何時からか知れない。
興味と好奇心が、いつの間にか欲望に変わって。
「あいつ、色っぽいよな」
シカマルにふと零してしまった一言が、今では重さを増している。
愛だの恋だのきれいなものではなくて。
ただただ、欲しい。
けれどその一線の前で踏み止まっているのは、正義なのか、臆病なのか。
確かな事は。
爪先だけでも一線をこえれば、後は、雪崩れていくだけという事…。


逢魔が時


「あ゛あぁぁ、くそっ!」
ずるずると絶え間なく垂れてくる鼻水をチーンとかんで、猿飛アスマは唸った。
かみすぎでちりちりと痛くなった鼻からは、枯れない鼻水が再び垂れてきて、これではキリがないと、乱暴に丸めた鼻紙を満杯になったゴミ箱へ放る。
けれど紙くずは空気抵抗に負けて、ふわりとゴミ箱の手前で力尽きて落ちた。
それが更に苛立ちを煽り、アスマは最後の一枚をティッシュ箱から抜き取ると力任せにチーンと鼻をかんだ。
頭がじんじんとしてぼうっとする。
耳も、膜が張ったようにおかしくなる。
鼻からは、再び鼻水。
もう情けなくて怒る気にもなれず、アスマはばったりとベッドに上体を倒した。
「あ゛ぁぁぁ……やっぱ休んでおきゃ良かった…」
一昨日に崩した体調は、昨日の任務を経て完璧に悪化してしまった。
「風邪はひき初めが肝心」だと言ういのに「大丈夫」だと笑ってみせた手前、この醜態はなんとも情けない。
が、嘆いても最早手遅れだ。
チクショウ…と弱々しく悪態をついて、閉じた目を手で覆う。
ティッシュを取りに行くのも怠くて面倒臭い。
もう眠るしかないと、呆ける頭の中で羊を生贄に睡魔を呼び出し始めた。


それから数時間後。
睡魔の召還に成功したらしく、アスマが気が付いた時には既に昼を大きく過ぎていた。
「……ん?」
顔を窓の方へ背けた拍子に何かが額からずり落ちて来て、何だと手に取ってみれば、白いタオル。
はてこんなもの乗せたっけかとぼんやり思っていると、ガチャリと戸のドアノブが回った。
弾けたように体を起こして、無意識の内に警戒態勢を取る。
だが、部屋に入ってきた者を見て、唖然とした。
「………………シノ…? おまえが…何で、ここに……?」
ここ、俺ンちだよなぁ…?と見回せば、間違いなく自分の部屋である。
「おはようございます。お加減はいかがですか?」
しかし、アスマの困惑を余所にシノは淡々とそう言って、まるで自分の家のように入ってきた。
アスマの手にある温くなった白いタオルを取り、新たに絞ってきたらしい冷えたタオルを握らせる。
そして、無造作にアスマの額に掌を当てた。
「起きたばかりなのに、熱いですね。寝る前に薬は?」
「…………飲んでない…」
疑問に答えないまま医者の如く指摘し尋ねるシノに、アスマも患者になった心持ちで大人しく応える。
何故シノが自分の家に居て、しかも自分の看病をしているのかという疑問が解消されたのは、
計ってくださいと差し出された体温計を素直に口に銜え、結果が出た後だった。
「シカマルに、頼まれたんです」
「シカマルに…?」
「アスマがぶっ倒れたから、看病にでも行ってやれと」
「………………なるほど…」
シカマルの口調をそのまま再現するシノに、アスマは多大なる違和感を感じたが、どうにか呑み込んで言った。
「2時間程前に来て、チャイムを鳴らしても反応がなかったので、失礼ながら窓から入りました」
窓から出入りするというのは、好ましくはないが忍同士ではよくあることだ。
ぶっちゃけ玄関より手っ取り早いし、楽なのである。
大体、真に重要な物は里の主要機関に保管してあり、上忍の家と言えども盗まれて困る物はほとんどない。
強いて挙げれば当人の私有財産くらいだが、忍の家に盗みに入る時点で其奴はよっぽどの馬鹿だ。警戒するだけ無駄というもの。
そんな理由で、アスマも御多分に漏れず窓の鍵を開けっ放しにしている一人だった。
だから、シノも不用心だとは言わない。
「それから失礼ついでに、台所もお借りしました」
「台所…?」
「お粥を作りました」
「………作ったって…お前が…?」
「はい」
何か問題でも、と言うような態度で答えるシノ。
問題は無いんだけれども。
これは夢なのではないかと、アスマが頬を抓ると、痛かった。


シノがお粥を取りに部屋を出て行くと、寝惚けていた体調不良も復活しだす。
垂れてきた鼻水に慌ててティッシュに手を伸ばしたアスマは、はっとした。
そこには真新しいティッシュの箱が置かれていて、しかもよく見れば満杯だったゴミも、入れ損ねた紙くずも、きれいに無くなっている。
考えるまでもなく、シノが片付けたのだとわかった。
捨てやすいように手の届く位置に置き直されたゴミ箱に鼻紙を捨ててから、先程握らされたタオルを見て、つくづくマメな奴だなと思う。
シノが戻ってくると、お礼の一つでも言っておくかと思ったアスマだったが、シノの持つ陶器の器の中身を見て、その考えは一瞬で弾け飛んだ。
「…………何で、お粥にアスパラガスが入ってンだよ……!?!」
心底驚愕し戦くアスマに、シノも僅かに驚いた風に言う。
「先生の好物だと」
「…………………あいつ、俺に恨みでもあんのか…!?」
ヘッと、揶揄するようなシカマルの顔が浮かんで来て、思わず頭を抱え込む。
本気で冗談じゃないし、洒落にもならない。
「……嫌いなんですか?」
「大っ嫌いだ!!」
大人げなかろうが嫌いな物は嫌いだと、アスマはシノに向かってきっぱり言い切る。
アスマの熱意に負けたのか、はたまたシノもお粥にアスパラガスはどうかと思っていたのか、早々に取り除いてもらって、
漸くアスマは食事にありつくことができた。
シノの手作りお粥はとても美味しく、しかもちゃんと食べやすいぐらいに冷ましてあって、程よく体が温まる。
もしこれで熱いままだったら、ふぅふぅ冷ましてはいあ~ん、なんてことになったのだろうかと漠然と考えてしまい、
何考えてんだ俺はとアスマはちょっと赤くなって頭を振った。
食後は、再びシノの診察。
「症状は鼻と熱…。咳は、出ないんですよね?」
「ああ」
アスマが頷くと、シノも頷き、紙袋の中から薬を取りだし始める。
「シカマルから薬を預かってきました。その症状であれば、これと、これを飲んでください」
シカマルのメモらしき物を見ながら、丸薬と粉薬を一つずつアスマに渡して、シノが言う。
「それから、眠る前に着替えてください。体も拭いた方が良い」
「え~、いいって。このままで。めんどくせぇし…」
「ダメです。清潔にしないと、ウイルスや菌の温床になります」
そう言われると、なんだか自分がバイ菌の養殖場になった気がして、アスマはうっと押し黙った。
その観念した様子に満足したような雰囲気で、シノはアスマに替えの寝間着の場所を聞いて取り出し、布団の上に置く。
そして薬と一緒に持ってきた熱めのタオルを手にして、言った。
「では、脱いでください」
「………へ……?」
「体を拭くんです」
「お…ぉおお前が??」
「背中届かないでしょう?」
突然狼狽えだしたアスマに小首を傾げながら言うシノに、アスマは真っ赤になってシノからタオルを奪い取り、全力で断る。
「い…いい! いいから! 自分でやるから! お…おま……外出てろ!」
アスマの動揺っぷりに些か吃驚していたシノだったが、病人をこれ以上興奮させてはいけないと考えて、わかりましたとアスマをなだめてから、部屋を出て行った。
そして、ぱたんと閉めた戸の向こうで、新たな発見に心底からしみじみと呟いた。
「意外と恥ずかしがり屋なのだな…」
と。

シノにそんな認識をされたとは露知らず、アスマはシノが出ていった戸を暫く見つめてから、大きく息を吸い、はあぁぁぁぁと吐いた。
拍子に出てきた鼻水をずずっと啜って、脱力感たっぷりに再び溜め息をつく。
「…………まったく……」
まだ心拍数は上がったままだが、それでも冷静になった頭でシカマルのお節介を恨めしく思う。
シノもシノだ。
あれでは俺に襲えと言っているようなもんだぞ。
と、項垂れながら、また垂れてきた鼻水を啜り上げた。
それからなんとか気を取り直し、よろよろと起き上がって一日中来ていた寝間着を脱ぎ、熱いタオルで体を拭けば、確かに気持ち良い。
新しい寝間着を着れば、随分とさっぱりした。
次に、棚に置かれたほんのりと温かいぬるま湯の茶碗を手に取って、シノに手渡された薬を流し込む。
良薬口に苦しなのか。苦い粉薬と青臭い丸薬に、顔を顰める。
けれどなんとか飲み込んでほうっと一息ついた時、こんこんとノックの音がし、シノが呼びかけてきた。
「入っても大丈夫ですか」
「あ……ああ。いいぞ」
先程の醜態を思い出して僅かに困惑したが、シノが何とも思ってなさそうな様子で入って来たことに救われる。
実際、さっきのことには全く触れずに相変わらず淡々としていた。
アスマが脱ぎ捨てた寝間着を拾い上げ、飲み干した湯の茶碗と粉薬の袋を片付けて。
体を拭いたタオルを引き取ると、アスマに寝るように指示を出す。
横たわったアスマにタオルケットと掛け布団をきちんと掛けて、氷水で冷やしてきたらしい冷たいタオルをアスマの額にそっと乗せた。
甲斐甲斐しいな……と、その献身的な態度にアスマは感服する。
「なぁ」
それまで黙ってシノに従っていたアスマが、ふと、尋ねた。
「なんで、ここまでしてくれんだ?」
「…………シカマルに頼まれたからです」
アスマの問いにきょとんとしたシノが、何でそんな事を聞くのかと不思議そうに答える。その答えに、それだけかよ、とアスマは苦笑した。
そんなアスマをシノは暫しじっと見ていたが、そっと伸ばした手をアスマの頭に置いた。
「それから、俺も、アスマ先生に早く良くなってもらいたいですから」
言いながら、優しく頭を撫でる。
ガキ扱いかと思ったアスマだが、気持ち良さに悪い気はしない。
食事と薬の効果か瞼が重くなってきて、閉じればもう開けられなくなる。
今にも子守唄が聞こえてきそうな雰囲気の中で、睡魔が、今度は生贄なしでやって来た。
「お休みなさい」
静かな声が、意識の奥に淡く届いて、ふっと消えた。



再び目が覚めた時は、既に黄昏れ時だった。
のっそりと起き上がってみれば、随分体が楽になっている。鼻水も、出てこない。
流石は奈良の薬。良く効くもんだと感心していると、喉の渇きを覚えた。
ふいと見れば、薄暗い中脇の棚にペットボトルが置かれているのを見つけて、思わず笑みが零れる。
どれだけマメなんだと、感心を通り越して最早呆れた。
水分補給をして、そう言えばシノはどうしたのかと思い、アスマが布団から起きだして部屋から出れば、リビングに電気は付いていない。
流石に帰ったかと思った矢先、落とした視線の先にソファにもたれたシノを見つけて驚いた。
目を懲らしてみれば、どうやら眠っているらしい。
サングラスに隠れて閉じた目はわからないが、夜目に映った姿は力無くソファーに沈んでいる。
いつも寄っている眉間に皺が無く、僅かに開いた口に、十分あどけなさが伝わってきた。
「やっぱ、寝顔はカワイイもんだな…」
どんなに大人びていようが寝顔は幼いなと、アスマはしげしげと無防備で微笑ましい顔を覗きながら、呟いた。
だが、じっと見つめている内に、浮かべた微笑みが消えていく。
そして、無造作にその無防備な顔に被さって…。



魔が差したとしか、言いようがなかった。



きっと、睡魔を召還する際に妙なものまでくっついてきてしまったに違いない。
離した唇に残る微かな温もりに、体の芯が強張った。


一線の前で踏み止まっているのは、正義なのか、臆病なのか。
わからない。
だが、確かな事は。
爪先だけでも一線をこえれば、後は、雪崩れていくだけという事。


アスマは喉を鳴らして、お前が悪いんだぞ、と口を動かした。
こんなに無防備で、無警戒で、まるで誘っているかのようなお前が悪い。
そう心の中で唱えながら、覆い被さろうとした。

その時。

「………ん…」
アスマの気配を感じ取ったのか、シノがゆっくりと意識を取り戻した。
雪崩れ込む瞬間の出来事に、アスマはフリーズする。
このまま行ってしまうか、それとも引くべきか。
臆病を打ち壊すか、正義を守るか。
ぼんやりとした頭と視界で、それでも目の前にいるのがアスマだと認識したらしいシノが、徐に手を伸ばす。
「……………具合は……熱は…?」
その場に固まったアスマの顔をぺたぺたと手で触り、額に己の額を当てて、熱を測り終えて顔を離すと、小首を傾げる。
「おかしい……あまり下がってない…」
シカマルの薬が効かないはずはないが、と言って不思議そうに眉間に皺を寄せる。
その様子に、アスマは結局後者を選ばざるを得なくなった。
「アスマ先生。ちゃんと眠れましたか?」
「あ…ああ……」
「………………俺が薬を間違えたのか…?」
不思議そうな声が自問の呟きに変わって、眉間の皺を深めるシノに、アスマが気が抜けていくのを感じた。
「シノ…。顔、放せ」
アスマの声にはっとしたシノは、両手で挟んでいたアスマの顔をぱっと離す。
「すみません」
「否。………それから、具合はだいぶ良くなった。お前は間違えてねぇよ」
謝るシノの頭に、アスマは手を乗せて言った。
「…………そうですか?」
「ああ。だから、お前帰れ。もうすぐ暗くなるから」
まだ訝しそうなシノの声に微笑ってみせて、ぽんぽんと頭を撫でながらアスマが促せば、シノはしぶしぶながらも頷いた。
要らないと言うシノに、アスマは外の空気が吸いたいからと強引に見送りに付く。
「お邪魔しました」
帰りはちゃんと玄関から出たシノが頭を下げた。
「いや。こっちこそ、今日はありがとな」
「どういたしまして。しかし、風邪は治りかけが大事です。ぐれぐれもお大事に。それから、汗を掻いたら面倒くさがらずにちゃんと着替えてくださいね」
「あ~、はいはい」
「はいは一回」
「………………ハイ
よろしい、と言うように頷いたシノに、アスマは思わず苦笑いを浮かべた。なんだか、ママゴトに付き合っている気分だ。
だが、シノは至って真面目で、再びお大事にと注意してから帰っていった。
その後ろ姿が見えなくなると、アスマは戸を閉めて、窓が開けっ放しなのだからしても意味がないのに鍵を閉めて、チェーンを掛ける。
そうして、リビングに戻ると、どさっとソファーに身を沈めた。
先程のシノと同じ位置に、同じように。
「何やってんだ、俺は………」
逢魔が時の闇の中。
アスマは、顔を手で覆った。





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あとがき
えぇっと…。
裏のアスシノを読まれた方はおわかりかと思います。
シノと関係を持つ前のお話です。
要するに片思いな時。
一応、読まれていない方にも通じるように書いたつもりなんですが…。
どうだったでしょうか……。
言い訳をしますと。
最初は裏とつなげる予定ではなく、だたの風邪ネタだったんです。が。
シカマルのお節介が楽しくて、つい…(苦笑い)
もしダメだしがあったら、是非教えてください!!(平に) 












(07/9/30)