り返るとシノがまだ見送っているのが見えた。
傘下の極々狭い空間の、溜まった空気に仄かに石鹸の香りが滲む。
普段シノが使っている石鹸の香りだ。
それが、シノに結ってもらった髪や体からしている。
髪も、服も、傘も。空気すらも。
全部シノのだ。
シカマルはちょっと傘を傾げて空を見上げた。

「雨雲も、そう悪くねーな」

黒と言うより墨のような雲のせいか、視界の隅に入った傘は鼠色のようだった。


シノはシカマルを送り出すと、部屋に戻り本を開いた。
しかし、読む気が失せた。
何もする気が起きない。
ぼんやりと部屋を見渡すと、開いたままのCD容れが目に付いた。
そして、その横にあるキバのCDプレイヤーを見て、
――――ああ。
シノは、自分が何をしようとしていたかを思い出した。
立ち上がり、今度こそ再生ボタンを押すと曲が流れ始める。
外の雨音に馴染む、静かなメロディ。
開けっ放しだったCD容れを閉じ、シノは再び窓辺にもたれた。
目を閉じて、曲と、雨音と、この怠惰な一時に身を浸す。
瞼の裏に、古風な傘を差し雨の中を帰っていくシカマルの姿が浮かんで、消えた。





――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

あとがき
中忍設定のシカシノで御座いました。
大体、赤丸が普通の大型犬くらいだった頃を想定しています。
はやいものでもう6月。………更新滞っていて、申し訳ありません…。
只今、京極夏彦先生の読み物にどっぷり嵌っており、読むので手一杯で……。
しかもその中に出てくる鬱気のある物書き先生に感化されてしまい、ちょっとマズかったもので(汗)
メッセージを下さった方々にも返事を出せず、不作法ながらこの場を借りて謝罪させて頂きます。
因みに、今回「鼠」が出てきたのは、別に意図した訳ではなかったのですが、
多分、今『鉄鼠の檻』を読んいるからだと思います(なんと単純!)
今月は読みつつ書きつつ……できたらと思っております。
それでは皆様。
これから来たるじめじめ梅雨を、陰鬱と思わず、素敵な時期と考えて、良い梅雨をお過ごし下さい。
ものは考えようですよ!












(08/6/1)