ふわりと 薫る香に 足を止めた。
その 懐かしい芳しさに安らぐ心は けれど同時に焦燥も抱く。
温かさと幸せの中に刺さったままの 切なさと 怖れと 微かな痛み。
シノはふっと目を伏せ、絡みつくような金木犀の芳香を、振り切るように歩き出した。
Sweet fragrance(甘い芳香)
ピンポン、ピンポン、と何度呼び鈴を鳴らしても応答がない。
「…………」
少し考えてから、ドアノブに手を掛けてみる。
取っ手は回ったとしても、掛かった鍵が阻まなければならない侵入者。
だがその扉は何にも引っ掛からず、阻まれることもなく、侵入者は容易に侵入を許されてしまった。
「…………」
眉を顰めた侵入者が、中へと入る。
引っ越してきてからもう半年以上経つと言うのに、閑散としていてあまり生活感の無い部屋。
昔の家の物は引っ越しの際、本棚からソファから何から何まで処分してしまって家具は一新された
……とは言え、そのどれにも、あまりにも使われた形跡が無い。
生活感がかろうじてあるのは水場と寝室のベッド、そしてリビングのソファ…。
そのソファに目を遣った侵入者は、見つけたと言う代わりに小さな溜め息を吐いた。
家の主が、そこで寝そべっていたのだ。
鍵も掛けずに不用心な…。
そう思った侵入者だったが、不意に嫌な予感に襲われる。
仮にも木ノ葉の忍――それも特別上忍が、寝込みとは言え侵入者に気付かないものだろうか。
しかもこの家の主には、家の中で瀕死状態に陥ったという前科がある。
過ぎった不安に血の気が引き、侵入者は急いで家主の顔を覗き込んだ。
ソファの肘掛けを枕代わりにして仰向けで眠るその顔は、光りの加減か白んではいるが青ざめてはいない。血の気もある。
口元に顔を寄せてみれば、静かに、緩やかな呼吸が繰り返されている。
どうやら、ただ眠っているだけらしい。
侵入者は安堵の息を吐くと、もう一度その穏やかな寝顔を見つめた。
「…………」
この人は少し前まで、死に対して酷く無頓着だったのだ。
それは他人の死も、知人友人の死も、自身の死でさえも、そうだった。
忍としては当然の心構えだし、自分だって人のことは言えないが、それでもこの人の無頓着ぶりは不安を誘った。
心配で、頻繁に家を訪ねたりもした。
新居に引っ越してからも、もう大丈夫とは言われたが不安は拭えない。
この人はよく笑うが、その笑顔をどこまで信用して良いものか…。
「…………」
自身を大事にしてほしいし、死なないでほしい……と思う。
オレにはアナタが必要だ―――。
覗き込んだ顔に、侵入者はそっと唇を動かしてみた。
「 」
「 」
「 」
声には出さず、まだ呼ぶのに抵抗を感じるその名を口にする。
けれど、その名前の主に起きる気配は無い。
「…………」
肌寒くなったこの季節に、何もかけずこんなところで眠っていては風邪をひく…。
起こすのも偲びないと侵入者は思い立ち、寝室からタオルケットでも持ってこようと身を起こした。
前の家でも似たようなことがありその時は寝室に入るのが躊躇われたが、今はもう躊躇いも遠慮も無い。
その寝室で一夜を共にすることだってあるのだ。
最早自分の寝室と言っても、過言ではなかった。
勝手知ったるなんとやら。
早々に掛ける物を持ってくれば、家主は変わらず眠り続けていた。
いくら休みだからと言って油断しすぎだろう……。
少々呆れて思いつつも、そっと薄布団を掛けてやる。
そして再び、今度は膝立ちになってその寝顔をじっくりと眺めた。
目鼻立ちの整った、端整な顔立ち。長めの睫毛。そして、羨ましいほど綺麗な髪。
「…………」
思わず、見惚れてしまった。
侵入者ははっと我に帰ると、頬を染めて慌てて目を引き剥がした。
「…………」
が、やはり気になって、そっと横目でまた見遣る。
「…………」
やはり、綺麗だった。
そしてそれは、およそ2年前に見た光景を思い起こさせた。
「…………」
暫し考えた末に、もそもそとポーチからノートを取り出す侵入者。
以前、この目の前で眠る人からもらった物だ。
ゴムバンドを外しぱらぱらと捲っていけば、蟲のスケッチや日程などのメモ書きが十数ページ続いている。
そんなノートの、一番最後のページを開いた侵入者は、ちらりと眠る家主に目を遣るとその寝顔を描き写し始めた。
整った顔の輪郭。閉じた瞼。眉、鼻、唇…。
額や頬にかかる細い髪の毛一本一本を、何度も見、観察を繰り返して、丁寧にスケッチしていく。
この顔を初めて描いたのは、里の古書類が納めされた閉架書庫の中だった。
その時のスケッチが今どこにあるのかは知らないが、その時の光景は、今でもはっきりと覚えている。
格子窓から差し込む日影。
その日光が当たって光る、綺麗な髪。
うたたねををする、無邪気な横顔…。
あの時も、この人はとても綺麗だった。
そして、あれからずっと、自分はこの人に見惚れている。
見惚れ続けている―――。
「…………」
髪や睫毛、凹凸(おうとつ)によって生じた影の濃淡まで書き込んで、筆を置いた。
膝立ちを続けていた姿勢を、ふう…という溜め息と共に崩す。
呆けたようにペタンと座り込み、自分は何をしているのだろう……と思う。
ふわっと、不意に甘い香りがしたような気がした。
振り切ったはずの金木犀の香りが、どこからか侵入してきたようだ。
焦燥と切なさと怖れと痛みが、再び逆撫でされる。
この匂いの中で、初めてこの人に触れられた。
この匂いの中で、この人はあの人を思って泣いた。
初めてスケッチをした、あのメモ帳の元の持ち主だったという――月光ハヤテという人物を…。
「…………」
目頭が熱くなり、眉根を寄せる。
それでも堪えきれず、サングラスを外して零れる前に拭い取った。
ずっと見惚れている。
けれどこの人が見ている先に、自分はいるのだろうか。
好きだと言ったのは自分だった。
それに、この人は応えてくれた。
けれど、きっとこの人の中には彼がいて、いなくなることは無いのだろう。
大事な人を、死んだからと言って忘れてくれとは言えない。
そんなことは、言ってはいけない。
けれど。
でも…。
(この人は、まだあのメモ帳を持っているのだろうか…)
彼の遺品だというリングで綴じられた小さなメモ帳を、この人はどうしたのだろう。
祖父の手記が残されていた本のように、燃やしてしまっただろうか。
それとも、まだ大切に、どこかに仕舞ってあるのだろうか。
あのメモ帳のメモ書きと血の痕……彼の痕跡を見つけた時。
これは自分が持っていてはいけないものだ――と直感した。
自分が見てはいけなかったもの。
自分が汚してはいけないもの。
自分が立ち入ってはいけない、記憶と傷……。
「シノ」
侵入者は、突然名を呼ばれて息を詰めた。
驚いて瞠った目を上げる。
すると、眠りこけていたはずの家主――不知火ゲンマが、侵入者――シノを覗き込んでいた。
「どうした?」
心配そうな顔と声。
そっと伸ばされた手が頬を包み、呆けるシノの目元を拭う。
甘い芳香が鼻につく。
身に浸みる温かさに、喉が痛く、熱くなり、シノは堪えきれずゲンマに抱き付きしがみついた。
押さえ込まれた涙と嗚咽が、無音の内に身体の震えを大きくする。
そんな身体を、ゲンマが腕を回して抱き締めてくれる。
しかし、胸に抱かれて尚、震えは止まらなかった。
あやすように背や頭を撫でられる。
額やこめかみに口付けを受け、シノは、落ち着くまで抱き締められていた。
「…………。……」
「ん…?」
落ち着きを取り戻したシノがゲンマの胸元に額を擦りつけ、もういいと言うように体を離せば、ゲンマは再びシノの顔を覗き込んできた。
「どうした…大丈夫か?」
眉を寄せ、怒ったような困ったような、情け無いようなシノの顔を、手の平で撫でつける。
斜めっていた姿勢を正し、ソファに座り直すと、ゲンマは微かな笑みを浮かべた。
懐いてくる、この油女シノという少年との付き合いはかれこれ3年近くになるが、いまだに変わった子だと思う。
初めて接触した時はハヤテに似ていると思ったし、ふとした瞬間に似た雰囲気を感じることはあるが、
やはり実際付き合ってみるとほとんど似ていない事がわかった。
まず、笑わない。
にこりともせず、あまりの無愛想ぶりにこちらが可笑しくなってしまう事もしばしばだ。
頭に手を乗せ撫でてやれば、照れくさそうに微笑んだハヤテに対し、シノは眉間の皺を深めてそっぽを向き照れ隠しをする。
そんなシノに、ゲンマは愛しみの情を込めて微笑みかけた。
今はもう……ハヤテの面影を見ることはない。
ハヤテの死は、月日と共に和らいで、逃れようとした感傷は思い出へと昇華されつつある。
ハヤテの存在が薄れ、風化していると言えばそうだろう。
しかし、忘れることは無い。
死ぬまで忘れないと腹を括ったからこそ、その存在は確固とした記憶として刻まれた。
もうこれ以上、失うことはない。
喪う可能性があるのは、この、ハヤテに似ても似つかぬ少年だ。
昔に比べれば随分と平和になったものだが、それでも忍という生業に身を置く以上、明日にでも死んでいるかも知れないのは同じ。
手に入れた瞬間から苛まれる、この子もまたいつか喪うのだという予感は、しかし手を出してしまった以上怖れていても仕方がない。
過去に踏ん切りを付けながら。
未来に恐怖と不安と一縷の希望を抱きながら。
今を生きよう。
そう思えたのはこの子の――シノのお陰だ。
「…………」
ゲンマがじっと見つめてくるので、シノは不機嫌そうにきゅっと眉を顰めた。
「…なんだ、見られるのにまだ慣れないのか?」
可笑しそうにそう言うゲンマに、シノが更に眉間を寄せれば、ゲンマも更に笑みを深める。
その笑顔を、シノは怨みがましい目で睨んだ。
慣れるどころかゲンマに見られる度、ますます落ち着かなくなるのだ。
アンタのせいだ、と色々な思いをひっくるめて八つ当たり的に睨み付ける。
だが、ゲンマが悪いわけではない。
それは自分が一番よく解っていたし、優しく笑うゲンマに邪な目を向けていられなくなって、シノはふいと視線を逸らせた。
だが「シノ」と名を呼ばれたので、おずおずと再び視線を戻す。
と、先程まで笑みを浮かべていたゲンマが真面目な顔で見つめていて、ドキリとした。
「……で、何で泣いてた」
「…………」
真剣な声と眼差し。
そして頬を包む掌が、今度は視線を外すことも許さない。
とは言え、ゲンマがハヤテにまだ想いを残しているのかとか、過去、ゲンマとハヤテがどんな付き合いをし、過ごしていたのか
等々を考えたら苦しくなって……とは、まさか言えないだろう。
言えば困らせるだけだし、女々しいとは思われたくない。
だが、嘘も吐きたくなく、考えた末に、シノは苦肉の策を捻り出して言った。
「あ……アナタが好きだからだ」
これで恥ずかしそうに頬でも染めて言うならば可愛げもあるのだろうが、文句があるかとばかりに顰めっ面で言い切ったシノに、
ゲンマはきょとんと間の抜けた顔をして――――吹き出した。
泣いていたシノに代わって、今度はゲンマが笑い泣きで涙を流す。
そして震える体で、シノは抱き締められた。
「~~~~っ、~~~っ、」
「…………何が可笑しい…」
声も出せぬほど笑うゲンマに抱き竦められ、憮然とするシノ。
苦肉の策とは言え、嘘ではないし間違ってもいない。
自分はゲンマが好きで、好きで、だから泣いたのに、それを笑うとは何事だ。失礼にも程がある。
だがそれでもゲンマは笑い続け、震えが収まるのに暫く時間を要した。
「……っ、は…はぁ…」
そうしてゲンマが落ち着いた頃にはシノの機嫌は損ねに損なわれ、最悪状態。
それはゲンマも判っているのか、笑い止んでも、抱えたシノの頭を放さなかった。
「…………」
「ごめん。悪かった」
「…………」
「お前があんまり可愛いこと言うもんだから」
「…………」
「ほら、機嫌直せって」
「…………」
それでも直らないシノの捻くれ曲がりくねった機嫌に、ゲンマはまたちょっとだけ笑って、少しだけ、抱き締める腕を緩めた。
「俺も好きだよ……」
耳元で、そう囁く。
シノは頑なな態度こそ崩さなかったが、その耳が真っ赤に染まったのをゲンマは見逃さなかった。
可愛いなぁ、と思い、改めて抱き締め直す。
こういうのを見てしまうと、からかいたくなってしまうのは悪い性分だろうか。
「……シノの絵」
と、ゲンマはわざと、悪戯に付け足してみた。
「………。……え…?」
「スケッチ。してただろ?」
「な…何故それを…」
シノが振り向こうとするのを、頭を押さえてそうさせない。
察しの良さから気が付いたのか、「まさか…」と言ったシノに、ゲンマは微笑んで答えた。
「そっ。ずっと起きてた」
「…………、…………、…………、」
シノは何か言いたげな雰囲気を惜しみなく醸し出しながらも、言葉を呑み込み、呑み込み、呑み込んで、呑みくだした挙げ句、
結局文句の変わりに、押さえられた頭をゲンマの体にぐっと押し付けてきた。
責めるようなその無言の抗議に、ふふと笑うゲンマ。
本当に、愛おしくて堪らない。
「お前の気配に、俺が気付かないわけないだろ?」
そう言って、ゲンマは痛いぐらいに押し付けられる頭をぽんぽんと撫でてやった。
玄関の前に立った時から気付いていた気配。
鍵を開けていたのは、今日シノが来ると知っていたからだ。
合い鍵を渡していつでも入って良いと言っているのに、シノはそれを使わず、いつもゲンマが開けるのを待っている。
それならばと、最初から鍵を開けておいたのである。
ピンポンとチャイムが鳴った時、最初は「開いているから入れ」と言うつもりだったのだが、
寝そべって何度もチャイムを聞いているうち、このまま黙っていたらどうするだろうか…という好奇心が湧いた。
だからそのまま、じっとしていたと言うわけだ。
今思えば、鍵を掛けたままにして黙っていれば、合い鍵を使わせる事ができたかもしれない…と少し残念に思うが、まあ仕方ない。
入ってきたシノが青ざめた顔で覗き込んできたのには驚いたが、そのままたぬき寝入りを決め込んでいると、
シノは何事か言って掛け布団を持ってきてくれた。何と言ったのかは聞こえなかった。
正直、動いた唇にキスでもしてくれるのでは…と少し期待もしたのだがそれは叶わず。
しかし布団を掛けてくれるシノの優しさに、ゲンマは思わず涙ぐみそうになった。
涙もろくなったのは歳のせいか…。
だがそこは、じいっと眺めてくるシノの前だ。何とか堪えていると、シノがスケッチを始めたのが分かった。
観察好きは相変わらずらしいと一瞬感心もしたのだが、それにしても…と思ったのは、起きるタイミングを掴み損ねたという小さな後悔。
休みということで油断していたのだろうか。
感知能力の高いシノのことだから、寝たフリなどすぐに看破されると思っていたのだが、あまりにも気付かれないので起きるタイミングが掴めなかったのだ。
ゲンマはどうしようか…と思いながらも、取り敢えずシノがスケッチし終えるのを待つことにした。
そして、待った結果、シノが泣きだしたものだからビックリだ。
しかもその理由が、『アナタが好きだから』である。堪ったもんじゃない。
本当に面白い子だと、ゲンマはシノを抱きながら思った。
一緒にいるだけで頬が緩み、思わず笑顔になってしまう。
シノが来るというだけで、無頓着な自分が掃除に精を出し、新居のようになるまで部屋をピカピカにするのだからその影響力は計り知れない。
(まったく、重症だな……)
ゲンマは自嘲的な笑みを浮かべると、漸くシノを解放し、その顔を正面から見た。
ムウッとした不機嫌な顔から怒っているのだろうことは窺い知れるが、それすらも可笑しくて、ゲンマの笑みは絶えない。
「そんな顔すんなって。良いモンがあるんだ。食うだろ? 食うよな!」
シノの頭をくしゃっと撫でると、ゲンマは景気良く言った。
「…………」
シノの答えを聞かずに立ち上がり、冷蔵庫の方へと向かうゲンマ。
そして冷蔵庫ではなくその横に置かれた袋をガサガサと漁って、取り出したのは―――。
「も……モ…?」
それまで不機嫌を体現していたシノが、ゲンマが手にした物を見て僅かに表情を変えた。
ゲンマが取り出したのは、それこそ桃色の、美味しそうな桃だったのである。
「美味そうだろ? 今切るから、ちょっと待ってな」
そう言って、鼻歌交じりに台所へと消えるゲンマ。
一方シノは、呆然としてその姿を見送っていた。
鼻につく甘い香り――。
金木犀の香りが、部屋に侵入してきたわけでは無かったのだ。
シノは片手で口を覆い、愕然として座り込んだ。
ゲンマの寝たフリを見抜けなかったばかりか…。
まさか、
桃と金木犀の香りを間違えるなんて――。
有り得ない……と思いたいが、100%無いとも言い切れない。
否、もちろん、蟲に確認していれば間違えるはずはないのだ。
が、キバと違ってシノ自身の鼻は特に良いわけではない。
良いわけでは………ない……が…。
「…………」
「ん…? どうした?」
何やらショックを受けた様子で座り込むシノに、桃を切ってきたゲンマがお皿片手に首を傾げる。
「おーい、シノ~? シノちゃ~ん? 大丈夫かぁ??」
座り込んだシノの横に屈み、覗き込む。
シノはそれを避けるようにふいと顔を背けると、サングラスを掛け直し、キュッと眉を寄せて、キッとゲンマに向き直った。
その威勢に、オッ?! とゲンマが僅かに身を引く。
「……帰る」
だが、そう告げて立ち上がろうとするシノを、ゲンマは慌てて押し止めた。
「おいおいおいおい、何だ、急に」
「帰る」
「待て待て。待てって…!」
わけが分からない。が、このままはいそうですかと帰すわけにもいかないだろう。
「何だよせっかく切ってきたのに。桃、嫌いだったか?」
「……今日は嫌いだ」
「今日は…って何だよ」
「とにかく、今日はそう言う気分ではない。帰る」
「だから待てって」
「否、俺は帰――」
なんとしても帰ろうとするシノの、言葉が途切れる。
「―――っ、」
口を、口で塞がれていた。
味見でもしたのだろう。
桃の味と薫りがゲンマの口移しで侵入してくる。
「…ん……」
とろけるような、甘い、甘い、桃の芳香に、次第に力が抜けていく。
初めて。
初めてゲンマと話したのは、早咲きの桃の花の下。
シノはその時、一瞬だけだがゲンマのことを花咲爺かと思った。
後で聞いた話では、ゲンマはシノのことを妖精みたいなのと形容したらしい。
思えばあの時から……。
「は…ぁ……」
最初から、自分はこの人に惚れていたのかも知れない。と思う。
なんたって桃の花言葉は……。
私はあなたのとりこです――。
「帰らせるわけには、いかないな…」
ゲンマが口を放し、横たえたシノを真っ直ぐに見て言う。
サングラスは外されて、シノはその綺麗な目に目を奪われた。
「明日だってあるかわからねーんだ」
「…………」
「食いたくないなら別にいい。ただその代わり」
「…………」
「もっと甘いモンを、くれてやるよ……」
「…………」
そう言って再び、更により深く口付けてくるゲンマに、シノはゆっくりと、目を閉じた。
ゲンマが新居に引っ越してくれて良かったと思う。
少なくともここに、この部屋に、昔可愛がっていた人が来ることは無いのだ。
そんなことに安堵する自分を情け無く思うが、どうしようもない。
好きなのだ。
どうしようもなく。
好きで、好きで、堪らない。
温かさと幸せの中に刺さったままの棘は抜けないけれど。
今、この時だけは。
この、甘い色香に包まれる時だけは忘れよう。
優しく愛撫してくる愛しい人に、シノは声無く、その名を呼んだ。
*
脱ぎ散らかされた衣服の跡形(あとかた)。
テーブルの上には、食され損ねた桃の果実と、偽りの眠り人が描かれたノートが拾われて置かれている。
揺蕩(たゆた)う甘い芳香に微睡(まどろ)みながら。
今を生きる二人は、共に明くる日を迎えた―――。
fin...
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
お読みくださり、誠にありがとうございました!
ようやく…ようやく―――っ!!
暴走特急『ゲンシノ』に乗ることができました!!!
切符を手にしたはいいものの、なかなかゲンマさんを捉えることができず。
結局konno様やこげ太様のゲンマ像(+ゲンシノ像)を参考&拝借させて頂いてしまいました(汗)
(だってお二人のゲンマ&ゲンシノがそれぞれに、あまりにも素敵だったんですものっ)
(この設定良い! この小道具使いたい! …て、妄想が止まらなくってっ)
(二次に止まらず三次創作好きな私に、これはもうどうしようもないじゃないですかっ!)
そんなわけで!!
この度はkonno様の小説を基に、こげ太様のゲンシノ像もお借りして、
なんとも(材料だけは)贅沢な甘い甘~いゲンシノを書かせて頂きました…!!
お得意の花言葉なんかも練り込ませてしまいまして、またやってしまった感は拭えませんが(汗々)
ゲンシノ企画への参加ができて、良かったです―――!!
お二人には切符から乗車まで何から何まで、感謝感謝でいくら感謝してもしきれませんっ!!
本当にありがとうございます!!!
そしてどうぞ、これからも宜しくお願い致しますっ!
(09/12/5)