風邪のお見舞い(下)
「シノ」
ぼやける視界の中に、見慣れた大きな影を捉える。
「親父…」
「熱は」
その端的な言葉に、先程脇に挟んだ体温計の存在を思い出す。ほんの一瞬、意識を失っていたらしい。
何か夢を見た気がするが、どんな内容だったか思い出せそうで思い出せない。一瞬にしては、長かった気もする。
そんなことを漠然と思いながら取り出した体温計の表示する数値は38度5分。知らず、笑みが零れる。
間違いなく、キバの風邪をもらってしまったのだ。
「担当上忍には連絡しておく。薬はここに置いた。俺は任務でしばらくいなくなるが、無理はするな」
熱を確認したシビが淡々と短く言うと、シノはそれに頷いた。
シビもそれに頷き返し、そっと離れようとしたが、不意に動きを止める。
シノの手が、服の裾を掴んでいたからだ。
何だと言うように息子を見、僅かに首を傾げる。
無意識だったのだろう。シノは吃驚したようにぱっと手を放し「何でもない」と早口に応えた。
シビは暫しそのまま動かなかったが、何を思い至ったのかシノの頭に手を置いた。
突然何だと今度はシノが眉を寄せて父親を見る。
頭を撫でられることはたまにあるが、いつも唐突で、なぜそうするのかずっと謎だ。
息子に不審がられていると知ってか知らずか、シビはシノの無言の問いかけに応えず、手を離すと「行ってくる」と音もなく部屋を後にした。
相変わらずよくわからないと思いながらも、まあいつものことかと寝返りを打つ。大きな手で撫でられたところが妙に熱い。
引き留めてしまった手を眺めて、一体どうしたのかと問いかけたが、答えは返ってこなかった。
とにかく用意してもらったお粥と薬を腹に入れて、そのまま静かに、瞼をおろした。
(油女くんってちょっと近寄りがたいって言うか…不気味よね)
(なんだよあいつ、ムカツク!)
(生意気な奴)
アカデミー時代に、聞き慣れた陰口。
―――――――ああ。さっきと同じ夢だ
シノは教室で、本を読む昔の自分と数人の人影を眺めていた。
人影はまばらでぼんやりと陽炎のようにはっきりとしないのに、自分の姿と口々に囁かれる声は鮮明だ。
そんな不可思議な世界を不思議とも思わず、折角こそこそ言うのだから本人に聞かれては意味がない、とそう思った。
…なんてそんなことを考える様だから陰口をたたかれるのだろうなと、そうも思う。
自嘲的にでなく、ただ淡々と。
自分は決して人に好かれる性格ではない。それはわかっていた。
近付き難い容姿と雰囲気。口調は事務的で、正論を並べ立てる厄介者。
これは自覚と言うより、周囲の自分への評価を客観的に理解したに過ぎないが、間違いではないだろう。
世界が揺らぎ、次の瞬間には幼い自分の視点に立っていた。目の前に立つ大きな黒い人影が自分を見下ろしている。
(ああ、これが油女の…)
大人達に、よく言われた台詞。
蟲のことを知る人達は、決まって言葉を濁した。
その目は納得であったり同情であったり嫌悪であったり様々だ。
それでも誰一人として、好感を持った様子はなかった。誰も、自分に触れようとはしなかった。
(寂しく…ないの?)
背中に聞こえた声に振り向く。
そこにはヒナタが居て、いつもの背格好なので幼い自分より背が高い。ヒナタを見上げているのが、妙な感じだ。
別に、何とも思わない。
そんな言葉が、空虚に響く。
答えたのは、自分なのかそうでないのか。
ただ、強く同意した。
他人が自分のことをどう思い何を言おうと、基本的にどうでもいいことだ。
そんなことにかまってはいられない。
自分は忍になるのだから。
そのために生まれたのだから。
寂しいなどと…。
(好きだ…)
低く優しく響く音声にはっとすると、今度は見覚えのある光景が目に飛び込んできた。
いつもの野性的な面影も無く、落ち着きのない犬のような態度でもない。
切なげな表情の、はじめて目にするキバの姿。正しくホワイトデーの再現。
「……好きなんだ…シノ……」
しかしキバは逃げ出さずに言葉を続けた。
「…………どうして…」
呟くシノに、キバが徐に顔を寄せてくる。
ぎゅうと胸が押しつぶされそうな感覚に、思わず押さえていたキバのジャケットを握り締めた。
唇が触れる瞬間、再び、夢から醒める。
どのくらい経ったのだろう。
蟲たちが、シノの中でざわめいた。
覚醒しきらない頭の中に、訪問者を告げられる。
無意識の内に部屋を出て、寝間着のまま、ふわふわとした足取りで玄関の方へと歩いて行った。
習慣から、サングラスだけは忘れなかった。
「シノ!?」
玄関を出て門まで来ると、びっくり眼のキバが立っていた。
「何でお前が出てくんだよ…風邪は?」
「蟲は、まず訪問者と親しい者を呼び出す。他の誰かに頼むこともできたが、ちょうど目が覚めたところだったので俺が来た」
そう話すシノを、キバはやはり不思議そうに見ていた。
「ここで立ち話をしていても埒があかない。入れ、キバ……!」
「うおっ!?」
シノは、門の外側でぼけっと突っ立っているキバの腕を取り、引っ張ったが、その拍子に自分の方がよろけて倒れそうになった。
それをキバが咄嗟に支える。
「やっぱりな。変だと思ってたんだ。何でもないみたいに涼しい顔しやがって!!」
「………お前だって、平然としてただろう……」
「俺は本当に平気だったんだ!」
「…………俺も、今までは平気だった……」
「…………寝惚けてたろ、お前……」
「…………」
シノの無言は、肯定を意味する。
キバは溜め息をつき、シノの腕を肩に回してしっかりと支え、部屋へとシノを連れて行った。
部屋に着く頃にはシノはすっかり具合の悪さを思い出し、ぐったりとして、もはや全てをキバに預けていた。
「ほら、見舞い。ヒナタも買う時は一緒だったんだけど、なんか、家の用事でどうしても来れないって」
「………そうか」
キバの助力で布団に収まったシノは、サングラスを掛けたままだ。
「あのレモンティー、お前のお薦めだってヒナタが言うからさ、家にあると思ってやめたんだ。
リンゴでも良かったけど、梨の方が食いやすいかと……俺は軟らかすぎて好きじゃねーけど」
キバはそんな事を言いながら、自分とヒナタの見舞いの品――梨3つとロイヤルゼリー一袋を、文机上の薬と茶碗の隣に置く。
そして、茶碗の中に冷めたお粥が半分程残っているのに気付いた。
「なんだよお前、これしか食ってねーの?」
「……………食べは、した」
「そりゃ、屁理屈っつーの!いいよ、俺が梨切ってきてやる」
そう言うなりキバが立ち上ると、シノはそれを強い口調で制した。
「虫を、放し飼いにしている、と言ったろう」
「あ…そういやぁ、んなこと言ってたな。……でもよ、やっぱなんか食った方がいいって。……冷めた粥は不味いしなぁ」
それでもまだこだわるキバに、シノは一つの棚の引き出しを示した。
「そこに、新品のナイフが、入っている……」
キバが指示された引き出しの中を漁ると、確かに、新品のナイフが一本あった。
「うっしゃ。教えるってことは、切ったら食うんだろ、梨」
シノが頷くのも確認せず、キバはビニール袋の上で梨を器用に剥き始めた。
サバイバルの得意な8班だ。シノもヒナタも、勿論キバも、ナイフの扱いは当然上手い。
難なく剥き終えると、食べやすい大きさに切ったが、皿も爪楊枝も無いことに気付いた。
「………そのままで、いい」
きょろきょろと見回すキバを見て、始めから無いことに気付いていたシノは、上体を起こしながら言った。
「大丈夫か?」
「……すまん」
なんとか起き上がったものの辛そうなシノに、キバは寄り添って背を支えた。ついでにビニール袋毎梨を引き寄せる。
思いの外シノに密着する格好になって、キバの鼓動は早まった。しかも布団の上…。
そんなことは露知らず、シノは律儀にいただきますと手を合わせてから梨に手を伸ばす。
かなり熟成していたのか、しゃくしゃくと音も殆どせず、しばらくの間妙な沈黙が部屋を支配した。
そんな沈黙の中、キバは心臓の音が聞こえやしないかと気が気でなかった。
寝間着なので、普段見られない首筋や体の線が目の前に露わになり、その上支えた背中からいつもより高いであろう温もりまで伝わって来る。
もう、本当に気が気じゃなかった。
先程部屋までシノを抱えて来た時何ともなかった自分が、信じられない。
「キバ」
「はい!?」
ぐるぐる回る本能と理性の合間に、突然シノの声が割り込んできた。そのため、なんとも変な声が出る。
キバのすぐ目の前で、シノは一瞬訝しそうに眉を寄せたが、そのことには触れずに要件を言ってきた。
「俺は、薬を飲んで、寝る。お前は帰れ」
少し眠くなったのか、怠そうにサングラスを押し上げ目を擦りながら辿々しく言う。
普段からは想像も出来ないそんな子供っぽい所作に、キバの心臓はここぞとばかりに飛び跳ねた。
そんなキバにかまわずシノは棚に手を伸ばして薬を取り、水がないのでそのまま飲み込む。
ほうっと一息ついて、シノはキバにかけていた体重を自身の右腕に移してキバを振り向いた。
「キバ」
言外に、寝るから早く帰れと促されているのはわかったが、キバがそんな気分になるはずもない。
不謹慎この上ないが、もっとシノを見ていたいというのが本音だ。
だがしかし、いくら病気でも頑固なシノには何を言っても無駄だろう。
病人が眠りたいのを、邪魔するわけにもいかない。
仕方がないと心の中で至極残念そうに呟き、キバはシノから身を離した。
が、そのキバのジャケットの襟元を、シノが左手でがしっと掴む。
「その前に…聞いておきたいことがある」
「あ? なに?」
先程の夢。なぜか、今度は覚えていた。
「……お前は、俺を好きだと言ったが、そう思った要因は、何だ」
「へ………??」
ヨウインという言葉がすぐに漢字変換できず、キバは暫し困惑していたが、漸く、シノを好きになった理由を聞いているのだと理解すると今度は唖然とした。
(今、それを聞くんですか…!?)
あまりに唐突過ぎる。
しかも、端から見れば喧嘩を売っている様な物腰だが、キバの視点からだと無意識無防備に誘っているようにしか見えない。
しかしシノは熱の所為かそれとも天然故か、至って真剣な眼差しをサングラス越しにひたとキバに向けてくる。
「い、今…言わなきゃだ、ダメ?」
ドキドキと高鳴る心臓に声がひっくり返りそうになる。
「今だ。気になって、眠れない」
そう即答され、キバは顔を真っ赤にしながらシノの視線を返した。
一体どういう経路でそんな質問がぽんと出てきたのか全くわからないが、これは答えなければ引き下がりそうもない。
「えっと…まぁ…なんだ…」
キバは言葉を濁らせ視線を逸らし、ついさっきとは反対に今すぐ帰りたいと願ったが、逃げれば確実に機嫌を損ねるだろう。
シノは黙ったまま、だが眼差しは相変わらずキバを捕らえて放さない。
死ぬ程恥ずかしいが、仕方ないと腹を括り、キバは再びシノと視線を合わせた。
そして、徐にぎこちなくサングラスを掴み、ゆっくりと外す。
シノは1,2度瞬きをしただけで、何も言わずキバの言葉を待つ。
「お前の目…ガキの頃に見て。で、一目惚れして…。性格とか、物言いとか、気にいらねーこと多いけど…その…
優しいとことか、一人でいるとことか、すごい気になって。一緒にいると嬉しい気持ちでいっぱいになるし、でもお前が
ヒナタとかシカマルとかと一緒にいたりするとすっげームカついて、なんか焦って。それから、それから…」
口火を切れば、ぼろぼろと零れてくるシノを好きな理由と気持ち。
しかし、伝えるには言葉では足りなくて、キバは一心に向けられるシノの眼差しを受けながら、シノに口吻をした。
仄かに、梨の味。マシュマロより控えめな甘さの影響か、あの時とは比べ物にならない程優しい、静かなキス。
飢えを満たすためでなく、ただ、好きだから。その気持ちを表したいがため。
「…………ん………」
少し長めの間に、塞いだ口から微かに声が漏れ、ジャケットを掴んだ手がそのままキバを僅かに押した。
止めろという無言の合図に気付きキバが顔を離すと、頬が少し赤くなったシノの顔が見えた。
「キバ‥」
咎めるような口調に、怒られると思ったが、そうではなかった。
「風邪がうつる…」
「あ……ああ。なんだ」
言われた言葉にほっとして、思わずキバは思わずにやける。
「………俺の風邪がうつったんだろ。俺には免疫できてっから、平気だって」
「………なるほど……?」
納得したようなしてないような答え。きっと、頭が上手く回っていないのだろう。でなければあんな質問を唐突にするはずがない。
「こんなふうに、キス、したいと思ったんだ」
なんだか夢虚ろなシノの様子と、キスに対して文句も無いばかりか自分の心配をしてくれたことに気分を良くし、キバはへへ、と笑った。
「これが理由だ。文句あっか?」
あるなら言ってみろと、キバが言う。
するとシノは少し黙ってから、小さく呟いた。
「蟲は…」
「ム……? ああ、蟲か。それがどした?」
「嫌では、ないのか?」
「あ?」
眉間に皺を寄せ、シノははじめてキバから視線を逸らし僅かに俯く。
逆に、今度はキバがまじまじとシノを見やった。
「だってお前の相棒だろ。俺にとっちゃ赤丸と同じだ。嫌なわけねーじゃん」
「……………そうか…」
シノはキバの躊躇い無い答えを聞くと、再び視線を上げ、それから微かに頷いて掴んでいたジャケットをゆっくり放した。
するといつの間に体から出したのか、指先に乗せた一匹の蟲を見る。
「少し、待て。今誰か呼んで、送らせる」
「………」
そう言うシノの表情はどこか安堵の色が窺える。
それはつまり、なにか不安だったということではないか。
キバは何だか堪らなくなり、シノが蟲を使いに飛ばす前に、その腕を掴んで体毎引き寄せた。
急に引かれたことで体重の大半を支えていた右腕がバランスを崩し、シノはキバの懐に倒れ込んだ。
そのまま、キバにぎゅうと抱き込まれる。
「キバ…!?」
抱き締められたことに戸惑い、同時にドキリと跳ねた自分の心臓にも動揺して、シノは少し抗ったが、結局キバの腕の中に閉じこめられた。
「………帰らねぇ」
「…………」
閉じこめられた場所は温かく、とても居心地が良くて、シノは観念して体から力を抜いた。
目を閉じると、トクトクと安心する音が耳の奥に響く。
「静かにしてるから。一緒に居させろよ」
「………………ああ」
どうやら、どうでもよくはなかったらしい、とシノは思った。
性格の事も、蟲の事も、気にしていたのは自分の方だったのではないか。
人に好かれないと思っていたから、自分から避けていた。
何とも思わないように。
寂しくならないように。
よくわからないが、なんだかすっきりした。
より深い思考は後々でもいいだろう。
今はとにかくこの至福に浸りたいと、心地良い場所に身を任せ、意識を沈めた。
腕の中で静かに眠りに落ちたシノを見て、キバは微笑んだ。
気を付けて腕を外し、シノの肩まで布団を引っ張り上げる。
そして再び、やんわりと抱いた。
「おやすみ、シノ」
命令され損ね、暫く空中に避難していた蟲が一匹、ブゥンという羽音を残して、愛しい家へと帰るべくシノの袖口に姿を消した。
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あとがき
大変お待たせ致しました。風邪のお見舞い(上)の続きです。
キバの風邪がシノにうつってしまうというよくある(?)パターン。
シノの心情を書こうとしましたが、微妙ですね…。難しい。
キバの時の方が書きやすかったです。
まあ、二人とも幸せそうな終わりになったので……ね。
良しとしてくだされば有り難い!
お茶目なシビさんは書けませんでしたが、よくわからないと思いながらもやっぱりそっくりな親子を書けたと思います。
他から見れば、君も十分謎だぞ、シノ!(笑)
バレンタインから始まったこのキバシノシリーズは、一段落といった感じです。
が、続く可能性も十分あります。
今後も、宜しくお願い致します。
(07/4/11)