Scene2.
「……………」
「……………」
「……………」
「……………」
吸い込まれそうな空を何の気なしに見上げたヒナタは、その中をパタパタと飛んでいく鳥を見つけてふと隣に視線を移した。
そこには同じように空を見上げ、鳥を見送っているようなサイの姿があり、そしてヒナタの視線に気付いたのか同じようにこちらを向く。
「あ…えと……今の…」
「ああ、うん、僕の鳥だよ」
「……そ…そっか…」
ヒナタはサイの言葉に、気まずさというか気恥ずかしさを感じて、誤魔化すように再び空に顔を向けた。
結局ナルトは報告書作成のため自宅に飛んで帰る事となり、その代わり…という訳でもないが、図書館に行くサイと途中まで同行する事になったのだ。
サイとは、一緒に任務をしたり宴席に同席したりした事はあるものの、それは皆も居る状況であって、こんな風に二人になる事は今まで無かった。
(ああ…私またおかしな言動を……)
慣れない相手についつい気が引けてしまうのは、どれだけ経っても直らない。
きちんと尋ねる事も出来ず先に答えてもらってしまったが、サイに気にした様子は無く、気にしているのは自分だけだろうというのがまた気に病まれる。
(普通に…自然に…。サイ君とは普段あんまり話さないだけで、知り合ったばかりじゃないんだし…)
「ヒナタ」
「は、はい!」
大丈夫大丈夫。と自己暗示をかけるように頭の中で繰り返したヒナタだったが、突如掛けられた呼びかけに思わず声が上擦ってしまった。
サイは少し驚いたような顔をしたものの、それでも特に気に留める事もなく話を続ける。サイの方はヒナタが思うよりずっと、ヒナタに慣れているのかもしれない。
「いや、ちょっと気になっただけなんだけど。シノに渡したい物って何なのかなと思って」
「あ……それは…」
「言い難いなら別に、」
「ううん! そういう事じゃ……なくて…」
サイの問いにヒナタは逡巡し、しかしあまり間を置く訳にはいかなので言葉を選ぶようにして答えた。
「…手紙を、書いてみようと、思って」
「手紙? シノに?」
うんと頷き、ヒナタは歩を進めながら昨日有った事を簡単に説明した。…シノの件を昨日まで知らされず、揉めてしまった、程度だが。
「…それで、会って話すのはちょっと難しいというか……」
「なるほど。それで手紙…」
「直接話すときっと気を遣わせてしまうし…、伝えたい事があるだけで、返事も、いらない事だから」
「返事、いらないの?」
「いらない…というか、無理はしないで欲しい…かな」
俯き加減でそう言いながら、もじもじと落着きなく指を絡ませいじるヒナタの様子に、ああこれは…とサイは思った。
(もしかして、他に良い方法も思い付かないけど、自信も無いのかな…?)
ヒナタとの付き合いはあまり多くないものの、シノ達から聞き、そして自身の目で見て知り得た限り、ヒナタは弱くはないし意志も強い。
がしかし、矢張り大人しい性質らしい。
サイにとって、親しくなった女性の最初がサクラで次がいのだった為、ヒナタは目立たないが故に新鮮で逆に印象に残った人だ。
そして弱くはないが繊細らしいので、言葉は選ぶべきだろう。
(ええと、こういう場合は、素直で肯定的な意見を述べるのが良い…んだよね。多分)
特に反対意見も無いし。と考えをまとめて、サイは口を開いた。
「良いんじゃないかな、手紙。僕も良い案だと思うよ。文字ならきっと、落ち着いて読めるだろうし」
「そ………そう、かな……」
ヒナタはサイの言葉に驚いた様だったが、はにかみながらも「ありがとう」と小さく微笑む。
どうやら正しい言葉の選択ができたらしい事にサイもニコニコしつつ、しかしその一方では別の事も考えていた。
(手紙…手紙かぁ………)
ヒナタの行動はそれで良いとして、受け取る側はどうだろうか。
話していた為少し遅くなっていた歩調を戻しながら、ヒナタに向けていた意識も戻す。
今日は朝早くから活動を始めたが、話し合いを終えた頃にはもう陽もだいぶ昇り、里の活気もいつも通りのものとなっていた。
そしてそんな里の風景の中、サイはあるものに目を留める。
(ああ、あれなら………うん、良いかもしれない)
ピタリと足を止めればサイの歩調に追随していたヒナタも立ち止まり、どうしたのだろうと不思議そうな顔をする。
サイはそんなヒナタを振り返ると、心なしか楽し気な面持ちでヒナタに告げた。
「ちょっとそこの本屋に寄って良いかな。シノへのお見舞い買いたいんだ」
ピルルルルという今度は本物の鳥の鳴き声が、二人の頭上空高くを、長閑(のどか)に通り過ぎて行った。
いつものように家事雑用をこなし、そろそろ昼食の用意が始まる頃かと縁側を歩いていたシスイは、ふと何かを感じて足を止めた。
そこに面した庭はそれ程広くはなく、春を待ちわびる草木がそこそこ茂っている向こうには林との境界を隔てる瓦塀(かわらべい)があるも、
外側から伸びてきた幾本かの木々はその塀の上を越して来ている。
そんな、いつもと変わらない景色に、しかし何か違和感を感じてシスイは目を細めた。
「…………」
そして無言の内にその正体に気付くと、隅に置いてある履き物をつっかけて茂みの中へ歩み寄る。
そこに落ちていたのは、チラシか、あるいは雑誌を破いたのか…そんな紙を使った、紙飛行機だった。
辺りを見れば一つ、二つ、三つ……一見しただけでも八機はあるだろうか。
「………」
それらを見渡したシスイは、再び無言で顔を上げ、塀の向こうへと視線を向けた。
当然遮蔽されているため向こう側を見ることは出来ないが、この感じは、おそらく―――。
「!」
とその時、トタトタという足音と共に明るい髪の女性が早足で縁側を通って行く。
シスイには気付かなかったのかあっと言う間に通り過ぎて行ったその女性は、親しくはないものの最近では顔馴染みと言えなくもない……春野サクラだった。
彼女はシノの担当医であるし、昨日の事もある為屋敷を訪れていても何ら不思議は無いのだが、それにしても、足早にどこへ向かったのだろう。
(シノに何かあったのでしょうか…)
少しだけ過ぎった不安に、シスイは思案気に視線を落とす。
そしてもう一度だけ塀の方を見遣ってから、茂みに落ちているゴミと思しき紙飛行機を手早く拾い集め、屋敷の中へと戻って行った。
シスイが思わぬ呼び出しを受けたのはそれから間もなく、昼食準備の手伝いに行く前に一度シノの様子を見てこようと思っていた矢先のことである。
蟲伝手の伝言は『至急、部屋へ来るように』というシビからのもので、何事かと思うとほぼ同時にシスイは行動を開始していた。
先程回収した紙飛行機は腰袋に収め、近場に居た人に事情と要望を簡潔に伝えて今後の仕事から自身が抜ける分の対処を頼む。
シノの件以外、特別重要な役割を担っているわけではないので人員の補填(ほてん)は出来ずともさほど問題無いが、それでも最低限連絡は必要だ。
蟲を使える者ならばそれで事足りるけれど、シスイは人に依頼する他ない。
そうして任せた後は、軽く身支度を整えつつ慌てず急いでシビの部屋へ向かい、声を掛け返答を受けてから戸を開けると、そこにはシビともう一人、黒髪を束ねた目付きの鋭い男性が居た。
―――――奈良シカマル。
面識は無いものの、シノの同期生である。シスイの方はそれなりに見知っていた。
「……御用件は」
客人の方にも少し意識を残しつつシビに用件を尋ねれば、まず部屋へ入るよう促される。どうやら小間使いとして呼ばれたのではないらしい。
それではと入り戸を閉め、示された場所、シビの傍らから少し距離を取った位置に失礼すると、テーブルを挟んで体面に座した二人を斜め横から見る事となった。
シスイから見て右手側…入口に近い方に座した客人は、どこか観察するようにシスイの動向を追っているようだったが、おそらく癖のようなものだろう。
忍にはままある事で、シスイもまた、洞察とは少し異なるが、人には注意を払うよう心掛けているのだからお互い様だ。
さり気ない察し合いをしつつ互いに心持ち会釈を交わし、シスイが席に落ち着くと、シビが客人を「シノの友人」と紹介し、シスイの事は「シノの世話役」とした上で、
「シエンの侍者でもあった」と加えて言った。
その説明に、シスイは思わず瞠目する。
シノの友人の訪問だ。当然その件かと思ったが、そう紹介するという事はシエンに関わる話なのだろうか? しかし、何故?
そんなシスイの当惑を知ってか、シビが早速用件に入る。
「確か、シエンと共に三つ葉村へ行ったのは、お前だったな」
「…はい」
やはり予想外の話題に反応が遅れる。けれどここで何故どうしてと問うのも如何なものかと、結局は端的な応答のみをシスイは返した。
それでもぎこちない返答の間に訝しむ思いを察したらしく、今度は客人――シカマルが話を継いだ。
「いや、大した事ではないんスけど。シエンさんの亡くなった時期が、シノの発病の時期と近いらしいと耳にしたんでちょっと気になって…。
それに、火災があったその、三つ葉村っていうのは、シノの知人がいるらしいし。何か関連があるんじゃないかな、と」
「ああ……、そういう事ですか」
シカマルの話の内容に、シスイは成る程と自分が呼ばれた意味を理解した。
この奈良家の若者の用件は、やはりシノの事で、その為にシエンの情報を得たいという事か。
言葉には含まれていなかったが、おそらくシエンと油女一族との微妙な関係についてもある程度知っているのだろう。
ならば懐疑的になる自然であり、現に自身がシノの任を与えられる際には、その事もあって反対する者も居たと聞く。
だが。
「……シエンの事故と、シノの件は無関係かと思います。確かに昔はシノとシエン共通の知人が三つ葉村に居りましたが、今はもう住んでおらず、村に行っていたのはシエンだけです」
「…村での火災も、時期なんかの一致も、偶然であって関連は無い、と?」
「はい」
「…ちなみに、シエンさんはどうして村へ……いや、『行っていた』って事は、継続的に行ってんスか? 一体、何をしに?」
「菜種油の採取にです」
「ナタネアブラ…?」
「シエンはロウソク作りが趣味でしたので、その材料を採りに行っていました。ですので、シノの知人とは関係ありませんし、
少なくとも私の知る限り、シエンが亡くなったのは天災による完全な事故です。それがシノの病の要因とも思えません」
「………」
眉一つ動かさず淡々と受け答えるシスイに、シカマルが思案気な表情を浮かべる。
そこへ、「一族とはともかく」とシビも意を示した。
「シエンとシノの仲は良好だった。シノとシスイもだ。………取り敢えずこの話はこれまで。で、良いな?」
その確認に、考えを巡らせていたらしいシカマルは視線をシビに戻し、ゆっくりと頷く。
「……はい。ありがとうございます」
シカマルが二人に向かって頭を下げると、二人も応え、互いに了承したところで仕切り直すようにシビがシスイに次の話題を切り出した。
「さて。シスイ、話はもう一つある。これはシノの件だ」
「はい」
改めての用件は、どうやらこちらが本題らしい。シビはまず簡潔に「これから山中の娘が来る」と言った。
「山中さん…ですか」
山中と言えばシビと親しいいのいちが思い浮かぶが、娘ならば、いのさんか。
今この場に居るシカマルのチームメイトであり、同じようにシノの同期生。シノを可愛がるいのいちが油女邸を訪れる度に愛娘の自慢もしてくるので、
シスイにとってシノの友人の中では特に馴染みのある人であるが、これまで直接的に関わった事は無かった。
そしてシビの話に依ると、
「シノの深層心理を視てもらう。今サクラが呼びに行っているから、その間に準備をしてほしい」
との事らしい。
なるほど先程彼女が縁側を駆けて行ったのはその為だったのかと得心しつつ、シスイはシビ達の話を伺った。
それはシカマルの提案であるらしく、そしてその為に、協力が必要なのだと言う。
「できれば事が済むまでは、シノに知られずにやりたいんス。あいつ無駄に精神力強ぇから、事前に知られると多分、覗き難くなると思うし‥」
「つまり、シノが確実に意識の無い状況を作れ、という事ですか」
「まあ……そうっス」
明け透けなシスイの物言いにシカマルが言い淀む。理解は正しいが、そう言われると酷く悪い事を企んでいるような気がしたのだろう。
しかし単刀直入な言い方に慣れたシビは特に引っかかる事も無く、
「現状、この役割にはお前が適任だ。よろしく頼む」
と言った。
シノは昨今眠ってばかりだが、その眠りは浅い微睡(まどろ)みである為、意識を失っている状態とは言い難い。
ならば取るべき方法は睡眠薬などであり、そうなるとシビの言う通り、最も適役なのはシノの世話全般を担っているシスイであろう。
投薬ならサクラでも可能かもしれないが、普段と違う事が起こればシノの事だ、不審に思わないとも限らない。
もともと山中の術は対敵用なので多少警戒したところで支障は無いものの、シカマル達が危惧しているのはシノへの負担だ。
抵抗があればそれだけ負荷がかかるは道理、心身共に衰弱している今の状態では負担は極力無くすべき、という配慮であった。
「解りました。すぐに準備に移ります」
シビとシカマルの話を了解したシスイは、そう言ってすっと立ち上がる。
二人の横をすり抜け静かに退席すると、すぐさま次の行動予定を立てながらまずは台所へ向かった。
(ああ、そう言えば…)
その思考の中で、腰袋に収めた物の存在を思い出し、そして先程見たシビ達の様子を思い比べる。
シビもシカマルも、落ち着いてはいたが、やはりどこか不安を抱いている様であった。
(今は彼等の計画の方が優先でしょうか。……もしシノが動揺した場合、どう作用するか判りませんし)
こちらの話は事が済んだ後にしましょう。と考えをまとめ、迷いなく歩を進めるシスイ。
様々な思惑に想いを馳せながらも、澱みないのは彼等と同じだ。
この試みがシノを良い方へ運ぶように。
(―――出来ることは、出来るだけしなければ)
諦めず、凪に一石を投じようと動いたシノの友人達を思い、シスイはサクラと同じように、心持ち足を速めたのだった。
「…今の、シスイさん、が、シエンって人の付き人だった人で、今シノの世話を仕切ってる人なんスよね」
そつなく了承し退出していったシスイを見送って、残ったシカマルは確かめるようにシビに言った。
そうだと言う返答を聞きながら、頭の中で急速に情報をまとめていく。
シカマルとサクラがシビに対面しまず切り出したのは、山中の術を試す提案で、シビは少々驚いた様ではあったが試みる価値はあると思ったのだろう、早々に頷いてくれた。
その判断を受けて、サクラはいのを呼びに席を立ち、方やシカマルはもう一件、シエンについて尋ねたのだ。
油女一族と不仲であったと聞いた事、またその亡くなった日とシノの病状が現れ始めた時期の奇妙な一致。そして、大蛇丸との繋がりや、研究内容に引っかかるものは無いのかなど。
すると、シビはその事かと少し複雑そうな顔をした。
その件に関しては油女一族の中でも議論はあったものの、関連性は認められなかったのだと言う。
知り得る限り、シノとシエンは親しくしていたし、多少反目し大蛇丸に協力していた事もあったが、シエンは他者に傾倒したり、騒動を起こす柄ではなかったらしい。
しかし念のため、シノとシエン、また二人に共通する農村について確認したいと言うと、シビはシエンにもっとも近しい人物――シスイを呼び出した。
しかもその人は、シノの世話役でもあると言うのだから、驚いた。
「確かに、有能そうではありましたけど…何でまたわざわざ? シエンの関係者って事は、一族とはあんま馴染まない側って事でしょう? 難色もあったんじゃないっスか」
「色々、理由はあるが、妥当だったと言うべきか…。メリットとデメリット、そしてリスクを総合した結果だ」
「リスク…?」
「関連性が現状、認められなくとも、いずれは…という可能性はあるという事だ」
「いずれって………、監視、してんスか」
「…それでなくともウチは目が多い。滅多な事は出来ないはずだがな」
怪しいとまでは行かずとも、疑念の余地のある者を主任とする意図が解らず怪訝に思っていたシカマルだったが、シビの言葉に得心した。
シスイをわざと任に着かせる事で、もしもボロがあるのなら出させようという方針があるのだろう。理由はそれだけでも無いようだが、少なくとも反対派が承知したのはその為か。
もちろん、本当にシスイや、シエンの関連であるならばシノが危険だけれど、監視という手法の利を得られるならばそのリスクを冒すもやむなしと判断されたに違いない。
目が多い…というのは、おそらく、蟲の事だ。
確かにそんな衆目の中では、是非を問うまでもないのかもしれないが。
「少なくとも、ワシはあの二人が関係しているとは思えん」
採用されているのは偏(ひとえ)にシビの信頼に因るような気もする。
「…随分、信用してるんスね」
「いや……信用、というよりは…」
ところがシカマルがそう言うと、シビは渋い顔で言葉を濁した。
「……色眼鏡と言うべきか」
「は?」
思いがけない言葉に間の抜けた声が出る。それでもシビは変わらず渋い様子で、
「正直二人の事はよく知らないし分からない。怪しいと言えばそうも思う。ただ、やはり――」
柄ではないのだ、と繰り返して、唸ったのだった。
「どうぞ」
台所へ赴き家事手伝いの様子見と自身の行動予定の報告、そして白湯などの用意を済ませて、シスイはシノの部屋へと向かった。
ちょうど昼時というのもあり、軽食と共に何食わぬ顔で薬も添えて出す。
「睡眠薬です。食後飲んでください」
「………睡眠薬…?」
澄ました顔で言われた言葉に、シノが訝しげな表情を浮かべた。
それもそうだろう、散々頭が痛くなるほど寝ているというのに、これ以上眠れと言うのだから変な話だ。
しかし、ここまで来る間に思案した限りでは、こう言うのが最も良い方法という結論が出た。
シビやシカマルの望みはシノに負担をかける事無く眠らせる事である。
ならばと気付かれないように混ぜる手も考えたし、実際眠気に襲われる事は既に日常化している為おそらくシノも不審には思わないだろうが、問題は寄壊蟲だ。
今の彼等は行動が読めない上に、正常に機能したらしたで薬物の混入をシノに知らせてしまう恐れがある。
それならば、いっそのこと事前に知らせてしまった方が良いだろう。
蟲達もシノの言う事を全く聞かない訳ではないから、シノが認証する薬物に対して余計な干渉はまずしないはずだ。
「浅いものではなく、しっかりと睡眠を取るようにと、サクラさんからの御指示です」
「サクラが…?」
もちろんありのままに教えるのではなく適度に嘘も混ぜる。
偽る時も堂々と、しれっと語るは定石だ。
それにサクラ達からの要望である事は違いない。
シノも少々訝しんでいたが「解った」と了承した。
ちらと見た限り、シノはシスイが今朝用意したロウソクには未だ手を付けていないようで、そのままの状態で置かれている。
閉ざされた光るブリキの缶に目を細め、再びシノに視線を戻すと、冷たい粥を口に運んでいた。
黙々と食事を進めるシノが白湯で薬を流し込むまでを、こちらも黙々と眺めるシスイ。
そして一連の動作が終わるのを見計らうと、御馳走様の挨拶を交わして、シノが再び横になるのに軽く手を貸した。
「シスイ」
「はい」
布団に収まったところでシノが呼ぶ。返事をすると、少し頭を反らせ視線を頭上へと向けて言った。
「ロウソク、ありがとう。本も」
「…いえ」
頭上の先に置かれたロウソク一式は動かされた形跡は無かったものの、認識はしていたらしい。
一応以前シノが読んでいた本も数冊添えておいたが、今の状態でどれだけ読めるか。読書というのも、思いのほか体力や集中力が要るものだ。
「……シスイ」
「はい…?」
本の方へ意識を向けていると、もう一度、静かに名を呼ばれてシノを見る。
シノもまたじっとシスイを見つめていて、何か言いたい事があるのだとすぐに分かった。
「…………あの事は、言わなくて良いんだな」
「………」
核心に触れずとも、言わんとする事もすぐに分かる。
いや、わざとシスイにしか分からない方法で伝えてきているのかもしれない。
それは質問であり、確認であり―――選択だった。
「……はい」
少し、間の空いた返事に、シノもまた間を置いて、分かったと呟いた。
声が小さくなったのは、薬が効いてきたからのようだ。
じっとシスイを見据えていた目が閉じ始め、重い瞼に閉じては開き、また閉じるを繰り返す。
そしてどんどん持ち上がらなくなっていくと、諦めたように深く瞑目し、ゆっくりと、意識を閉ざした。
おやすみと無言の内の微かな言葉に、シスイも小さくお休みなさいと口を動かす。
「良い夢を」
眠りに就いたシノを見つめ、布団や髪を撫でるように整えると空いた食器を乗せた盆を持ち、音を立てずに退室する。
目の端に留まったブリキの缶に一瞬顔を顰めたものの、それを振り切るように視線を外して後にした。
このままシビの部屋へ向かい、結果を報告しなければならない。
サクラもいのを連れて戻って来ただろうか。
(成果が出ると良いのですが…)
歩調を変えずそう思いながらも、一抹の不安が胸中を過ぎる。
『…………あの事は、言わなくて良いんだな』
シノの言葉を思い出す。
良い、はずだ。
知り得る限り、あの事は関係無いはずなのだから。
(…山中の術はどこまで分かるのでしょうか)
もし、知られてしまったら――――。
―――いや。
(全ては、成るように)
「あなたの望むように」
なっているのですか………?
* * *
豊かさ、競争、活発、快活な愛、小さな幸せ。
「菜の花かぁ……春も間近ねぇ」
黄色い小さな花が寄り集まった菜の花々を整えながら、山中いのは微笑ましく呟いた。
菜の花はアブラナ科の花の事で、2~3月が最盛期だ。
実は白や紫色の花を咲かせるものもあるのだけれど、やはり黄色が菜の花の代表色だろう。
食用や菜種油など有用性の高い植物でもあり、一本の花としては地味目なものの野原一面に広がる黄色い菜の花畑は、女の子なら誰でも一度は憧れる情景である。
そして、春を告げる花の一つだ。
「春となれば、アヤメにアネモネ、チューリップ。それからカーネーション、デージー、スイートピー、パンジー、マーガレット…花屋も忙しくなるわ~」
そう歌うように言いながら慣れた手付きで花の世話をする様子は、忙しくなると文句を付けながらも待ち焦がれている様で、実際いのは花屋の本領が発揮される季節が嫌いではなかった。
色取り取りの花が咲き誇り、賑やかになる季節。
忙しいは忙しいけれど、そんな賑やかさと華やかさを人に届ける時の足取りは、花屋に産まれ育った習い性だろうか、ついつい軽やかになってしまう。
もちろん、店頭での対応だってバッチリだ。
「いの!」
「は~い、いらっしゃいませ~……って、何だサクラか」
「何だって何よ。相変わらず外面だけは良いんだから」
「だけって何よ。そっちこそブッサイクな顔しちゃって。少しは見た目気にしたら?」
「こっ、これは寝不足…じゃ、なくって!」
「なに、寝不足じゃないの?」
「だからそうじゃなくて!」
バッチリ完璧な営業スマイルを向けた先に居たのは旧知のサクラで、ふと普段の態度に戻ると、毎度の憎まれ口を叩き合う。
けれど、どうもいつものサクラと様子が違い、首を傾げた。
一見するときちっと整っているようで、肌も髪も仕上げはおざなり。
任務地ならともかく、里に居て手入れを怠る程、サクラは無頓着な質ではないはずだ。
と、すると―――。
「用事があるの、アンタに。お願い、一緒に来て」
「はぁ?? 私に用って何――」
「お願い。説明は道中するから」
手を掴まれ、真剣な顔で自分に頼んでくるサクラに、いのは何事かあったのだと悟った。それも、かなり重大な事態。
「………分かった」
サクラとは、違う班とはいえ女同士、仲間として友達として、またライバルとしても長く付き合ってきたのだ。それくらいは解るし、対処もできる。
「ちょっと待ってて」
いのはそう言って掴むサクラの手を外し、エプロンを脱ぎながら奥へ向かって、母に出掛けると呼び掛けた。
そして投げるようにエプロンを置いてくると、「お待たせ」と戻る。
「それじゃ、行きながら説明してもらいましょうか」
やはり硬い表情をして待っていたサクラに、ちょっと肩を竦めて、いのは敢えて砕けた調子で尋ねた。
「で、まず、どこ行くの?」
春を知らせる黄色い花が、風に吹かれてその身を揺らす。
数枚の花弁はそよと誘いに散り落ちて、軽やかなる足下にその華を伏した。
* * *
サクラの先導の下到着した先にはシカマルがいて、いのは真っ先にその頭を引っぱたいた。
「って! 何すんだいきなり!」
「叩きたかったからよ! 文句ある!?」
「………」
シカマルの非難にも臆するどころか堂々と腕を組み、簡潔にして理不尽な理由を言ってのけたいのに、シカマルは恨みがましく睨みながらも口を噤む。気持ちは解るからだろう。
一ヶ月前、シカマルがシノの一件を知ってしまった日。いの達もシカマルと共にシノと会っていたのだ。
いのにしてみれば黙っていたのはシノもシカマルも同じであり、そして残念ながらシノを叩ける状況ではない為、シカマルを叩いたのである。
けれど今日のところはそれで勘弁してくれるのか、「それで?」と本題に進んだ。
「やるのは良いけど、本当に一人で? 確率はメチャクチャ下がるわよ?」
大まかな事はサクラから聞いたが、深層心理に潜って病の原因を探ると一口に言っても、容易い事ではない。
精神世界の探索は、それこそ海の中から一つの貝殻を探すようなもので、本来なら複数人で行うものだし、そもそも本人さえ気付かないような深層部など、到達することさえ困難なのだ。
「面倒臭ぇこと言ってんのは分かってる。だが、お前にやってもらわねぇと」
シノに負担を掛けない為には、親しい間柄であるいのが一人で探るのがベストだ。
それはいのも理解しているのだが、やはり不安は拭えない。
一人で、負荷を与えないよう慎重に、原因である「何か」を見つける。
やるからには成果を出したいけれど、あまりに条件が悪すぎる。
「…一応、探る手掛かりはある。『一年前』と、」
不安というか不満気ないのに、シカマルが視線を巡らせて思案気に付け足す。
「『油女シエン』。それから、『油女シスイ』だ」
その言葉に、サクラが少し驚いたような顔をした。
「その人、何か関係あったの? ていうか、シスイって誰」
「ちょっと、私はどっちも知らないんだけど?」
シカマルがそんないの達にシエンとシスイの事、そしてそのシスイが下準備しに行っている事をかいつまんで説明すると、二人はふ~んと息を合わせて曖昧な反応示す。
さして引っかかるところが無かった為、シカマルが何を気にしているのか解らなかったらしいが、まあアンタがそう言うならとサクラもいのも了承した。
「それじゃ、今はその準備待ちってこと?」
「ああ。シビさんも色々根回ししに行ってる。でも準備が整い次第始めてかまわないってよ」
「随分強行軍ね」
「『色々』が面倒臭ぇんだろ。時間もそんなにねぇしな」
肩透かしを食ったようないのにシカマルも軽い調子で言葉を返す。
色々というのは上やら左右やらあれやこれやで、説明と説得と伺い立てはするが承認を待つ必要は無いということだ。
色々と思い当たる節があるのか、いのも軽く肩を竦めただけでそれ以上は言わずに首を傾げているサクラを振り返る。
「それでサクラはどうしたの」
「え? ああ、うん、ちょっと。シスイさんってもしかしてあの人かなぁと思ってただけ」
「なに、知り合い?」
「知り合いっていうか、見たことはあるかも。……あんまりよく憶えてないけど」
様子見に来た時なんかシノみたいに影薄いってか存在感無い感じの人が居た気がする。
と言うサクラに、「何それ」といのは竦めた肩を今度は脱力させた。
「う~ん、目立たなくて…地味? 空気? みたいな」
「どんどん酷くなってねぇか。……まあ、確かに派手な感じじゃなかったけどよ」
そんな言う程だったかなぁとサクラの言葉にシカマルも首を捻るので、益々分からない。
しかし、いのも釣られて小首を傾げたところへ現れた人物を見て、二人の言わんとする事を理解した。
「お待たせしました…」
「あ」
思わず声を上げてしまったいのに、開け放していた部屋の入り口に膝を突いた女性もいのに目を向け、軽く目礼されたので慌てて黙礼を返す。
「…こちらの準備は整いました。それからもうお一方、お連れしました」
「お、お邪魔します…」
「ヒナタ!」
女性の後ろ、障子戸の陰からおずおずと顔を出したヒナタをサクラが迎え入れ、そっちの用意は良いのかと尋ねている。
ヒナタ達もヒナタ達で何か準備をしていたのかと思いながら、いのはしゃがんでシカマルに確かめた。
「ね、あの人が、怪しいけど信頼されてるシノ係のシスイさん?」
「あ?……まあ、そうだけど」
シノ係って…と、シカマルの要約を更に約したいのに、シカマルが顔をしかめたがそんな事は気にしない。
「そう…やっぱり。でも油女の人だったんだ、納得」
「ん? 何だよ、お前こそ知り合いか?」
「知り合いっていうか…常連って程じゃないけど、昔から偶にウチに買い物に来る人。サクラの言う通りあんま印象に残ってなかったけど、顔見たら分かったわ。
今見ると、アンタの言うように空気って程でもないのね」
フッツーな感じ?
そう言ういのにそれも大概ヒデーぞと呟きながら、シカマルが気怠げに立ち上がる。それを見て、行動を開始するのだと察したいのもまた体勢を戻した。
サクラ達の方も動きに気付いたらしくこちらに視線を向けている。
「それじゃ、いっちょやるか。頼むぞ、いの」
加えてシカマルの視線も受けて、もう、こうなったらやるしかない。
……まあ、元々そのつもりでここまで来たのだ。
「しょうがないから頼まれてあげるわよ。この貸しは後でシノに倍にして返してもらうわ」
腕を組みそう言い切ったいのに、それが本気と悟ったのだろう、シカマルもサクラは苦笑いを浮かべ、ヒナタは「お、お手柔らかにお願いします…」とか細い声で申し出た。
「…それでは、何か要り用の物などはありますか」
ただ一人、シスイと言うらしい女性だけは態度を崩さず淡々とした物言いで尋ねてきたので、それじゃあとその場にいる全員に簡単な手順を説明しがてら伝えよう。
「何より一番必要なのは…忍耐よ。外で見守ってる側は、特にね」
その言葉に、ナルトが居なくて良かったと過半数が思った事は、いのの知るところでは無かった。
香の煙る中、緊張を孕んだ手先で印を組む。
正直、精神や記憶の探索調査における経験値は、少なくはないが多くもない。
集中する為に閉じていた目をそっと開ければ、薄暗い室内に意識を落として横たわるシノの姿がぼんやりと浮び、ちらと右手側にある顔を見遣って、その見慣れぬ光景に思わず目を
逸らしたくなる。
慣れないのは、そうして眠っている事もだが、それ以上に衰えているのが目に見えて分かる所為だろうか。
もともとムカつく程の色白で、寡黙さも相俟って無機物めいた、人間味の薄い奴だったけれど、今の様子はそれとはまた違った希薄さだ。
暗さの為顔色は伺い知れ無いが、筋肉が落ちたのだろう、全体的に痩せたのは判る。
そして何より落ち着かないこの感じは、あれだ。
生から遠のくモノに対して感じる、薄ら寒い、生気の薄弱。
思ったより死に近い。その事実に、恐怖を感じているのだ。
緊張から、肩に力が入る。
けれどその肩を、知ってか知らずか、サクラがぽんと軽く叩いた。
視線を向ければ、指示した通り私の肩に手を置いたまま、真っ直ぐに視線を返して、頷いてくる。
それから反対側の右肩に手を置いたヒナタを振り向けば、私以上に緊張した面持ちで、けれどもしっかりとした眼差しをしてこちらも頷いて見せるので、何だか緊張も恐怖も和らいだ気がした。
そうして幾分落ち着いたところで、少し離れた所に待機しているシカマルにも目配せすると、大丈夫だと言うように頷かれ、心は決まった。
「それじゃあ、始めるわ」
そう言うと、心なしか肩を支える二人の手に力が籠もる。
この術において注意が必要なのは、術者が相手の精神世界に呑まれてしまう事だ。
心転身の術などより強く干渉し、記憶を覗くよりも深く入り込むからであり、今回のように深層に達しようとする場合その危険性は更に上がる為、術者本体を支え繋ぎ止める役がより重要に
なってくる。
その役目に当たるのがサクラとヒナタで、この二人ならばチャクラコントロールにも優れているし、私との繋がりも申し分ない。
そしてシカマルは、何か起きた時の判断と対処の為に少し距離を置き、薄暗い室内でもまだ影の濃い場所で見守っており、シスイさんもまたシノを挟んだ向かい側、出入り口の付近に座して
有事に備えている。
(…ホントにまったく、この貸しは高く付くわよ)
最後にもう一押し、心中で悪態を吐いてから、印を組み上げ精神を集中させた。
―――暗い視界が更に深い闇に融けて行き、静かさを感知していた聴覚も閉じて行く。
―――ほぼ全ての感覚が塞がると、唯一、集中する際に好んで使う花のお香の馨(かおり)だけが仄かに残り、一筋の煙を幻視する。
―――暗転した世界の中を、漂う香煙を伴(とも)にして、泳ぎ、潜り、進むように、集中して行く。
――――――――――――
―――――――――
――――――
―――
短くも長い時間をそうして行くと、ふと、視界が開けた。
ふわふわとした感覚の中で一歩、足を踏み出してみれば、地に着くように降り立つ事ができる。
(よし)
無事に潜り込めた事を確信した私は、挑むように顔を上げ、もう一歩、意を決して踏み出した。
暗く、昏く、けれど暗闇が広がっている事は解る不思議な感覚。
それは、一歩また一歩と慎重に歩を進めて行く内に確信へと変わり、次第に足下にあった注意を周囲に向けていく。
(…なんか、地面があるってより、歩くと足場ができてる気がするけど)
親切なのか何なのか。
(シノらしい…のかしら?)
精神世界は、人によって大きく様相が違ってくる。
シャボン玉のようにカラフルに歪んでいたり、碁盤の目のように区画があったり。真っ暗である事も珍しいわけではないが、その中でも道が限られていたり、そもそも水中のように足場など
無かったりするのだ。
そんな不親切設計に比べれば、幾分マシな気がしないでもない。
(…一筋縄でいけば、だけど)
この世界の様相は、当然ながらその精神を持つ人物に因るものだ。
ここがシノの内部である以上、そう単純な構造とは思えない。
(あいつの性格からして、絶対裏があるわよね)
何食わぬ顔でしれっと秘匿するのが大得意な奴のことだ、きっとこの安穏と広がった暗闇は、親切ごかして何かを隠蔽しているに違いない。
人格が反映されているのだから、この世界観から逆に主人の人物像をプロファイリングする事も可能であり、暗闇は大事な情報を隠匿している場合が多いと教わった。
中でも特に気を付けなければいけないのは、『見付けにくい暗闇』と『暗闇しかない場合』だったはずだ。
前者はそのもの、隠そうとしているからだが、後者は更に大規模に、外部からの侵入に対して全てを覆い隠そうという心の顕れだろうと……。
(でも…この期に及んで、何を隠そうっての?)
敵地に潜入しているわけじゃあるまいし、と思いながら様子見がてら進めていた足を止める。
やはりどこまでも暗く、壁にも行き着かなければ躓くような物も無いようだ。
(サクラの話じゃ、シノは一ヶ月家に籠もってた。ならこんな風に内心を隠す必要なんて無いはずなのに…。
仮に小さい頃からの習癖だとしても、あんなに衰弱していて、しかも特に警戒していたわけでもない状態で、こんな風になるなんて…)
誰にだって人に知られたくない秘密はある。
しかしそれを隠したいなら、その秘密にしたい部分だけを隠せば良いのだ。
全体を隠そうとするのは、捕虜か、あるいは厳重警戒中か…。
何か、隠し通したいという、強い思いがあるか…。
(…何にしても、ここを突破しないと。幸い、そんなに強固ってワケじゃなさそうだし)
それでもやはり、警戒心は薄かったのだろう、難解な幻惑迷宮という訳ではない。薄皮一枚、あるいは薄い氷が張っているようなものだ。
(どこかから、慎重に入らないと――)
とは言え、慣れたはずの目で見回しても闇が広がるばかりで手掛かりは無い。
これが敵なら多少強硬な手段も取れるのだが、今回の注文ではそういう訳にもいかないし……。
(仕方ない…シノ相手だし、やってみるか)
考えられる手段を取り敢えず試してみようと身を屈め、足下に手を当てる。やはり何も無い空間に、触れてみれば拒む感触。
何を隠したいのかは知らないが。
(観念しなさい? 私達を心配させた、アンタが悪いんだからね!)
叫ぶように息を吸い込み、気合いを入れる。
そして、叫ぶ代わりに手を添えた箇所に向かって、シノの鉄仮面顔を思い浮かべながら、思いっ切り念を送った。
『私よ! 中に入れなさい、シノ!!』
慎重とは何だったのか、などという野暮は、この空間には存在しなかった。
しかし強気な方法とは裏腹に、する事はじっと待つ事。
意思とチャクラを少しずつ、地に染み込んだ水に根を伸ばしていく植物のようにじわじわと馴染ませ、こちらからも同調を図る。
そうしていく内、初めは何の反応も無かった闇の最中に、ぼんやりとした光が宿った。
黄緑色の小さな光が、足下に添えた手の奥からゆっくりと浮かび上がってくる。
そしてその光が手元に来た時、
『そういうことはもっと早く言いなさい!』
という「声」が聞こえると共に状況が一変した。
(えっ何今の!? ってか――)
声に驚いている間もなく、周囲の様子を見回してみる。
すると先程まで真っ暗闇だった世界には、上から下まで小さな光が無数に浮かんでいた―――いや。
(――光が、飛び回ってる?)
ゆっくりとだが動き回る光の動きから見て取るに、だだっ広い空間ではないらしい。
底も天井も見えないが、どうやら歪な円柱状の形に、横穴が空いている……蟻の巣の形に近いだろうか。その中を蛍のようなものが飛んでいるのだから、ますます虫の巣の様だ。
(どこまで虫々してるのよ、コイツは)
身体のみならず精神まで虫系統とは、シノらしいと言うか何というか…と半ば呆れつつ、それでもどうやら中に入れた事に一安心する。
(複雑な構造だと厄介だけど……。にしても、さっきの声は何だったのかしら。『そういうことはもっと早く言いなさい!』――だっけ?)
どっかで聞いたことある気がするんだけど…。
う~んと首を傾げながらも、このまま突っ立っていても仕方ないので改めて周囲の確認をすべく一歩二歩と踏み出してみた。
すると今度は道だけではなく、階段にもなってくれるらしい。
親切なのは変わらないようで、足下は底知れない程深いが、足を踏み外して落ちる事は無さそうだ。
もしかしたらこの親切さは私を認識したからかもしれない、とも思う。
さすがに上下左右、誰でも好きなように移動できてしまうのは親切というより無防備だ。
(……それとも、まだ裏があるのか)
中の様子をざっと確認し終え、いくつかの疑念を抱きつつ気を引き締め直す。
まず第一は、原因であろう深層部に辿り着くこと。今の問題は、前後上下左右、どの方向が深層に繋がっているのか、だ。
普通に考えれば下層だが、そんな平凡な考えが通じるとは限らない。
(あんまり時間かけて調べてらんないんだけど…)
それでもここは、一つ一つ調べていくしかないだろう。
(まずはここのこの方向を起点にして…っと)
チャクラを練り、印を結んで今の足場にマーキングを施す。
そこから取り敢えず上に100段、先程様子見した時より足を延ばして、また戻り、次に斜め左上、左、斜め左下…と行っては戻るを繰り返した。
そうして、方向感覚が狂わないように注意しながら調査を続ける事暫し。
下の方向に進んだ折り、浮遊にている小さな光が一つ二つ、自身に寄って来ている事に気が付いた。
(そういえば、何なのかしらこの光…)
上の方に行った時は近くに来なかった為あまり気にならなかったのだが、思えば明らかに意味あり気な光だ。
逃げ回るのを追いかけるのは気が引けるが、近寄って来るのなら気兼ねする事も無いだろう。
(触っても……大丈夫、かな?)
そっと手を出しても光は逃げる様子も無く、逆に自ら私の手に接触してくる。
その瞬間。
『ちょっとチョウジ。これからご飯なんだから、少し控えなさいよね』
という声が鮮明に聞こえてきた。
いや、聞こえた…と言うよりも、思い起こされた、と言う方が近いだろうか。
そう、思い出したのだ。
過去に、自分が言った、言葉と、声を。
(そうか。これって私の……ううん、『シノの中にある山中いのに関する記憶』?)
おそらく、だが、それが正解だろう。
心理や精神に記憶情報が影響している事は多い。
ただそれは記憶というよりは思い出であり、唯一無二の事実ではなくその人物の主観により脚色された真実である事もままあるらしい。
しかしそれでも、この光が情報であるなら大いなる収穫だ。
更に、私についての記憶…情報が、その情報源である自分に引き寄せられていると考えれば、内側に入って来られたのもそのリンクがあったからではないかと推測できる。
引き合っているのだ、私と、シノの中の私が。
(…それなら、この情報を手繰って行けば……)
私がシノに会ったのは、確か………そう、あれはシノの誕生日。今から約一ヶ月前だ。
(ああ、そうか、どうりで聞き覚えがあるはずだわ)
最初に聞こえた『そういうことはもっと早く言いなさい!』も、自分が言ったセリフだ。それこそ一月前、誕生日だったシノに。
さっき聞こえたチョウジ言った言葉も、多分、その時に言った…と思う。正直いつ言ったのか正確な事は覚えていないが、そもそもシノとはそれ程頻繁に会っていたわけではない。
ならばこの辺りはその時分の記憶帯と考えて良いはずだ。
推測ばかりだけれど、これしか深層部の方向を掴む手掛かりは無い。
(そしてシカマルから提示された手掛かりは、『一年前』と『油女シエン』と、『油女シスイ』。シノの性格からして、精神に影響を及ぼす記憶情報、思い出も、時系列で整理されている可能性が高い。
……ってかしてなさい。『一年前』に『何か』あったんなら、その辺に深部への入り口の一つや二つや三つ、あるに違いないわ! そうじゃなきゃ困る!)
うんそうよ!と見つけた手掛かりを頼りに奮起して、早速情報集めを開始する。今度は積極敵に光に触れていき、『一年前』を探し出すのだ。
そうと決まれば遠慮もしない。
自分のも他人のも関係なく、蛍狩りの如く光を捕まえ調べていく。
他者の光は、やはり少し逃げるような動きを見せたが、捕獲するのに苦になる程ではなく、懸念した拒絶反応などの問題も、見る限り起こらなかった。
しかも最初に触れた他者のそれはシカマルのものだったらしい。
一月前の時間帯と思われる場所で、シノの事を心配する言動を聞いた。
そして思わずにはいられなかった。
(だから、『そういうことはもっと早く言いなさい!』っての!)
ずっと黙っていたのだと言うことを再確認したので、戻ったらもう一度、シカマルを殴っても良いだろうか。
そんな私の思いを察したのか、手からするりと抜け出したシカマルの記憶が、勘弁してくれと言うように黄緑色の光を点滅させた。
虱潰しに光から情報を得続け、どれくらい経っただろうか。
もはや大まかな時間すら分からないが、けして短くはない時間を掛けて集めた情報から判明したのは、まず一つ、下層に向かう程過去の記憶帯に遡(さかのぼ)って行けるという事。
やはり時系列になっているのだ。一年前にあるであろう手掛かりを見つける為には、とても重要で、助かる情報だ。シノが几帳面な奴で良かった。
そして二つ、どうやら光から得られる情報は音声だけではないらしい。情景が見えることもあれば、匂いを感じることもあるし、それらの感覚が一緒に再現されることもある。
そして三つ、暗闇の中、ほのかな光とその動きを頼りにいくつか横穴に入ってみたところ、すぐに行き止まりになるものもあったが、ほとんどが迷路のように、それこそ蟻の巣のように、続いている事が分かってしまった。
これは、まあ、予想の範囲内ではあるけれど、やはり一朝一夕にはいかないという事だ。
取り敢えず、大体一年前と思われる時間帯にまではたどり着いたものの、さてどうしたものかと途方に暮れる。
一ヶ月前に私と会った時から遡ってきた時系列順から見て、この辺りが約一年前に当たるのは間違いないはずだ。この一帯の情報収集も粗方終えたが、季節感や、サクラからザックリ聞いた一年前のシノの行動と照らし合わせても、符合している。
しかしどういう訳か、『油女シエン』も『油女シスイ』も見つからないのだ。
シスイさんの方は、遡ってくる間に――特にここ一月の間は頻繁に――見受けられたが、今いる時間帯には全く見当たらない。ここに来て行き詰まってしまった。
(シカマルの奴、キーワード間違えたんじゃないでしょうね)
シカマルの頭脳の優秀さは間近で見てきて知っているし信用もしているが、今回の問題は、聞きかじった程度の私でさえ、雲を掴むような難題だという事はすぐ解った。
虫を専門とする油女が、専売特許と言える寄壊虫の事で頭を悩ませているのだ。いくら頭脳明晰と言っても門外漢のシカマルに、解き明かせるものだろうか。
そこまで考えてはっとする。
(いけないいけない、ぼんやりしてたら私まで暗くなっちゃう!)
ぶんぶんと頭を振り、気を引き締め直す。精神世界において、術者が注意しなければならない事の一つが、ネガティブ思考だ。圧倒的アウェーにいる訳だから、自分を強くしっかり保たなければ、呑まれてしまいかねない。
(大丈夫。大丈夫。私には戻ってやらなくちゃいけない事があるんだから。まずもう一回シカマル叩いて、シノが元気になったらぶん殴って、それから今回の貸しを大いに返してもらわなくちゃ)
こういう時、一番いい方法は今後の予定を考える事だ。漠然としたものよりは具体的に、明日のデートに着ていきたい服や、明後日のコンサートを絶対観るなど、単純で、下らなくて、けれど純粋に、強く思える事。
(シノが元気になる頃には、花も最盛期なはずだから、ウチの店手伝ってもらおうかしら。パパも喜ぶし)
そんな事を考えながら、出てくる前に世話をしていた黄色い菜の花を思い出す。確か、今手掛かりとして探している油女シエンは、菜の花で有名な農村地帯の火災で亡くなったのだったか。
(私も三つ葉村の事は知ってるけど…あそこ食用と菜種油と観光用だったから、花屋には卸してなかったのよねぇ)
一面に広がる黄色い菜の花畑。一度は行って観てみたいと思ってはいたが、結局行きそびれてしまった。
ふと、そんな思いに引かれてか、立ち往生していた私に一つ、光の粒が近寄ってくる。それは他と比べるととても小さくて、光も今にも消えてしまいそうな程弱々しい。初めて見る光の粒だった。
何だろうと思い触れてみれば、微かに香ったのは花の香りのようだ。
あまりに微か過ぎて何の花かまでは判らないが、もしも私が今考えていた事に引かれて来たのなら、菜の花の香りだろうか。
(あれ、シノも三つ葉村と関係あるんだっけ?)
シカマルとサクラの説明は端折りに端折ったものであったが、それでも急にもたらされた情報量は多くて、正直全部は覚えていない。
一体何なのかと思っていると、その弱々しい光はふわふわと言うよりはふらふらと言った様子で離れていく。
他に当ても無いので追っていくと、その光は不意に消えてしまった。
そう、消えた。
いや、確かに消えそうな光ではあったけれど、その消え方は本当に唐突で、まるで―――隠されてしまったかのような。
(っ、まさか――!)
慌てて光が消えた場所に両手を当てる。暗闇の中、そこには壁があるようだが、これは、あれだ。きっとそうに違いない。
暗闇の中に隠された、「見付けにくい暗闇」だ。
(一年前にある、隠された心の記憶――頼むから、ここが目的地であってよね…!)
勇んで中に入ろうと試みるが、押しても叩いてもただ堅いそこはびくともしない。
(往生際が悪いわね)
あまり素直でもそれはそれで不気味だが、いつまでもシノの中にいるわけにはいかないのだ、早々に入れてもらわなければ。
そのためにまず深呼吸をして、逸る気持ちを落ち着かせる。急がば回れ、ここで急いても仕損じる。
再びそっと両手を堅く閉ざされた場所に当て、最初の真っ暗闇の中で行ったように、自身のチャクラをゆっくりと馴染ませていった。
さすがに隠したい意思が強いのか、コンクリートに根を伸ばすが如くなかなか進まなかったが、先程この向こうに消えていった菜の花の香りを思い出して、こちらの考えに呼応するならと頭に菜の花や菜の花畑を思い描く。
その中でついでに虫も飛ばして、じっと、待った。
そうして体感的には長いこと待って、漸(ようや)く。
当てていた掌に、ずぶ、と壁にめり込むような感触があった。
集中するため閉じていた目を開けば、黒い粘土に手を押し込んでいるようになっている。
正直気持ちの良いものでは無かったが、ここで手を離せば元の木阿弥(もくあみ)かもしれないと、努めて平静を装い、覚悟を決めて息も止めて、えいと飛び込んだ。
(――っと、と?!?)
目も再び瞑り思い切りよく押し入ると、確かに粘土のような抵抗はあったものの思いの外すんなりと抜けて、入ることができた。
予想外のあっさりさに勢い余ってつんのめってしまったが、何とか踏み止まる。と、踏み出した足下が今までの闇とは違うことに気が付いた。
黒っぽくはあるが、土だ。ザラザラとした土でできた、地面。
顔を上げてみれば、目の前に広がる光景に戦慄した。
(なに、これ……)
私の出た場所が小高い丘の上だったらしく、見渡す限り、黒く煤(すす)けた焼け野原がどこまでも続き、空は燃えているかのように赤黒く、煙たい空気が充満している。
そんな中でも蛍のような光は、数は多く見えないが変わらず飛んでいて、さながら地獄の様な景色と相俟って蛍というよりは魂が浮遊している様だった。
背後を振り返れば3階建てくらいの塔があり、その出入り口が今出てきた所らしく、黒々とその色を湛えている。いくつかある窓も同じ様で、これでは建物内に入ることはできないだろう。
周囲を見渡し状況を確認してから、再度焼け野原に目を向けて、顔をしかめた。
これが現実に見た景色を現しているのか、心象風景なのか、はたまたその合わせ技なのかは判らないが、こんなのを隠す理由とは何なのか。
考えたくも無いけれど、もしかするとそれが解決の糸口になるかもしれない。
押し通って来た時に思い描いた菜の花に寄ってきたのか、ちらちらとした光が寄ってきたが、それもまた小さく、幽(かす)かでフラついている。
触れる、というよりも手を差し伸べてやれば、またしてもゾッとする光景が視えて思わず手を引っ込めてしまった。
引かれた手の風圧に負けたらしく、小さな光は飛ばされて少し離れた場所を漂った後、またフラフラと浮遊していく。その様子は弱々しいが、先程視えたものを思うと油断できない。
(ほんと、何なワケ!?)
おそらく、菜の花畑だったのだと思う。けれどそのほとんどが虫食い状態で、一つのイメージ映像として成り立っていなかったのだ。
記憶というのは、思い出せなくなることはあっても失われることはまず有り得ない。脳が、体が、精神が、覚えているもので、特殊な術でも掛けられない限りあんな風に虫食い状態になどなりはしないはずだ。
(やっぱり何か術でも絡んでるってこと? でも、記憶と今の状態と、何の関係があるってのよ)
記憶の喪失によって精神に影響が出ることや、そのことから肉体的にまで問題が及ぶことはあったとしても、シノの症状とは明らかに異なる。
そうした人間の精神世界はもっと破滅的で、現実的には発狂状態だ。
少なくとも一ヶ月前に会ったシノは――今思えばムカつく程に――相変わらずだった。
基本的に、記憶喪失で問題が起きるのは「思い出せない」という認識がある場合だ。思い出せない事に対するストレス、思い出せない事により生じる日常生活の難。
たとえ記憶を失ったとしても、それに気付かなければ実は大して困らないのだ。記憶はあっても思い出せない事など山程あるし、忘れた事さえ忘れたら、むしろ幸せに生きられるかもしれない。
(サクラ達から記憶障害の話は聞いてない…はず。ってことは、あの虫食い記憶をシノは認識してない。なら、問題にはならない)
それならあれも原因ではなく、シノの症状の一つか、あるいは全く別の話かだ。
とにかく、と気合いを入れ直して再び情報集めに奔走しなければならない。焼け野原は広大だ。せっかくここまで来たのだから、何か、手掛かりを見つけたい。
(シカマルからのオーダーにもまだ応えられてないし)
油女の、疑惑の二人も見つけなければ。
そう考えて探索を再会したのも、束の間。
雑音だったり虫食いだったり、ちゃんと視えたと思ったらただのロウソクの火だったり。何の事やらな情報に触れながら進んで行った時だった。
ザワザワとした気配に総毛立つ。
記憶情報ではない。今自分がいるこの空間内に、現れた気配。
(――――っ、何!?)
振り向き、仰ぎ見れば、闇か雲か、黒いもくもくとしたものが赤い空を、塔を、丘を、覆い尽くし始めていた。
こちらへ向かってもの凄い勢いで押し寄せてくるその様子は、この空間自体が崩壊し始めたのかとも一瞬思えたけれど、すぐに、やはり黒い何かが呑み込み、浸食してきているのだと解った。
蠢いているのが、視認できたからだ。
(ウソでしょ!?! 蟲?!?)
ここはシノの精神世界だ。いくらなんでも寄壊虫が物理的に入り込んでくるワケはない。それっぽい、蟲のような、黒い蠢く何かとしか言いようの無いモノが、この世界を埋め尽くして行く。
(もしかして、アレ防衛本能!?)
ヤバイと見るや否や駆け出しながら、考える。
精神世界に潜り込める術があるように、それに対抗する術や性質を持つ者も存在する。言ってしまえばこちらは侵入者なのだから、家の防犯システム然り、体の免疫機能然り。
しかも今回は一人で、念入りな前準備も無く突貫してきた。対抗策を封じる事も防衛された時対処する術も施していない。そんな時間は無かった。
ここまでは旧知の仲だから許していたのかもしれないが、さすがに入り込み過ぎたか。
(それにしたって、何でアレまで虫っぽいのよ! もう!!)
焼け焦げた野原を疾走しながら、正しく、手を当てられる光があれば手当たり次第に当てていく。
まだここの探索は始めたばかりだ。ここまで来て、このまま手ぶらで追い出されては堪らない。
とにかく一つでも多くの情報をと駆け抜けるも、排除しようとする黒い蠢きは距離を詰め、とうとう追い付かれてしまった。
呑み込まれる間際、伸ばした手の指先に光が触れる。
その光が私に視せたのは――――火の、海だった。
「―――――――っ、は、あ…?!?」
そして、今目の前にある光景は、何なんだろうか。
一瞬だけ視えた一面の火もすぐさま黒に塗り潰され、波に呑まれ押し流されるような感覚に襲われてあっという間。
反射的に止めて瞑った息と目を再開した時には、鮮明なお香の芳煙と、確固とした繋がりが私を引き戻し、受け止めて、しっかりとした現実味をもって迎え入れていた。
嗅覚が煙たい香りを吸い込んだ事を知らせてくる、触覚がサクラとヒナタの支えてくれている手の力強さを肩越しに伝えてくる、それで、視覚は。
「ちょっと! 何でこっちまで蟲なのよ!?!」
現実に戻って――正確には追い出されて――視界に飛び込んできた部屋を埋め尽くさんばかりの寄壊虫に、思わず、吸い込んだ空気を大きな声にして吐き出していた。
シノから一斉に出てきたのだろうか、こちらもこちらで、きのこ雲の如くもくもくとした黒い蟲達がシノを覆い隠し、更には私達の方へ襲いかかろうとしているかの様だ。
そんな光景をいきなり目の当たりにして、瞬間的には何か解らなかったが、理解が追い付くと戦慄が走った。
けれど。
「いの、戻った!?」
「お帰りなさい…大丈夫?」
左右から掛けられた二人の声にはっとして、周囲の状況へと目を向けられた。
「おう、戻ったか」
キョロキョロとすればサクラもヒナタも私の肩に手を置きながら、片膝を付いた臨戦態勢を取っており、
少し離れた所にいるシカマルを見れば、印を組んだままの体勢で視線も合わせず蟲の方を見据えていたが、掛けられた言葉は思いの外軽い口調のものだった。
向かい側にいるはずのシスイさんは蟲で隠れて見えないものの、ここまで見回して、現状を理解する。
蟲が覆っているから気付きにくかったが、電気が点いていて、影がはっきりと落ちている。そして、もくもくとした黒い集合体は、追いかけてきたものと違って蠢いていない。
そう、動いていない。
完全に、シカマルの術によって動きを封じられていた。
「………」
「………」
「………」
「……もうそろそろ、大丈夫かと」
「…本当っスか」
「先程までの激昂は感じられません。術を解いても、シノの中へ戻るだけだと」
「んじゃ、取り敢えず、ちょっとだけ…」
暫しの間続いた緊張状態。それを解く切っ掛けとなったのは、蟲の向こう側からしたシスイさんの声だった。
シカマルが少しだけ術を緩めたのか、自由の身になった数匹の蟲が動きを取り戻す。
それがどう動き、どこへ向かうのか、全員が小さな小さな虫の動向を注視した。
「……戻ってった?」
「……うん」
「じゃ、もう大丈夫?ってこと?」
「た、多分…」
左と右で交わされる、サクラとヒナタのぎこちない会話に、ちょっと苦笑いを浮かべる。
シスイさんはどうか知らないが、私達はそれなりに場数を踏み修羅場も潜り抜けてきた忍だと言うのに、あんな小さな虫の機嫌を窺っているのだ。
(まったく大したモンよね)
精神世界でも現実世界でも、虫々したものに、今日は振り回されっぱなしだ。
「それじゃあ、解くぞ。念の為、構えとけ」
シカマルの言葉に、気を引き締め直して身構える。サクラとヒナタもまた警戒態勢を取ったけれど、肩に置かれた手はそのままで、私が戻ってからもずっと当てられている。
その温かさに、警戒しながらも少し、ほっとした。
患部に手を当てる手当ては、医療用語というよりは民間療法に近く、もっと言えば『痛いの痛いの飛んで行け』のようなおまじないから来ていると聞いたことがある気がする。
気がするだけだが、まあ事実はどうであれ、人の手が触れているというのは悪くないと思えた。
一人ではないのだと、一緒にいる、大丈夫だと、勇気付けられる。
人の精神に深く潜った影響か、思ったより強ばっていたらしい体と心が、落ち着いていくのを感じた。
目の前で、シカマルの術から解放された寄壊虫達がざああっとシノの中へ戻っていく。
その動きが起こした風に髪を揺られながら、思う。
熱がダメなシノはきっと、人と触れ合う事も久しくしていないのだろう。
シノは、虫が好きだが、家族や仲間、人の事も大好きで、大事に想っている事を、私だって知っている。
蟲達はさすが訓練されているからか、それとも大切な宿主であるからか、きちんと吹き飛ばしていた布団も戻し、何事も無かったかのようにして帰って行った。
本当に、色んな意味で大した者達だ。
しんと静まりかえった部屋。しかし煌々と点っていた電気がパチッという音と共に消され、見ればシスイさんが電気のスイッチを切ったらしい。
目が慣れるまでのほんの少しの間、再び訪れた何も見えない暗闇に、シノの中を思い出す。
真っ暗な世界、静かな光、焼け焦げた野原、燃えるような空。
私が視ていないだけで明るいところもあるのかもしれないけれど、少なくとも今、シノの居る世界は、きっと風前の灯火だけの暗い世界。
一人は平気でも、孤独は嫌いな奴には、似合わない世界。
(そんな寂しいとこにいないで、あんたもさっさと戻って来なさいよ)
里はこれから暖かな季節を迎えて、色とりどりの花が美しく咲き誇り、人々も、そして虫達も、生き生きと息衝いて行く。
もし今年取り残されても、来年も、再来年も、その次、そのまた次だって、季節は巡って来るから。
(戻ってきて、花屋がいっちばん忙しい時季に手伝いなさい)
色と香りでむせかえる世界で、嫌と言うほどの花に埋もれて、皆に笑われたらいい。
そんなことを、暗闇に順応した目に浮かぶ、薄ぼんやりとしたシノに思う。
蟲の起こした風によって散らされていたお香の薫りが、ふわと舞い戻り、暗い部屋から出る時を私に知らせてきた。
夕暮れも間近に迫る頃、サイは図書館から裏道を通って油女邸へと向かっていた。特にこれといった収穫は無かったが、シカマルに一度合流するように言われている。
シノの家には何度か訪れた事があり、いくつか向かうためのルートも知っていて、今回選んだのは雑木林を通っていく最短ルートだった。
道という道も整備されておらず、滅多に人も通らないであろうその道を行くと、木々の中に唐突に塀が現れる。
自然との境界であるはずのそれは、それでも自然と共存する油女の界である為か、枝を伸ばし頭上を越してくる木々の侵入を許していた。
そんな、人通りの無い裏道で、門の方へ回り込もうとしてたサイはふと、人の気配を感知する。
こんな所に誰だろうと見上げれば、最初目が合ったのは、人ではなく大きく白い、赤を冠する忍犬であった。
「やあ、赤丸。それにキバも。そんな所で何してるのかな」
塀の向こうへ張り出している樹木の一つ、まだ芽吹いていない冬の装いの中。
どういう経緯か知らないが一つの枝に吊された古ぼけた虫カゴの、目を引く緑色の傍らに彼等を見付けて挨拶をすれば、
ワンッと抑えめながらもしっかりとした挨拶を犬の方には返される。
人の方は言えば、とっくにサイの存在に気付いていたのだろう、腕を枕にして幹にもたれ掛かり太めの枝に座って脚を投げ出した体勢で、
「いいだろ別に」と目を閉じながら何ともおざなりな返事をされた。
ここに居るという事はシノの事を気に掛けているという事なのだろうが、何故こんな所でと首を傾げる。
「中に入らないの?」
「…俺は入らねぇ」
おざなりだが、質問には答えてくれるらしい。
そう言うところ君達律儀だよねと同班の、今朝行動を共にした彼女と、塀の向こうにいる問題の彼を思い起こす。ヒナタは、無事に想いを手紙に託せただろうか。
そんな事を頭の端に浮かべながら、サイはキバを見上げ続けた。
サイが見続けるからか、キバとは違う枝に体躯を預けながらもキバに寄り添う赤丸が、サイとキバを交互に見遣る。
それでもキバは目も口も閉じたまま、体勢も崩さない。
「………」
キバの事だ、中にサクラ達が居ることには当然気付いているに違いない。
その上でここに居る選択をしているのだろうが、考えてみても、やはりサイにはその行動の意味も意図も解りはしなかった。
それだけではない。
キバがどれだけの情報を持っているのか、サクラ達が何をしているのか、何を疑っているのか、そして一週間の期限が切られた事を、知っているのか。
等々疑問は尽きないが、それをいちいち問答する暇は無いし、見上げる首も少々キツい。
「ねえ、キバ」
だから今は、これだけにしようと、サイは語りかけた。
「感情って、けっこう思い通りにならないものだよね」
唐突な話題にいきなり何だと思ったのか、ようやくキバがサイに目を向ける。それを真っ直ぐに見返しながら、心持ち声量を上げた。
「ヒナタに聞いたよ、シノが黙っていた事でケンカになったって」
「何だよ、俺が感情抑えられてねぇって言いてぇのか」
「…違うよ。君じゃなくて、シノの話さ」
「っ、」
話し始めて早々、急に表情と声を険しくしたキバにおやと思う。先程の言葉に反応して自分の事だと思ったということは、キバ自身、感情的になって怒りをぶつけた事を気にしているのだろうか。
(それならこれは、やっぱり君の話にもなるのかな)
自分の早とちりにはっとして気まずそうな顔になったキバに、ちょっとおかしくなって笑みを浮かべる。
笑おうとして笑ったのではなく、自然とこぼれた笑みが、きっとこれから話す事の全てだろう。
「シノがどうして君達に何も言わなかったのか、僕には分からないけど……少なくとも僕の知っているシノはそういう重大な事を仲間に…君達に、黙っている人ではないよ。
キバ達が快く思わないのは判りきってる、自明の理だ」
サイがヒナタの話を聞いてまず抱いたのは、シノが秘匿したという事に対する違和感だった。彼は秘密主義ではあるが、言わなくて良い事と言うべき事は明確に分けるタイプだと、
サイは思っていたからだ。
シカマル程ではないものの常に物事の先を読む先見の明に優れたタイプで、自分の言動が周囲にどう影響するかを考えられる人物であり、
今回のようないつか知られる事態を「言わない」事がどういう混乱を招くのか、少なくともサイの知るシノならば、予想できないはずは無い。
今、無愛想にサイの話を聞いているキバ達やヒナタは、シノにとって特別だろうから尚更だ。
ナルトやサクラにとって、またうちはサスケにとって互いに特別であるように。―――サイにとっても、特別であるように。最初に心を通わせた仲間の気持ちを、考えないはずが無い。
「それでも君達に言わなかった…いや…言えなかったのなら、それは、シノも感情的になっていたからじゃないかと、僕は思う。だからキバ――分かってあげなよ」
僕には分からないけれど。
特別な君達は、分かち合うことができると思うんだ。
理解でも判断でもなく、ただ、分かってあげることが。
きっとキバも、シノに分かって欲しかったからケンカになったのだろう。
「感情って、なかなか思い通りにできないものだろう? 普通は自然に出るものだから。シノのは、気付き難いかもしれないけど…それは君の方が、僕よりもずっと知ってるんじゃないかな」
キバは変わらず黙っている。何か言いたげな顔に見えるが言葉は無い。
それでもサイは言いたい事は言えたので、にこりと一つ笑みを向けて「僕が言いたいのはそれだけ。じゃあね」と頭を戻した。
上を見ながら声を張っていた為少々強ばった首を回して、再び歩き出そうとして、はたと止まる。そしてもう一度キバを見上げて尋ねた。
「そうだキバ、君、シノの匂いに違和感とか無かった?」
「……匂い? また何だよいきなり」
「ほら、犬が病気の異変を匂いで感知するってあるじゃないか。あれは特定の匂いを覚えさせているからだけど、君ならいつもと違う匂いがしたら気付くと思うんだ」
どうだった?とサイが聞くと、キバは赤丸と顔を見合わせてから不満気に答えた。
「どうも何も、そもそも生き物の匂いは一定じゃねぇし、あいつの場合蟲の匂いもけっこう変わるから、多少違ったって気にしねぇよ。…少なくとも俺も赤丸も、変だと思う事ぁ無かった」
あったら言われる前に気付いてんだよと言う恨み言を聞き流しながら、そうなんだとサイは頭を捻った。
言われてみれば確かに体臭は変化するものだ。が、それでもキバ達の鼻は一人一人の匂いを識別することができる。
その二人が気付かなかったと言うならば、シノと、シノの蟲の匂いに大きな異常は無かったのだろう。
(……本当に、蟲に原因があるのかな)
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サイ、頑張って空気を読むの巻き。
サイとヒナタのツーショット会話って、なんだかとても不思議な感じです。
でも慣れてないだけで、そのうち自然な感じになるんだろう。
この世界、電子メールが無い(よね?)ので手紙になりますが、手紙、良いですよね。
そして菜の花畑の農村に名前が付きました。それに伴いScene1に修正を加えました。サイがちょろっと言ってます。
四つ葉の花言葉は「幸運」で有名ですが、実は三つ葉も「幸福」なんですよね。
でもクローバー(シロツメクサ)は「復讐」という。…白詰草って花冠のイメージがあるのに意外というか。面白いですね!
また山中家の術がよく分からず、精神世界面の部分は妄想空想大爆発ですスミマセン。(まあ妄想なのはいつもの事ですが)
イメージは胎内巡りですが、ただ術名などあまり詳しい事には触れない方向です。
あ、あと、いのちゃんのターンは雰囲気づくりの一環として一人称にしております。普段三人称なのでどこかで間違える気がとてもします…;
それはともかく、線香って、香は故人の食べ物で、煙は穢れを清浄にすると共に「あの世」と「この世」の橋渡しをしてくれる道しるべなんだとか。
香を取り入れようと思って検索したら予想外にピッタリで吃驚しました。シノは故人ではないんですけどね!